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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
201/359

3つの扉



 樹流徒とクロセルは互いにほとんど喋ることなく食事を終えた。現世ならば誰かと食事を共にする場合、相手と談笑しながら食べる人もいれば、逆に口数少なく静かに食べる人もいる。相手や場所によって変わるという人もいるだろう。中には家庭内のルールや宗教のしきたりなどで食事中は喋りたくても喋れない人もいるかもしれない。

 魔界の場合はどうだろうか。少なくともクロセル個人は、食事中は食事のみに集中したいタイプらしかった。樹流徒もどちらかといえばそちら寄りである。

 二人は初めから合意でもしていたかのように最後まで静かに飲食を楽しんだ。


 たしかクロセルは「話し相手が欲しい」と言って樹流徒を自宅へ招いた。であれば、黙々と食事をしただけで樹流徒を外に帰すはずもない。

 食器を片付けると、クロセルは「ちょっと待っててくれ」と一方的に告げて、突然思い立ったように部屋を飛び出した。

 どこへ行くのか? と樹流徒が不審に思う間もなく、彼の頭上からドタドタと慌ただしい足音が響く。どうやらクロセルは階段を上って二階へ上がったらしい。


 すぐに同じ足音が鳴ってクロセルが下階に戻ってきた。その両手には筒状に丸められた大きな用紙と床置き型のランプが抱えられている。

「お願いがあるんだが、そこの花瓶を床に下ろしてくれないか」

 両手が塞がったクロセルは目を使って、テーブル中央に置かれた花瓶を指す。

 言われた通り樹流徒はテーブルの花瓶を床の隅に移動させた。

「ありがとう」

 礼を言いながらクロセルは手に持った用紙をテーブル上に広げる。用紙はかなり大きくテーブル内には収まりきらず外側へはみ出した。

 クロセルは用紙の片側を手で押さえる。反対側にはランプを乗せて重り代わりにし、紙が勝手に丸まらないようにした。


 ランプの明かりが紙面を照らす。見れば、そこには魔動機関車の設計図が描かれていた。用紙の右半分に車体全体の図、左半分に動力機関の図という構図になっており、左側には訳のわからない数式が幾つか走り書きされている。クロセルはこの設計図を樹流徒に見せたかったらしい。

「理論上、魔動機関車は走るはずなんだ」

 その言葉を皮切りにクロセルは魔動機関車に関する話を嬉々と語り始めた。魔動機関車とは何か。どうやって動くのか。素人の樹流徒にも理解しやすいように簡単な言葉を選んで説明してくれた。もっとも、いくら優しい説明でも魔力が云々と言われれば人間の樹流徒にはさっぱり理解できない。それは例えるならば卵や薄力粉やバターといった食材を知らないのにケーキのレシピをじっくり丁寧に教えられているようなものだった。

 幸い、それが樹流徒には余り苦痛では無かった。こうしてクロセルから色々教えてもらっていると、まるで学校の授業を受けているようでむしろ懐かしい気持ちになった。


 クロセルの熱弁は小一時間にも及んだ。樹流徒が何ひとつ理解できなくても、話を聞いてもらえるだけでクロセルは終始満足そうだった。彼が心から研究を愛している証拠と言えるだろう。

 この調子ならば、クロセルは魔動機関車の実験をやめたりしない。本当に好きなことはたとえ苦しいことがあってもやめられないものだ。それは人も悪魔も変わらないはず。クロセルの研究に対する情熱を垣間見て、樹流徒は確信した。


 ただ、クロセルの研究は精神的、経済的な問題以上に、技術的な問題のせいでかなり行き詰っているらしい。研究に対する意欲の回復であったり、魔動機関車の製作に必要な材料集めなどは時間が解決してくれるだろう。かたや実験が失敗した原因の究明はそういうわけにはいかない。たった数日で何かに気付くこともあれば、百年頭を悩ませても分からないことだって世の中にはある。次に何かを閃くまでには相当な時間がかかるのではないか、とクロセル自身は予想していた。


 熱弁が終わったあと

「せめて現世に行けたら良いんだけどね」

 クロセルが笑いながらぽつりと漏らした。現世に行けば研究が(はかど)る、という意味だろうか?

 その真意を確かめようとしたわけではないが、樹流徒は尋ねる。

「どうして現世に行きたいんだ?」

「勿論研究のためだよ。噂によるとあちらの世界には電車と呼ばれる乗り物があるらしいじゃないか。それに図書館という施設には世の中の様々な知識が集まっていると聞く。それらを参考にすれば魔動機関車の完成に大きく近付けそうな予感がするんだよ。限りなく確信に近い予感だ。だから現世に行きたいんだよ。それに私は元々現世に対して強い興味がある。研究とは関係なしに向こうの世界を旅してみたい気持ちも少なからずあるのさ」

「それでも現世に行かないのは、何か行けない理由でもあるのか?」

「いかにもその通り」

 クロセルは即答した。

「現在、魔界と現世を繋ぐ扉は三ヶ所存在する。たぶん君も聞いたことがあるんじゃないか? 嫌でも耳に入ってくる情報だからね」

「ああ……余り詳しくは知らないけど」

 うろ覚えだが、メイジからそんな話を聞いた気がする。龍城寺市には現世と魔界を繋ぐ扉が三つあり、それらは市内をランダムにワープしている。一方魔界側の扉は位置が固定されているとのことだった。


「現世に行くためにはその三つ扉の内どれかを通らないといけない。でも、私はいずれの扉にもたどり着けそうに無いんだ。だから現世へ行きたくても行けないんだよ」

「なぜ、扉にたどり着けないんだ?」

「まず、扉の一つは愛欲地獄(魔界の第二階層)にある。しかしその扉は年中氷に覆われた極寒の地にあるんだ。私は暑さには滅法強いが寒さに対しては致命的に弱い。マイナス二十度くらいまでならば耐えれるものの、それ以下の気温だと命に関ってくる。愛欲地獄の寒さは防寒対策でどうにかなるものじゃないからね。扉にたどり着く前に凍え死んでしまうよ」

「なるほど」

 この酷熱の世界にクロセルが住んでいるのも納得だった。それにしても愛欲地獄に存在する極寒の地とは一体どれほど寒いのだろうか。


「その扉が利用できないのは分かった。ならば残り二つの扉は?」

「もう一つの扉は魔壕(まごう)にある。あそこにたどり着くのは極寒の地を乗り越える以上に困難だ。その理由はひとつじゃなくて、幾つもあるから説明は省かせてもらうよ」

「じゃあ、残りひとつの扉はどこにあるんだ?」

「この階層だよ。実はここからすぐ近くにあるんだ」

「そこへ行くのも無理なのか?」

「ああ。あの扉は物凄く険しい谷の上にあるんだ。谷を上ろうとすれば、この世界の空を支配する鳥や竜に襲われる。残念ながら私には彼らと戦う力も無ければ、逃げ足の速さも無いんだよ」

「大体事情は分かった」

 話を聞く限り、確かにクロセルが自力で現世に行くのは難しそうだ。


「誰かに頼んで現世へ連れて行って貰おうにも、快く引き受けてくれそうな者に心当たりが無い。鳥や竜の襲撃を防ぎながら私を谷の上まで送り届けるなんて並の悪魔じゃ不可能だからね。仕方がない」

「……」

「それに噂では最近現世に天使が現れたらしい。加えて正体不明の化物も出没するらしいじゃないか。そんな危険な場所に行きたがるのは、血気盛んな連中や腕に覚えのある者、あとは好奇心の強い悪魔とタダの命知らずくらいなものだ」

 正体不明の化物とはきっとネビトのことだ。クロセルの言う通り、現在の龍城寺市は多くの悪魔にとって危険な場所だ。天使とネビトに加えて、遭遇する危険性は低いだろうがイブ・ジェセルのメンバーもいる。魔都生誕直後ならばまだしも、今や龍城寺市は観光や旅行目的で悪魔が気軽に遊びに行けるような場所では無いのだ。

「現世に滞在しているあいだ私が危険な目に遭うのは覚悟している。その危険に誰かを付き合わせるつもりは無い。一緒に現世を歩いてもらう必要は無いんだ。私はただ、現世へ繋がる扉までの送迎を頼みたい。しかし、そんな都合の良い願いを聞いてくれる者などいるのだろうか……」

 クロセルは虚空を見つめる。誰か手伝ってくれる者がいないか心当たりを探っている様子だ。

 その姿を見て樹流徒は少し迷った。彼はそれなりに先を急ぐ身だが、折角こうして知り合えたクロセルの手助けをしてあげたい気持ちはあった。


 逡巡(しゅんじゅん)の果て、樹流徒は意を決する。

「分かった。ならば俺がお前を現世に連れて行く」

 その意思をクロセルに伝えた。

「なに? 君が?」

 今日出会ったばかりの者からそのような申し出があるとは思わなかったのだろう。クロセルが目をぱちぱちと瞬かせた。

「確実に現世へ連れて行けるとは断言できない。ただ、お前の身を守るくらいならばできるはずだ」

「ありがとう。その気持ちは嬉しいよ。しかし、大変申し訳ないが君にそれだけの力があるのかどうか些か疑問だ。自慢ではないが私は魔界の実力者たちの名前は全て把握している。けれどソーマなんていう名前の悪魔は今日初めて知ったんだ」

「俺の言葉を信じるかどうかはお前次第だ」

 樹流徒が答えると、クロセルは思案顔になった。精悍な面構えに似合う迫力のある瞳が、フードの奥に隠れた樹流徒の顔を値踏みするように見つめる。果たして目の前にいるソーマという旅人が信用に足るかどうか判断しかねているのだろう。


「何故、私を助けてくれるんだい?」

 数秒考えたあと、クロセルは回答を避け、逆に質問をする。

「特に深い理由は無い。俺がそうしたいと思っただけだ」

「ふむ……」

「ただし俺が手伝えるのは行きの道だけ。帰りは自分で何とかして貰う」

 繰り返しになるが樹流徒は多少先を急ぐ身である。クロセルが現世での滞在を終えるまで悠長に待っているなどできない。

 それを聞いて、クロセルはわずかに肩を落とした。

「片道だけでは意味が無いよ。私が自力で現世からここまで戻ってくる方法が無い」

 正論だった。クロセルが求めているのはあくまで送迎両方なのである。

 ただ、その辺りのことも樹流徒はちゃんと考えてあった。 

「ならばこれを使えばいい」

 樹流徒は腰に提げた皮袋の中から鍵を取り出す。矢羽を模した黒い鍵……悪魔倶楽部の鍵だった。

 クロセルはやや前のめりになる。

「それは? 見たところ何の変哲も無い普通の鍵に見えるが……」

「バルバトスが作ったものだ。これを使えば現世から貪欲地獄まで一瞬で移動できる」

 簡単に説明して、樹流徒は鍵を相手の前に差し出す。

「そんな便利なものがあったとは……。しかし、バルバトスは昔から異世界との接点について詳しかったし、手先も器用だった。彼ならばこういうものが作れても不思議じゃない」

 クロセルは感心しきった様子で鍵を見つめる。

「けれど本当にこの鍵を私が借りても良いのかい? 君にとっても必要な物なんじゃないのか?」

「いや、いいんだ」

 樹流徒は首を横に振った。

「実は、その鍵は俺のものじゃない。借り物なんだ。本来であれば俺が勝手に貸して良い物じゃない。でも、その鍵の本当の持ち主は、こんなとき迷わずお前に鍵を渡していたと思う。だから遠慮せず使って欲しい」

 もし鍵の本当の持ち主がこの場にいれば、その人物はきっと表情ひとつ変えず淡々とこう言ったのではないか。

 ――相馬君。もしアナタさえよければクロセルに鍵を貸してあげて。

 そう思ったから、樹流徒は多少迷ったが鍵を貸す気になれた。

 ついでに言うと、現世に行かなければ鍵は役に立たない。樹流徒が悪魔倶楽部から貪欲地獄へ一歩足を踏み出した瞬間、鍵から現世の位置情報は消えた。いまやこの黒い鍵はただの鍵としての機能すら持たない金属の塊でしかないのである。樹流徒が持っていても無用の長物だった。


「これで帰り道の問題は無くなった。あとはクロセルがどうするか決めてくれ」

「分かった……」

 クロセルはまた思案する。さっきよりも長く考え込んだ。

 ただ、その代わりに今度はちゃんと答えを出した。

「よし、こうなったら君を信じてみようじゃないか。私は現世へ行く。そして必ず向こうの世界で何かヒントを掴んで、研究を成功させてみせるよ」

 決意を述べる。

 樹流徒はひとつ頷いて

「いつか魔動機関車が完成したら俺も乗せてくれ。あと、できればその鍵の持ち主も一緒に」

「ああ。もちろんだよ。特等席を用意しておこう。約束だ」

 クロセルは嬉しそうにテーブル上の鍵を拾い上げ、握り締めた。


 そのあと早速、樹流徒は鍵の使い方をクロセルに説明し始めた。クロセルは発明家だけあって理解力や想像力が優れているのか、少し拙い樹流徒の言葉でも十分に理解できているようだった。


 お陰で説明がスムーズに進んで、もう少しで話が終ろうかというとき。

 ――クロセル、いるか? いたらちょっと顔を出してくれないか。

 外からドンドンと玄関の扉がノックされた。


 興味深げに鍵の説明を聞いていたクロセルは、突然の来訪者に微苦笑を浮かべる。

「こんなときに誰だろう? 説明の途中ですまないね」

 樹流徒に謝ってから玄関に歩み寄った。


 クロセルが扉を開くと、その向こうには(いか)つい犬の顔があった。その顔の下には人間の胴体がくっついている。背丈は樹流徒よりもひと回り大きく、腫れ上がったように太い指がしっかりと剣を握りこんでいた。

「やあクロセル。大変なんだ」

 犬頭人身の大柄な悪魔はやや興奮気味だった。

「一体、どうしたんだ? そんなに慌てて」

「君、この辺で怪しい奴を見なかったか?」

「怪しい奴?」

「ほら、あれだよ。あのニンゲンの賞金首。実は今、奴がこの世界に来ているらしい」

「ああ……。確か首狩りキルト、だったかな? あのニンゲンがね……」

 どこか適当な返事をしながらクロセルは一瞬だけ樹流徒のほうを振り返る。

「でも生憎私は何も知らないな」

 それから犬の悪魔に向かって首を横に振った。

「そうか。この辺で怪しいやつを見たっていう情報を聞いたんだけどな。それに、どうもこの辺りからニンゲンの臭いが漂っている気がするんだ」

「また何かあったら知らせるよ」

「ああ、頼んだ」

 犬の悪魔は樹流徒の存在に気付かず走り去っていった。


 樹流徒は安堵したが、玄関の扉が静かに閉まる音を聞いて緊張感を取り戻す。

 クロセルは薄闇の中で赤い瞳を輝かせ、樹流徒の顔をジッと見つめていた。

「あー……。まさかとは思うけど……。君の名前、本当はソーマじゃなくて、キルト……じゃないのか?」

 言葉を選びながら喋るように、ゆっくりと途切れ途切れに尋ねる。

 こうなってしまったら素直に認めるしかなかった。樹流徒は無言で首肯する。厳密に言えばソーマもキルトも本名なのだが。

「やはりそうか」

 クロセルはさほど驚かなかった。むしろ納得した様子だった。

「君が食事中にローブを脱がないから少しおかしいとは思っていたよ。いくら悪魔でもこの憤怒地獄を寒いと感じる者はまずいないからね」

「騙して悪かった」

 樹流徒はフードを捲る。魔界に来てから正体がバレたのはこれで何度目だろうか。なかなか上手く誤魔化せないものだ。


「先に言っておくけど心配しなくても大丈夫だよ。私は君を売ったりはしない。正直に言えば君にかかった賞金は魅力的だけどね。紫硬貨八千枚もあれば魔動機関車の材料がほとんど集まる」

 クロセルは冗談っぽく言って笑った。

「でもそんなことより、君がニンゲンだともっと早く知りたかったよ。今の現世がどんな世の中になっているのか、是非色々と聞かせて欲しいね」

 現世かぶれの悪魔は少年のようにキラキラしたまなざしを樹流徒に向ける。好奇心は創造の源であり、恐らく発明家には必要不可欠なものだ。情熱、想像力、理解力。そして好奇心。クロセルは発明家として大切なものを沢山持っているようだった。


 悪魔倶楽部の鍵に関する説明が終わって、現世の話をあれこれ聞かせると、クロセルは現世に行ってみたいという思いをより一層強めたらしい。「何がなんでも現世に連れて行ってくれ」と改めて樹流徒に頼み込んだ。


 太陽が昇り、世界が明るみを増してきた。現世で言えば今は朝の八時から九時くらいだろうか。

 できれば今すぐ現世までクロセルを連れて行きたいと樹流徒は思ったが、それにはクロセルが異を唱えた。

 クロセルによると、空の鳥や竜は明け方になると眠りに就く者が多いらしい。そのため次の明け方まで待ってから出発した方が無難とのことだった。

 その助言を聞き入れた樹流徒は、クロセルの家で一晩を明かして次の明け方を待つことにした。


 ほぼ丸一日時間を持て余すことになった樹流徒は、クロセルに町の中を案内してもらった。

 例の広場に行くと、すでに魔動機関車の残骸は綺麗に片付けられていた。広場を通り抜けて先へ進むと、鉢植えの花壇に囲まれた民家が建っている。花壇の中にはこの暑い世界でも綺麗に咲き続ける色とりどりの花が植えられていた。

 そこをさらに通り過ぎてまっすぐ歩くと、町外れに石造の四角い大きな建物が建っていた。そこがクロセルの研究所だった。

 研究所の中にはクロセルの雑多な道具や発明品が置かれていた。流石に電動式の工具はないが、代わりに現世には存在しない金属で作られた切れ味抜群のカッターやヤスリ、それから人間の腕力では扱い切れない巨大な金槌など魔界ならではの工具が置かれていた。中には、一見何に使うか分からない不思議な形状をした工具もある。部屋の一角に視線を移せば、形も大きさもまばらなボルトやネジそれから歯車が大量に積みあがって小山を作っていた。壁にはパイプや金属の板が幾つも立てかけてある。別の一角には過去にクロセルが造ったトロッコの完成品第一号や、魔力で動くランプの試作品などが置かれており、それらは少しホコリを被っていた。


 研究所の見学が終わると二人は町を出る。数キロ先に目が覚めるほど巨大な双子の岩山がそびえていた。その岩山の隙間に生まれた深い谷を抜ければ恐らく荒野に出るはずだ。酒場の悪魔から聞いた話である。

「あの岩山の上に扉があるんだよ」

 そう言ってクロセルは双璧を成す岩山の右側を指差す。その頭上で羽や翼を持った巨大生物が何十匹も旋回していた。


 夕方になるとクロセルは樹流徒を連れて酒場に繰り出した。明け方に樹流徒が訪れた時とは違い、酒場には客が誰もいなかった。カウンターの奥には、葡萄の葉をあしらった冠をとネックレスを身に着けた美男が静かに佇んでいる。その悪魔は“ディオニュソス”という名前で、やはりこの酒場の店主だった。


 ディオニュソスの酒場はいつも昼間もしくは深夜から明け方にかけて混むらしい。だからクロセルはわざわざ客のいない時間帯を見計らって樹流徒を酒場に行こうと誘ったのだ。

「今回も実験に失敗したらしいね。ま、一杯飲みなよ」

 ディオニュソスは気っ風の良い悪魔だった。魔動機関車の起動実験が失敗したのを当然のように知っており、その慰めとしてクロセルに酒を一杯奢った。樹流徒も初めて来店したときにはサービスしてもらった。


 酒場で軽い食事を済ませると、樹流徒たちはクロセルの家に戻った。樹流徒はリビングの床を借りて睡眠を取ることにした。家の中では正体を隠す必要は無いので、ローブと黒衣を脱ぐ。絨毯の上に転がって四肢を放り出した。

 眠気は無くても眠れる。5分もしない内に樹流徒は静かな寝息をかきはじめた。



「キルト」

「キルト。起きてくれ」

 クロセルに軽く体を揺さぶられて樹流徒は目を覚ました。

 無意識に辺りを見回すが、この部屋には窓が無いため、外の様子が分からない。

「どうしたんだ? もう夜明けなのか?」

 尋ねると

「違うよ。でも、いいものを見せてあげるから外へ出よう。ローブを着るのを忘れずにね」

 クロセルは少し興奮気味に答えた。


 一体何を見せようというのか? 樹流徒は黒衣とローブを着てクロセルの後についてゆく。


 外は真っ暗だった。二人が向かったのは例の広場。樹流徒たちだけでなく大勢の悪魔が集まっている。彼らは揃って足を止め、空を見上げていた。

 樹流徒とクロセルも悪魔の群れから少し離れた場所で夜空を仰ぐ。


 一体の空を埋め尽くさんばかりの無数の白い光が尾を引いて流れていた。

 流星群だ。遠い夜空で流れ星が雨の如く降り注いでいる。心が洗われる景色だった。

「君は運が良い。この流星群は十数年に一度しか見られないんだよ」

 クロセルが樹流徒の隣で囁く。

「魔界には現世にも負けないくらい綺麗な景色が沢山あるな」

「そう言って貰えると、この時間まで流星群のことを秘密にしていた甲斐があったよ」

 二人はしばらくのあいだ、輝く夜空を見つめていた。

 流れ星に願いごとをすると叶うという御伽噺(おとぎばなし)は有名である。樹流徒にも願い事はあった。それが何か、敢えて語るまでもないだろう。

 流星の夜がしめやかに終わりを迎えると、樹流徒たちは残り数時間を再びクロセルの家の中で過ごした。


 明け方が訪れると、樹流徒たちは双子の岩山に向かって歩き出す。

 これから現世へ向かうのだがクロセルは軽装だった。羽ペンと、インクが入った小瓶をしっかりと手に握り締めているだけである。


 口数も少なく樹流徒たちは双璧を成す岩山の近くまでやって来た。

 二人の頭上を飛び回る鳥や竜の数は、昼間に比べて明らかに少ない。夜明けまで待った甲斐があった。

 クロセルは自力で空を飛べる悪魔だった。白衣の下に真っ白な翼を隠し持っていたのである。それでたった今樹流徒は気付いたのだが、クロセルはまるで天使のような姿をしている。悪魔の中では一種異質な外見と言えた。


「準備はいいか? お前は谷の頂上目指して全力で飛んでくれ。俺はお前が攻撃を受けないように守る」

 樹流徒が最後の確認をすると、クロセルは落ち着いた表情で頷いた。

「分かった。任せるよ。君の実力は信用している」

 なにしろ大物賞金首である。


 クロセルは純白の翼をいっぱいに広げると、うっすらと明るくなり始めた空に向かって飛翔した。樹流徒もすぐに後を追う。

 逃げ足には自身が無いと豪語しただけあって、クロセルの飛行速度は本当に緩やかだった。攻撃能力も貧弱らしいので敵に狙われたらひとたまりも無いだろう。


 出だしは静かだった。並んで飛行する樹流徒たちに近付く者は誰もいない。天空で旋回する影もこれといって変わった動きは見せなかった。このまま頂上まで難なくたどり着けそうな雰囲気すら感じさせる。


 無論、本当に何事も無くたどりつけるはずは無い。樹流徒たちが岩山の中腹に差し掛かると、急に状況が変わった。空の支配者たちが旋回をやめて一斉に下降を始めたのである。

「遂に来たか」

 樹流徒は気を引き締めた。自分の身も守らなければいけないが、自分を信じてくれたクロセルにかすり傷ひとつ負わせるわけにはいかない。


 赤い肌を持った竜が真上から襲い掛かってくる。大きさは樹流徒の四、五倍くらいだろうか。その存在の接近に逸早く気付いた樹流徒は、すぐさまクロセルの前に出て真正面から竜に突っ込んだ。衝突の直前に魔法壁を展開する。

 魔法壁に鼻っ面を弾かれた竜はグオッと身の毛もよだつ大声を発すると、体勢を崩して岩肌に体を擦りながら落下してゆく。それでもすぐに羽を広げて姿勢を持ち直すと、今度は下から樹流徒たちを迫いかけた。

 同時、二人の横から新たな敵影が現れる。巨大な(わし)が鋭利なくちばしと爪を尖らせて滑翔してきた。野生の本能で相手の実力が分かるのか、鷲の瞳は明らかに樹流徒ではなくクロセルに狙いを定めていた。


 樹流徒は宙で静止する。片手を眼下の竜に、反対の手を鷲に向けると、それぞれの手で空中に丸い空洞を生み出して植物の(つる)を射出した。それからすぐに羽をはばたかせクロセルに追いつく。

 召喚された蔓は自らの意思を持った無数の蛇となって標的を追いかける。いとも容易く鷲の全身を捕えた。鷲はしゃがれた悲鳴を上げて全身を暴れさせるが蔓の束縛から逃れられない。


 一方、竜は大口を広げて炎を吐き出し、迫り来る蔓を焼き尽くした。それを確認した樹流徒は下に向かって電撃を放つ。青い雷光が竜の全身を駆け巡った。竜は全身を痙攣させながら地面に墜落する。ズシンと大きな音が鳴って砂煙が舞い上がった。巨竜にとってはそれほど大した高さからの落下ではないはずだ。その証拠に竜は地面でひっくり返ったまま力強い眼光で樹流徒たちを()め上げている。


 二人はそのあとも立て続けに空の支配者たちから襲撃を受けた。樹流徒は持てる能力の全てを駆使して、迫り来る脅威を退ける。敵を一匹も殺さずに何とかクロセルを防衛し続けた。


 避けても避けても次の攻撃が襲ってくる。じれったい状況が続いた。それでも二人は最後まで油断せずにゴールを目指した。


 とうとうクロセルが岩山の頂上に到達する。

 そこには紫色にぼんやりと輝く巨大魔法陣が湖の如く広がっていた。現世と魔界を繋ぐ通路だ。ともすれば今の危険な状況も忘れて見入ってしまうほど綺麗な光が、旅人を異世界へ誘っている。

「私は必ず無事に魔界へ帰ってくる。また会おう」

 最後にそう言い残して、クロセルは頭から魔法陣に飛び込んでいった。


 その姿が消えたのを確認してから、樹流徒は谷間に向かって滑り落ちる。鳥や竜の襲撃をかいくぐりながら無事に着地した。岩陰に隠れてしばらくジッとしていると、空の支配者たちが追撃を諦めてどこかへ飛び去ってゆく。


 樹流徒はそのまま地上を歩き始めた。もう町へは戻らない。クロセルの無事を祈りつつ、魔界血管を目指して旅を再開させた。




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