ゴーストロード
バルバトスの店改め悪魔倶楽部を後にした樹流徒は、再び現世に戻ってきた。
すぐ目の前には悪魔倶楽部の鍵を使用した自動ドアがある。長方形のガラスがまるで全身鏡のように、樹流徒の姿と彼の背後に広がるコンビニ店内の様子を映し出していた。
樹流徒はドアを開いて外に出る。それからすぐに辺りを眺め回した。宙を漂う霧の奥を透かし見て、どこかに生存者がいないかを確認する。
しかし彼の視界で動く者はいなかった。コンクリートの大地に横たわる市民たちは皆、深い眠りについたように今も安らかな表情で瞳を閉じている。
“魔法陣から降り注いだ黒い光は、本来普通の人間が耐えられるようなものじゃない”
先日出会った謎の男・南方の言葉が、樹流徒の脳裏を過ぎった。仮にあの話が事実ならば、眠りについた人々は二度と目を覚まさないのだろうか。
できれば信じたくなかった。自分ひとりだけがこの街に取り残されてしまったなど、絶対にあって欲しくない。市内を探し回れば他にも必ず生き残りがいるはずだと思いたかった。
だからこそ余計に、アンドラスの話が事実かどうかを己の目で確かめる必要があった。もし本当に市民の生存者と出会えれば、ほかにも生きている人がきっといる、と信じられるからだ。
樹流徒は一路摩蘇神社を目指す。マモンという悪魔に捕まっている人を助けるために。
目的の場所は現在地からずっと北上した場所に位置している。そこは隣接する市との境目に近い場所だった。移動にはかなりの時間が掛かる。
樹流徒は悪魔を吸収したことで無尽蔵の体力を手に入れている。今も彼の体には疲労や眠気や空腹感は一切無かった。そんな彼が不眠不休で走り続けたとしても、道の状態を考えると移動時間は一、二時間程度では済まないだろう。
そのあいだにも悪魔に捕まっている人の精神状態に限界が来てしまわないか、少し気がかりだった。折角その人を救出しても恐怖とストレスで廃人同然にされていたのではあんまりだ。
しかし現実として、徒歩以外に移動手段は無い。地面を走る乗り物を使えば間違いなく倒れている人を轢いてしまう。
では、陸がダメならば空はどうだ? とも考えた。樹流徒が初めて遭遇した悪魔は背中に羽を生やしていた。それを使って空を飛べないだろうか、と思いついたのだ。樹流徒は倒した悪魔の能力を自分のものとして利用できる。ならば悪魔の羽だって使えるに違いない。
早速それを試してみたところ、失敗に終わった。樹流徒の体に対して悪魔の羽が小さ過ぎるのだ。そのため空を飛ぶどころか、僅かに浮くすらできなかった。ついでに羽を出した衝撃で制服の後ろが破れてしまうという残念なオマケ付きである。
ほかに良い考えも思い浮かばず、樹流徒は自分の足で地上を行くしかないと悟った。捕まっている人の救出までに時間が掛かってしまうが、最悪の事態が起こらないように願うしかない。
樹流徒は北の空を見つめて、歩き出した。
移動を開始してから多少の時間が経過した頃。
樹流徒は早くも市内某所の国道に到着していた。「早くも」というのは、普通に走ればそこに辿り着くのはもう少し時間がかかるからだ。樹流徒自身、これだけ早く到着できるとは思っていなかった。
その道路は渓瀬通り(樹流徒が初めて悪魔と遭遇した大通り)に匹敵する交通量を誇っていた。ジャンクションが存在し、普段は県外から出入りする車がひっきりなしに走っているからだ。空中では環状道路がとぐろを巻き、その更に頭上を高速道路が直進していた。
そのため現在も車道の中では当然の如く大量の車が入り乱れている。車同士の衝突もあれば、ガードレールにぶつかったまま止まっているバスや、横転したトラックの姿もあった。むしろ無傷な車を探すほうが難しいくらいだ。
それらのあいだを縫って、樹流徒は走る。前方の状況によっては車の屋根から屋根へと飛び移って前に進んだ。その姿は、まるで道路に放たれた野性動物のようだった。
本来、樹流徒にこのような身体能力は無い。倒した悪魔の力を吸収した影響に違いなかった。
まるで常人が平地を走るような速さで、樹流徒は障害物の間を駆け抜け、宙を舞う。このままの勢いを保ち、目的地に到着するまで決して立ち止まらない。一気に突っ切る。
そのつもりだった。
ところが、樹流徒がこの辺を走り始めて間もなくのことだった。
前方を塞ぐ車の上に飛び乗ったとき、彼は周囲の景色に違和感を覚えて足を止める。
違和感の正体を探る必要は無かった。そのくらい明らかにおかしな光景だった。
いつの間にか、樹流徒の視界に映る人々の数が極端に少なくなっている。地面に横たわる市民たちの体がどこかへ消えてしまったのだ。
この辺りは車の交通量は非常に多いが、人はそれほどでもない。しかし、それにしても歩道に倒れている人が少なすぎる。樹流徒の視界で倒れている人間は5名にも満たなかった。
見れば、車道も同じだった。車や転倒したバイクは大量にあるのに、ドライバーたちの姿が見えない。
人々がどこかへ消えてしまった。その数は恐らく百や二百程度ではないだろう。
樹流徒はこの奇妙な光景を前にして、薄気味の悪さと、えもいわれぬ恐怖感を覚えた。辺りの空間が異様に広くなった錯覚に襲われる。
生者もいなければ死者も存在しない不気味な空間に、独り佇んだ。
ここに倒れていたであろう市民たちは一体どこへ消えてしまったのか?
樹流徒は半ば狐につままれたような気分のまま、当然の疑問を持つ。
もしかして、みんな悪魔たちの餌になってしまったのか? 樹流徒は最初そう考えた。
はじめて遭遇した悪魔も人を食べていたし、コンビニで遭遇した悪魔も「ニンゲンを食べた」と言っていた。だから、ここにいた人たちも皆、悪魔の餌食になってしまったのではないだろうか。
が、直後、その私論を否定する。死体が悪魔たちに食い散らかされたにしては道路が綺麗過ぎることに気付いたからだ。
辺りには骨はおろか細かな肉片すら見当たらない。血痕は多少残っているが、それはきっと魔都生誕の発生時に乗り物から転落してしまった人や、道路からはみ出た乗り物に轢かれてしまった人たちのものだ。その証拠に、ここの道路だけ血の数や量が多いようには見えない。
かといって、人々が一斉に目を覚まして、自らどこかに移動したというわけでもないだろう。
となると、この辺りに倒れていた市民たちは何者かによってどこかへ連れ去られた可能性がある。
その場合、悪魔の仕業としか考えられなかった。彼らならば人間には及びもつかない方法で多くの人々を連れ去ることができるかも知れない。
もっとも、悪魔が人間の体を無傷で手に入れようとする理由など、考えても分からなかった。
事実を知る術も無く……やがて樹流徒は歩き出す。ゴーストタウンならぬゴーストロードと化したこの道を通り抜けることにした。もう少しこの場に留まって調査を続けたい気持ちはあったが、今は目的地へ急行しなければいけない。
車の上に突っ立ったままの樹流徒は、前方の地面に飛び降りようとした。
が、動きかけた全身を停止させる。
足の裏に力を入れた途端、視界に不審な影が飛び込んできたためだった。
ずっと遠くの空に、二つの小さな影が動いていた。霧の影響で影の正体ははっきりと分からないが、人間でないことだけは間違いない。
悪魔に違いない。
樹流徒は素早く車の屋根から降りて、車体の陰に隠れた。腰を低くして窓ガラス越しに前方上空の様子を窺う。
目を凝らすと、飛行している生物は大きさや形からして小人型悪魔と同種に見えた。背は推定一メートル前後、額からニ本の角、背中から小さな黒い羽を生やしている。
彼らに見つかれば襲撃を受けるかも知れない。青年の指先に力がこもった。
小人型の悪魔たちは一定の速度で宙を泳ぎ道路上を横切る。地上で息を潜める樹流徒の存在には気付いていないようだ。
彼らは建物に近付くと、高度を上げて屋根を越えていった。
樹流徒は、悪魔たちがどこかに消えてから更に数秒待って、ようやく腰を上げる。
車の陰から出て周囲を見回し、空を仰ぎ見た。悪魔が引き返してくる様子はない。ほかに動く影も見当たらなかった。
「そういえば……今、市内にはどれだけの悪魔が来ているんだ?」
青年は独り呟く。
魔都生誕の発生から日付けが変わり、あと数刻も経てば夜明けの時間になる。現世を訪れる悪魔たちの数は、今この瞬間も密かに増え続けているのかも知れなかった。