魔王ベリアル
再戦の末アミーを倒した樹流徒は、人心地つく間もなく動き出す。やや足早に広場の隅まで歩いて、下へ降りるエレベーターに乗った。
たしかこの辺りにエレベーターを起動させるスイッチがあったはずだ。
そう思って床を注意深く見回すと、一ヶ所に四角い溝があるのを見つけた。隠しスイッチだ。溝は線と呼んでも良いほど浅く細く、よほど注意深い者でなければこれを見つけるのは難しいだろう。樹流徒はスイッチの位置を大体覚えていたためそれほど苦なく発見できた。
足で強く踏むと、スイッチが硬い音を鳴らして凹む。それに反応して床が赤い光を点滅させた。点滅が何度か繰り返されると光が消え、樹流徒を乗せたエレベーターは一度だけガタンと何かが外れる音を鳴らしてゆっくりと沈み始める。
広場の下は完全に真っ暗だった。火山の内壁を覆っていた金属製の壁もここにはない。
上へ上へと流れてゆく闇を見つめながら、樹流徒は心を落ち着かせた。このあと始まるであろう魔王との戦いに備えて精神を研ぎ澄ませる。物音ひとつ無い辺りの静寂が彼の集中を助けた。
やがて空気の流れが変わる。エレベーターが徐々に落下速度を上げ始めたようだ。
このままどこまで降りるのだろうか?
さして気にするようなことでもなかったが、樹流徒は床の墨に立って下の様子を覗いてみる。
遥か遠くに床が見えた。先ほどまでいた広場よりもずっと大きい。火口に蓋をしても尚スペースが余るであろう巨大な床が闇の中に浮かんでいるのだ。金属で作られた床の表面ではいくつもの赤い光が自動車のウインカーみたく明滅していた。その間を縫うようにして太いパイプが数本這っている。床全体がとてつもなく大きなひとつの装置なのかもしれない。
よく見ると、床にはひとつだけ丸い空洞が開いている。その穴に向かってエレベーターは落下しているようだった。
下の様子を観察していた樹流徒はその場から離れてエレベーターの中央に戻る。加速を続けるエレベーターは間もなく機械仕掛けのフロアに到着し、空洞に吸い込まれていった。
中に光が灯っているわけでもないのに、樹流徒の視界が真っ白になる。
「これは……ワープか」
同じ現象を何度も体験している彼はすぐに理解した。機械の正体がエレベーターを転送するための巨大な装置であったことも同時に察する。
エレベーターは火山内部のどこかにワープした。白一色に染まっていた樹流徒の視界に周囲の景色が蘇る。
かと思いきや、いきなり真上から小さな明かりが降ってきて、樹流徒は頭上を仰いだ。
そこにはついさっき見たエレベーターの転送装置と同じ物体が浮かんでおり、イルミネーションのように沢山の光を明滅させていた。多分こちらは下から昇ってきたエレベーターを転送させるための装置だろう。
その存在に気を奪われたのも束の間、樹流徒は辺りの空気が赤く色づき始めているのに気付いた。それだけではない。肌がヒリヒリと焼け付く。ただでさえ暑いこの世界が更に熱を増し始めたのだ。気を抜けば立ちくらみを起こしそうな熱さだった。突然の出来事に、樹流徒はやや緊張感を高める。
すべての原因はエレベーターの真下に迫ったマグマの海だった。ドロドロとした水面が泡を立てながら鈍く揺らめき、真っ赤な光と熱を放っているのである。
マグマの中には長い筒状の建造物が二本突っ立っていた。エレベーターがマグマの海を通過するためのトンネルだろう。どういう素材が使われているのか、トンネルの表層を覆う金属は新品同様の輝きを放ち経年劣化の跡がまるで見られなかった。
樹流徒がマグマの存在に気付いた直後、エレベーターはトンネルの中へと突入していった。火山の底を通過して地中へ潜っているらしい。魔界血管は火山の下に隠れていたのだ。
トンネルの長さは百メートル前後だった。中は真っ暗で、マグマの海を潜っているというのに暑いどころかむしろ涼しい。ただ、激しく上下する気温の変化に樹流徒はやや表情を険しくさせた。
エレベーターは一定の速度を保ってトンネルの中をつき抜ける。そして遂に、この世界の果てに到着したのだった。
トンネルを抜けた先に現れたのは、全面ゴツゴツした岩に囲まれた四角い空間だった。地下に存在するとは考えられないほど広い。壁や地面のあちこちに巨大な鉱石が埋まっており、それらが紫色の幻想的な光を放っている。おかげで空間全体がぼんやりと明るかった。
そしてこの空間の奥まった場所には、樹流徒が探し求めていた物体が浮かんでいる。巨大なリングとその中で渦巻く赤黒い光――魔界血管だ。
と、そのとき。樹流徒の足下から大きなどよめきが起こった。地上に悪魔たちがひしめき合っているのだ。その数はざっと見て数千。樹流徒とアミーの戦闘により今まで足止めを食らっていた者たちである。
彼らの内、一体どれだけの数が樹流徒の出現を予想していただろうか。樹流徒がエレベーターに乗って現れた途端沸き起こったどよめきは、その大半がアミーの敗北に驚いた声らしかった。多くの悪魔は、アミーが首狩りを始末して悠々と下に降りてくるはずだ、と予想していたのだろう。
それを見事に裏切った樹流徒は全身を緊張させた。下で待ち受ける悪魔たちがこのあとどのような行動に出るか分からない。慌てふためいて逃げるか。あるいは襲い掛かってくるか。数千という数の悪魔に襲われては、いくら樹流徒でも生き残るのは難しかった。
かといって今更引き返せはしない。樹流徒は戦慄を覚えながらも異形の群れの中に降り立った。周囲の悪魔たちから敵意と好奇の視線を向けられる。今まで何度か感じたことのある視線だが、今度は数が違った。異分子を見つめる数千の瞳に取り囲まれて、樹流徒はかつてない恐怖を覚えた。
悲鳴を上げて逃げ出す者はいないが、樹流徒に襲いかかろうとする者もいない。樹流徒がエレベーターから降りると、周囲にいた悪魔たちは少し後ずさる。それに反応したように、奥のほうから異形の群れが一斉に左右へ割れた。樹流徒の眼前に魔界血管までの道が開かれる。
悪魔たちがあまりにもすんなりと自分を先へ進ませようとするので、樹流徒は却って不気味さを覚えて動きを止めた。それでもじきに一歩踏み出す。異形の群れが作り出した道の中を歩き出した。
立ち並ぶ悪魔たちは強烈な殺気を放ちながらも、引き続き樹流徒に手を出そうとはしない。
これだけ多くの悪魔たちがいるのに誰も戦いを挑んでこない。何故だ?
ますます妙だと思いつつも、樹流徒は進むしかなかった。
並足で先へ向かうと、やがて道の果てが見えてくる。
そこに何者かが待ち受けていた。魔界血管を背景にして、恐ろしく大きな玉座が置かれている。大き過ぎて玉座というよりは妙な形のモニュメントに見えた。そこに一体の悪魔が腰掛けているのだ。
見るからに強気な性格を思わせる顔つきの大男だった。人間で例えれば外見年齢は三十歳前後。金色の髪を逆立て、額から二本の角を生やしている。血よりも赤い眼中の中心では紫色の瞳が怪しげな光を揺らしていた。赤を基調とした全身のところどころに黒い模様が混ざっており、背には灰色に染まった六枚の翼を持っている。
また、その悪魔の傍には女の姿をした悪魔が数体寄り添っていた。彼女たちは樹流徒の存在をまるで意に介さず玉座の悪魔に媚態を売っている。玉座の前には空になった酒のビンがいくつも転がっており、何とも淫蕩な雰囲気が漂っていた。
何故こんな場所に玉座が置いてあるのか? という疑問はこの際些細なものだった。そんなことよりも玉座に腰掛け女をはべらせているこの大男の悪魔は、間違いなく魔王ベリアルだ。体の大きさもさることながら、その圧倒的な存在感はひと目見ただけで並の悪魔ではないと分かった。
樹流徒はベリアルと思しき悪魔の正面で立ち止まる。
対して玉座の悪魔はなぶるような視線で樹流徒の全身を見て
「よくここまでたどり着いたな、キルト」
と低い声で、機嫌が良さそうに語りかけてきた。それでも明るい口調の内に潜む凶暴性がまるで隠しきれていない。第一、目が笑っていなかった。樹流徒でなくとも、この悪魔がかなり好戦的な性格をしていると想像できる。
「魔王ベリアルだな? 俺を待ち構えていたのか?」
樹流徒が問うと、玉座の悪魔は少々面倒そうに頷く。
「ああ、そうだ。ベルフェゴールがやられたと聞いて、オマエと戦うためにずっとここで待っていた。オマエはここから先へは進めない。そして引き返すことも叶わない。オマエここでオレと戦い、ただ消えるのだ」
ベリアルは己の勝利を全く疑っていなかった。
周りの女たちは揃ってニヤニヤしている。樹流徒とベリアルが会話をしている今でさえ、彼女たちは樹流徒の存在など眼中に無いらしく、ある女は地面に座りベリアルの脚に頬を寄せ、またある女は玉座から身を乗り出してベリアルの首に腕を回し甘えている。
「お前もバベル計画の参加者か?」
樹流徒が次の質問をすると、ベリアルはにやりとした。
「バベル計画? なるほど。それがベルゼブブが進めている計画の名称か」
その口ぶりからして、この魔王は計画とは無関係のようだ。
「ジツを言えば、オマエを倒せばそのバベル計画とやらの詳細をベルゼブブから教えてもらえる約束になっている。ただし断っておくが、オレがオマエと戦う動機は計画について知りたいからじゃない。純粋にオマエとの勝負を楽しみたいからだ。だから、ここにいる連中にはオマエに手出しをしないよう命じてある」
なるほど、この空間にいる悪魔たちが強烈な殺気を放ちながら誰一人として樹流徒を攻撃しないのは、そうするようベリアルから指図されているからなのだ。
ベリアルがのそりと玉座から立ち上がった。まとわりついていた女たちは離れ、嘲りと憎しみが混じった瞳を揃って樹流徒に向ける。そして魔界血管の近くまで下がった。
それを合図にほかの悪魔たちも一斉に動き出す。ある者たちは樹流徒とベリアルからある程度距離を取り、またある者たちはエレベーターに乗って昇ってゆく。これから始まるであろう樹流徒とベリアルの戦いを妨害しないように。
「俺はバベル計画と無関係な悪魔とは戦いたくない」
樹流徒が告げると
「生憎オレは戦いたくて仕方がない。悪魔の力を持つニンゲンとの勝負など、今回の機を逃したら二度と味わえないだろうからな」
己の闘争心を煽るようにベリアルは軽く興奮する。
こういう手合いに言葉は通じない。たとえ樹流徒がどれだけ説得を重ねたとしても、戦いは避けられそうになかった。魔王相手では手加減もできない。不本意ではあるが、樹流徒は全力でベリアルに立ち向かう覚悟を決めた。
やがて二人の近くに誰もいなくなると
「じゃあ始めるか」
ベリアルは嬉々とした様子で全身の関節を動かす。そのたびにゴキンゴキンと金属の棒を無理矢理折ったような音が鳴った。
次にベリアルは五本の指をいっぱいに広げ、天に向かって掌をかざす。
樹流徒たちから少し離れた場所に赤い光が生まれた。それは宙を走って空間に線を引き、樹流徒たちを囲う直方体を描く。全ての面が黒く染まり波のようにゆらゆらと揺れた。
魔空間だ。ベリアルが頭上に手をかざしてからものの数秒。樹流徒は魔空間の中に閉じ込められた。
「これでもうオマエは絶対に逃げられない」
ベリアルは目を眇めて笑う。そしていきなり何を思ったか、大きな足の裏で玉座を蹴り飛ばした。
びっくりして玉座が飛び跳ねる。かと思えば、それは着地と同時に全身を変形し始めた。体が縦に割れて、内部に収納されていたニつの車輪が飛び出す。あちこちから巨大な針が突き出て、手すりからは大砲らしき筒がせり上がり、最後に車輪から炎が燃え上がった。
戦車である。玉座が変形して炎の戦車になった。
内心驚く樹流徒の目の前で、ベリアルは戦車の上に飛び乗る。
魔王の体重を受け止めた戦車は自ら意思を持ったように動き出した。ギチギチと硬い音を鳴らして炎の車輪を回す。かなりゆっくりとした速度で樹流徒に近付きはじめた。
玉座の変形に目を奪われていた樹流徒は我に返る。もう戦いは始まっているのだ。わざわざ敵が接近してくるのを待つ必要は無い。先制攻撃を仕掛けようと、彼は掌を前に突き出した。
するとそれを待っていたかのように戦車が急加速する。地面を擦る車輪から白い煙を上げて、樹流徒に向かって突進した。