転生
闇を抜けたその先に待っていたものは、もっと大きな闇だった。
樹流徒たちを乗せたトロッコが真っ暗な坑道から抜け出すと、外は陽が沈んですっかり夜になっていた。この世界には太陽はあっても月は無いらしい。火の明かりもなく辺りは深い闇に覆われていた。空に点在する星だけが美しくも微弱な光を放っている。
トロッコのハンドルを漕ぎ続けながら樹流徒は辺りを見渡した。光は無くても暗視眼のおかげで世界が昼間のように明るく見える。
周囲の景色は坑道に突入する前とほとんど変わらなかった。水気の無いひび割れた大地がどこまでも広がり、その上に巨大な岩がごろごろと横たわっている。違いがあるとすれば岩の数と大きさが少し増したくらいだろうか。
その岩の隙間を縫ってトロッコの線路が走っていた。一体どこまで続いているのだろうか。少なくともグシオンの目的地である造幣所まで延びているのは間違いない。
樹流徒はひたすら手を上下に動かし続けた。それに応えてトロッコも時折ギシギシと不安な音を鳴らしながら車輪を回し続ける。
「造幣所までもうしばらくかかるんだ。そこまでなんとか頑張ってね」
樹流徒への励ましなのか、それとも壊れかけたトロッコへの祈りなのか。グシオンが言った。
アライグマの姿をした悪魔は樹流徒の脚の間に座って一人悠々としている。樹流徒の腹を背もたれ代わりにして気持ち良さそうな顔をしていた。
グシオンがあえて樹流徒に寄り添っているのは「キミが首狩りでも恐くない」というメッセージなのだろうか。だとすれば樹流徒にとっては心が温まる話だが、同時に体も温まるのが問題だった。毛皮に包まれたグシオンにくっつかれると温まるというより暑い。もし今が昼間だったら暑苦しくて耐えられなかった。
幸いにも太陽が沈んで気温が下がったため、樹流徒はグシオンに向かって離れるよう言わずに済んだ。走るトロッコの上を吹きぬける風が気持ち良い。目を閉じると視界が真っ暗になって余計に風が涼しく感じた。
グシオンは首をいっぱいに後ろへ逸らして樹流徒の顔を見上げる。そして樹流徒の真似をして目を閉じた。鼻から伸びた白い髭が風を受けて揺れる。
互いに交わす言葉もなくなって、樹流徒はトロッコの車輪が線路の上を走る音だけを聞いていた。
気が済むまでそうしたあと、目を開く。樹流徒よりも先に目を開けていたグシオンはどこか遠くを見ていた。樹流徒もグシオンの視線を辿って遠くの大地を眺める。
やがて遥か前方に建物の影が見えてきた。かなり大きな石造建築物だ。建物の形は直方体で、高さは無いが底面積が広い。
「あ、見えてきたよ」
という嬉しそうなグシオンの声が、前方に見えた建物が何であるかを物語っていた。樹流徒たちはようやく造幣所に到着したのである。
造幣所の周りには塀などが一切なかった。代わりに見張りらしき悪魔たちが何十体も立っている。相当厳重な警備だ。
そのすぐ傍で樹流徒たちを乗せたトロッコが停止すると、造幣局の正面入り口を固める門番らしき悪魔たちが鋭い瞳を光らせた。彼らは、いかにも怪しげな者が来たという顔付きで樹流徒を睨む。ほかの悪魔たちも半壊したトロッコに怪しむような視線を投げ始めた。
ただ、それもほんの束の間。
「わあ。着いた着いた」
家族旅行から帰ってきた子供みたいな声を出してグシオンが身軽な跳躍で外に飛び出す。途端、見張りの悪魔たちが態度を一変させた。警戒心をむき出しにしていた異形の生物たちは背筋を伸ばして急にかしこまったような態度になる。
樹流徒もトロッコから降りたが、もう疑惑の視線を投げてくる者はいなかった。
「これ、よろしくね」
グシオンがここまで乗ってきたトロッコを指差す。
見張りの悪魔が三体ほど急いで駆け寄ってきた。彼らはトロッコを御輿のように担ぎ上げると、どこかに向かって運び始める。そのまま造幣所の裏へと消えていった。
彼らの姿を最後まで見送ることもなく、グシオンは樹流徒のほうに向き直る。
「ありがとうキルト……じゃなくてソーマだったね。お陰で楽に造幣所に着いちゃった」
と、グシオン。
お礼を言うのはこちらのほうだ、と思いながら樹流徒は無言で頷いた。
「この線路をずうっと辿っていけば大きな町に着くよ。そこに住んでいる悪魔たちなら魔界血管の場所を知ってるんじゃないかな」
グシオンは大地の果てを指差す。線路は造幣所の前で途切れることなく、まだまだずっと遠くまで続いていた。
「それじゃあ、ここでお別れだな」
樹流徒が最後の挨拶をする。
それをグシオンが慌てた様子で制した。
「ちょっと待てよ。キミも今日はここに泊まっていきなよ。もう夜だし、朝まで寝るといいよ」
と言って樹流徒のローブの裾を掴む。
「いや。折角だけど、あまりゆっくりもしていられないから先へ進むよ」
「そんなこと言わずにさ。泊まるのが駄目なら一杯飲むだけでいいから。ね?」
「しかし、俺が中に入っても大丈夫なのか?」
「平気だよ。ボクがいる限り正体が疑われることなんてないから」
グシオンがローブをもっと強く引っ張る。玩具をねだる子供ようだ。
その勢いに負けて、樹流徒はグシオンに引っ張られるまま造幣局の入り口に歩を進めた。
正面玄関の入り口には両開きの扉が取り付けられており、分厚い金属で作られたその扉は現在開きっぱなしになっていた。
樹流徒が通り過ぎると、扉の両脇を固める門番が今一度訝しげな顔をした。それでも彼らは道を塞いだり樹流徒を呼び止めたりはしない。グシオンのお陰だというのは明白だった。やはりこの悪魔、見かけによらず結構な大物らしい。
造幣所の廊下は広く、美しい刺繍が施された赤い絨毯が敷かれていた。壁には黄金色に輝くランプが狭い間隔でいつくも吊るされており建物の中はとても明るい。殺風景な外の風景とは対照的に華やいでいた。造幣所ではなく大使館の内部だと言われても違和感が無い。
そのまま黙ってグシオンの後についてゆくと、前方に分かれ道が見えてきた。廊下が真っ直ぐと左側のふた手に分かれている。樹流徒の位置から悪魔の姿は見えないが、左側の通路から何やら言い争うような声がしていた。
グシオンは廊下を真っ直ぐ進む。樹流徒も後に続いた。左側の通路の前を通り過ぎると、廊下の奥で二体の悪魔が険悪な雰囲気で向かい合っているのが視界の端に映った。揉め事のようである。諍いの原因は不明だが「所長が云々」と聞こえた。
何の話か多少気になるが深入りする立場でも無いと思って、樹流徒はたった今見た光景を忘れようとする。
「あの二人ね、最近しょっちゅうあんな感じでケンカしてるんだ。気にしないでよ」
と、グシオンのほうからその話を振ってきた。
「止めなくていいのか?」
余計なお世話かもしれないと思いつつ樹流徒が尋ねると
「止めても無駄だよ。次の造幣所所長が決まるまで揉め続けているよ」
グシオンはどこかうんざりした様子で答えた。
どうやらさっきの悪魔たちは所長の椅子を巡って争っているらしい。
「いままでの所長はどうしたんだ?」
「現世に行ったきり行方不明だよ。あまり考えたくないけど、もしかすると所長はもう帰ってこないかもしれないね。噂によれば現世には天使まで現れたらしいし……」
「そうか」
「前の所長、マモンっていう名前なんだ。聞いたことない?」
「マモン……」
まさか、その名前をここで聞くとは思わなかった。
帰って来ないはずである。マモンならばずっと前に樹流徒に倒され、その後ベヒモス召喚の生贄に捧げられた。造幣所に戻ってくるはずがない。
樹流徒は急に気まずい心地になった。
そのあと曲がり角を一つだけ曲がって、最終的に樹流徒が通された場所は建物の奥にある広い一室だった。
そこは応接間らしかった。部屋には暖かい色の絨毯が敷かれ、その中央にはゆったり腰掛けられそうな椅子が二脚と一本足の円いテーブルがひとつ置かれている。
グシオンは樹流徒を椅子に座らせた。
「好きなだけくつろいでいってよ。今から冷たい飲み物持ってくるから待っててね」
そう言って、部屋を出て行った。
すぐに戻ってきたグシオンは両手に一本の透明なボトルを抱えていた。中は薄いオレンジ色の液体で満たされている。
酒だったら樹流徒は断ろうと思ったが、ボトルの中身は甘いジュースだった。飲んでみると冷たくて美味しい。そこはかとなく上品な味もした。グシオンの説明によるとこの飲み物は魔界の第三階層・大食地獄にしか生えていない木の実から絞ったもので、それなりに貴重品だという。
ジュースを飲みながら二人は少しのあいだ他愛もない話をした。グシオンは樹流徒が魔界を訪れた理由や魔壕へ向かう理由には余り興味が無さそうだった。ガーゴイル三兄弟と同じように現世の話に興味を持った。それ以上に、樹流徒が今までどんな人生を送ってきたのかに興味がありそうだった。
ひとしきり言葉を交わしてある程度話題が尽きると、樹流徒は意を決してグシオンにあのことを伝えようと決めた。造幣所の前所長マモンについてである。
グシオンはカクテルグラスの底を更に浅くしたようなグラスに口を突っ込んでジュースを舐めていた。
「グシオン。言わなければいけないことがある」
そこへ樹流徒が声を掛けると、顔を上げる。
「どうしたの? 急に真面目な顔して」
「実はさっき言っていたマモンのことなんだが……」
樹流徒はマモンに関することを何一つ包み隠さず教えた。
「ふうん。そんなことがあったんだね」
マモンが二度と返ってこないことを知ったグシオンは、平然としているようでもあり、密かに怒っているようにも見えた。
「謝って済まされる問題ではないと思う。でも俺は自分がやったことを後悔していない」
マモンを倒さなければ詩織を助けられなかった。樹流徒自身も死んでいた。マモンをベヒモス召喚の生贄に捧げなければレビヤタンにより龍城寺市内は壊滅させられイブ・ジェセルのメンバーは全滅していたかもしれない。樹流徒は自分がやったことを間違いだとは決して思わなかった。
「まあ、しょうがないね。話を聞く限り非はマモンにあるみたいだし」
グシオンは落ち着いたものだった。再び底の浅いグラスに口をつけてオレンジ色の水面を揺らす。
「そう言ってもらえるとありがたいが、俺に対して怒りは無いのか?」
「全く無いといえば嘘になるかな。ボクとマモンは特別仲が良かったわけじゃないけど、ある程度知った者同士だったんだからね」
「そうだろうな……」
「でもボクはマモンの敵討ちをするつもりは無いよ。キミを殺そうと思うほど憎むことはできないからね。それに……マモンの魂とはまたいつか会えるんだから」
「魂と会える?」
それはどういう意味なのか? 思想的な言葉なのか? それとも……
樹流徒が不思議そうな顔をすると、グシオンが疑問に答える。
「ボクたち悪魔に完全な滅びは無いんだよ。例え肉体が滅びても、魂が生贄に捧げられても、果てしなく長い時を経ていつか魔界のどこかに転生する。それが何万年後になるか何十万年後になるかは分からないけどね」
「マモンもいつか蘇るということか?」
「蘇生と転生とは別物だよ。ボクたちはたとえ同じ姿で生まれ変わっても前世の記憶をほとんど残してない。それに前世の自分とは性格やモノの考え方がまるで違うことも多い。中には前世と違う姿で生まれてくる悪魔もいる。それは最早自分とは呼べないんじゃないかな。あくまで蘇生や復活じゃなくて、転生なんだよ。だからボクの知っているマモンとはもう二度と会えない。でも、マモンの魂を持つ別の悪魔とはいつか出会えるんだよ」
理解できるような、できないような、少しややこしい話だった。
「まあ話半分に受け取ってくれれば良いよ。転生の話なんてどうでもいいんだ。とにかくボクはマモンの件でキミを恨むつもりは無い。それだけ言いたかっただけなんだから」
「分かった。ありがとう」
樹流徒はグシオンの言葉を全て信じることにした。
「ああ、そうだ。ところでキミにひとつ質問がしたいんだけど」
グラスに新しいジュースを注ぎながら、ふと思い出したようにグシオンが言う。
「なんだ?」
「キミ、モロクを倒したあと彼の魂を吸収してたよね。あれってどういう現象なの? キミに吸われたモロクの魂って最終的にどうなるの?」
「何故そんなことを聞くんだ?」
「うん。もしかしたらキミに倒された悪魔の魂って、キミの中に閉じ込められたまま転生できないのかも知れないって想像してね。根拠は一つも無いんだけど、キミがモロクの魂を吸い込んでいる瞬間を見て、何となくそう感じたんだ。得体の知れない恐怖みたいなものを覚えたんだよ」
「俺の体のことは俺にも分からない」
「へえ、そうなんだ……。なんか変なこと聞いちゃってゴメンね」
そこまで話すと、グシオンは「もっと面白い話しようか」と言った。
そのあと二人は何事も無かったように再び他愛の無い話をした。マモンの件があるため多少のぎこちなさは残ってしまったような気がしたが、グシオンがマモンの仇を取るつもりが無いのは本当らしかった。
ボトルのジュースを三分の二以上飲み干したところで、樹流徒は出立の意思をグシオンに伝えた。
グシオンはこれ以上樹流徒を留めようとはしなかった。二人は連れ立って造幣所を出て、そこから少し離れた場所まで一緒に歩いた。
「もしかしてキミってボクたち悪魔にとっては恐ろしい存在なのかも知れないね。でも、だからこそなのか、不思議とキミには惹かれる部分があるよ。元々キミが持っている魅力もあるんだろうけどね。できればまたいずれ会いたいな」
別れ際、グシオンが言ったその言葉が、妙に樹流徒の頭の中に残った。