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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
魔界冒険編
198/359

牛頭悪魔



 トロッコから投げ出された樹流徒の体が宙を舞う。空中で姿勢を立て直している余裕は無かった。肩から着地すると勢い良く地面を転がり、壁にぶつかって停止する。すぐさま体を起こそうとしたが、思わず動きが止まった。眼前に大きな影がそびえ立つ。トロッコに突進してきた悪魔だ。


 その悪魔は牛頭人身の姿をしていた。樹流徒が知る限り動物の頭部と人間の体を持つ悪魔は多い。ただ、今回の敵はほかの半人半獣の悪魔たちとは見た目の雰囲気がまるで違った。というのも肌の質感が生き物らしくないのだ。樹流徒の倍近くある巨体は全身黒ずんだ緑色に染まり光沢を放っている。その姿は生物というより青銅の像に見えた。

 珍しい部分はほかにもある。この牛頭悪魔は腹に大きな口がついていた。人間の上半身くらいなら簡単に飲み込めそうなほど巨大な口だ。それは完全に閉じられているが、口内に収まりきらない長い牙を何本も剥き出しにしていた。


 牛頭悪魔は重たそうな足を持ち上げる。眼下で倒れている樹流徒を踏み潰そうというのだろう。

 その動きに対して樹流徒は素早く反応したが、地面を転がって逃げようにも背後の壁に退路を塞がれて逃げられない。ここは魔法壁で凌ぐしか無かった。

 七色に輝く防壁が樹流徒の周囲を包み、牛頭悪魔の体を弾く。片足を上げていた悪魔は姿勢を大きく崩し、よろめきながら後退した。

 その隙に樹流徒は立ち上がる。軽く跳躍して敵と壁の両方から離れると、ようやく戦闘態勢に入れた。牛頭悪魔も足を踏ん張って体勢を安定させる。

 両者、睨み合った。


 一方、いつの間にかちゃっかり避難していたグシオンが、曲がり角の陰からひょっこり顔だけ覗かせる。彼は牛頭悪魔のことを知っているらしい。

「あっ。キミは“モロク”じゃないか」

 驚いた調子で言った。

「この悪魔、モロクというのか?」

 樹流徒は敵から視線を外さず尋ねる。

「モロクを知らないの? 魔界で一、二を争うほど残忍な性格で有名なヤツだよ」

 グシオンが答えると、それを褒め言葉と受け取ったのだろう。モロクと呼ばれた牛頭悪魔は口角を持ち上げた。

 あるいはその笑みは攻撃開始の合図だったのかもしれない。モロクの頬が緩んだのと一緒に、いままで閉じられていたもう一つの口(・・・・・・)が動き出す。モロクの腹部にある巨大な口が音も無く開いたのだ。鋭く長い牙が上下に分かれると、その奥には紅蓮の炎が燃え盛っていた。体内で炎が燃えている悪魔など、樹流徒は初めて見た。


 身の危険を感じた樹流徒は己の直感を信じて迷わず横に跳ぶ。

 わずかに遅れてモロクの腹から巨大な火柱が吐き出された。激しい勢いで飛び出した灼熱の炎は低い唸りを上げて闇を切り裂き、半瞬前まで樹流徒が立っていた場所を通過する。そして壁にぶつかるって真っ赤な裾を広げた。


 跳躍した樹流徒は地面を転がり素早く立ち上がる。振り返ると、坑道の壁を支える柱の表面が炎を浴びてドロドロに溶けているのが視界に入った。

 回避が間に合わなかったら俺も同じ目に遭っていた。そう考えると、心音が加速する。


「モロク。これは何の真似だよ?」

 曲がり角の陰に体を隠したままグシオンが問う。どうしていきなり襲われたのか、その理由がさっぱり分からない様子だ。

 樹流徒も正確には分っていなかった。大体予想できるというだけで。


 薔薇色に輝く大きな瞳がグシオンを睨む。

「オマエこそ何をしている? コイツは首狩りだぞ」

 モロクが初めて口を利いた。どすの利いたその声は、口からではなく全身から漏れ出しているように響く。

「え。首狩りって、あの賞金首の?」

 事実を知ったグシオンの視線が樹流徒とモロクの間を素早く往復した。

「そうだ」

 モロクが断言すると、グシオンは樹流徒をじっと見つめる。その瞳に宿る光が何を訴えているのかは本人にしか分からなかった。


 知られてしまった以上、もう正体を隠しても仕方がない。樹流徒はフードをめくって素顔を晒す。グシオンがあっと小さく叫んだ。

「分かったか? そういうことだ」

 これ以上会話を続けるのは面倒だ、と言いたげにモロクの視線がグシオンから外れる。


 樹流徒はローブを脱ぎ捨てて、若干身軽になった。

「ベルゼブブに命じられて俺を倒しにきたのか? それとも賞金目当てか?」

 と敵に問う。

「どちらでもない」

 無愛想な口調ながらモロクは応じた。

「オレは、オマエに敗れた連中の尻拭いに来てやったんだ。ニンゲンに倒されるなど、まさに悪魔の面汚し。奴らの汚名をこのオレが(そそ)いでやろうというわけだ」

 悪魔という種族としての誇りが樹流徒を生かしておくわけにはいかない……という意味なのだろう。


「それにしてもオレは運が良い。首狩りが魔界に来たという噂を耳にしたのはついさっきだからな。まさかこんなに早く出会えるとは思わなかった」

「俺はできれば戦いたくない」

「だったら何もせずオレに殺されろ」

 モロクはやや前傾姿勢になり、樹流徒めがけて突進する。直ぐ突っ込むだけの単純な攻撃だが、樹流徒が乗車したトロッコを横転させるほどの威力だ。それに恐ろしく速い。


 樹流徒は敵を引き付けてから素早い側宙で逃れた。続けざまバック宙で敵と距離を取る。坑道の広さが救いだった。狭い場所では自由に動けないし、相手の攻撃から逃れるための空間が無い。


 突進をかわされたモロクは頭から壁に突っ込んだ。衝撃で坑道が揺れる。壁に大きな亀裂が走り、表面の岩がカラカラと音を立てて剥落(はくらく)した。

「そんな強い衝撃与えたら落盤しちゃうでしょ。戦うなら外でやりなよ」

 グシオンの訴えにモロクは耳も貸さない。樹流徒も聞いてあげる余裕は無かった。


 モロクはすぐ傍で横たわっているトロッコに目を留める。それを両手で軽々と頭上に掲げた。樹流徒めがけて投擲しようという挙動を見せる。

「ちょっと待って。それボクのトロッコだよ。壊したら弁償して貰うからね」

 グシオンの抗議は今度も届かない。モロクは躊躇う素振りすら見せず、抱え上げたものを樹流徒めがけて勢いよく放った。


 ほぼ金属製のトロッコが宙を疾駆して向かってくる。避けようと思えばできたが、樹流徒は両手を広げてトロッコを受け止めた。強烈な衝撃を受けて上体が仰け反る。一歩後退したが、何とか持ちこたえた。グシオンがほっと息を吐く。

 樹流徒がトロッコを地面に下ろすと、そこへモロクの突進が迫った。見越していた樹流徒は素早く腰を落として腕を突き出しカウンターの一撃を放つ。リーチの長い爪が敵の腰に命中した。

 硬質な音と、摩擦で発生した火花が飛び散る。それらに混ざって折れた樹流徒の爪も一緒に宙を舞った。


 真正面から爪を弾いたモロクは、その恐ろしく硬い体で樹流徒に体当たりを食らわせる。カウンターにカウンターを返された格好になった樹流徒は、無防備な状態で敵の突進をまともに受けてゴム毬みたく跳ねた。背中から壁面に叩きつけられるとその衝撃で思わぬ箇所から痛みが走る。肩口がズキズキと熱くなるのを感じた。魔王ベルフェゴール戦で負った傷が疼いたのだ。

 不意の痛みに膝が折れそうになった樹流徒だが、何とか持ちこたえる。すぐに体勢を立て直したものの、敵はもう眼前に迫っていた。ひたすら突進を繰り返すつもりか、モロクは外見通り闘牛の如く何度も樹流徒めがけて突っ込んでくる。


 壁を背負っている以上、樹流徒には横へ逃れるしか選択肢が無い。それをモロクは理解していたようだ。樹流徒が横へ跳躍すると、そちらへ向かって素早く腕を伸ばした。明らかに樹流徒の行動を先読みした動きだった。

 大きな手が樹流徒の足首を掴む。樹流徒は一驚を喫したが、すぐに反撃をしようとモロクに掌を向けた。敵に電撃を浴びせようとする。

 それに気付いてか、気付かずか、モロクは凄まじい力で樹流徒の足を引っ張った。抗う術もなく樹流徒は転倒する。わずかに遅れて彼の掌から発射された青い雷光は、モロクの頭上を通り過ぎて天井で弾けた。


 モロクは腕を高々と掲げて樹流徒を宙吊りにする。間髪入れず腕をしならせ、獲物を壁に叩きつけた。続けざま腹に拳を撃ち込む。

 樹流徒は自分の全身から骨が軋む音を聞いた気がした。肉体がバラバラになりそうな衝撃が体内を駆け巡る。


 ただ、その強烈な痛みを感じる中で樹流徒は反撃に転じた。腕を触手に変えて敵の顔面を攻撃する。狙い澄ました一撃がモロクの目に突き刺さった。いかにモロクの皮膚が硬くても、その皮膚に守られていない部分はある。

「コイツ!」

 モロクは樹流徒の体にもう一発拳を叩きつけると、乱暴に投げ捨てた。それから触手を突き立てられた片目を手で押さえて全身を小刻みに震わせる。指の隙間から青い血が漏れ出した。


 放り捨てられてた樹流徒は軽く地面を転がってすぐに立ち上がる。

 モロクは顔を上げると、猛然と樹流徒に襲い掛かった。長いリーチを生かして遠目から突きや蹴りを次々と繰り出す。それほど速さはないが、一発一発が恐ろしく重たそうな攻撃だった。

 樹流徒は後ろに下がってモロクの攻撃を全てやり過ごす。壁際に追い詰められる前に横へ跳んで逃れ、続けて後方へ下がってモロクから離れる。


 すぐにモロクは追いかけた。両者の間合い縮まると腹の口を開く。牙が上下に割れ、体内で燃える炎が飛び出した。

 逃げ回ってばかりでは勝てない。肉を切らせて骨を断つ覚悟で樹流徒も攻める。モロクの腹の口が開いたと見るや地面を蹴った。正面から襲い来る炎を右上半身に浴びながら、それでも構わずモロクの腹に爪を放り込む。リーチの長い爪は大口を広げたモロクの腹を通過し、体内で燃える炎も通り抜けて、その先にある真っ赤な肉に食い込んだ。確かな手応えが樹流徒の指に伝わる


 モロクは虚を突かれた顔をしたが、それをすぐ怒りの形相に変えて樹流徒に膝蹴りを浴びせた。衝撃でモロクの腹に刺さっていた樹流徒の爪が引き抜かれる。モロクの腹から血飛沫(しぶき)が舞った。そのとき初めて痛みを覚えたらしく、モロクは表情を歪めると腹を押さえて後退する。

 かたや強烈な膝蹴りを食らった樹流徒も後ろに下がった。全身が痺れて数秒のあいだ身動きが取れない。敵の一撃はそれほど重かった。ついでに炎を浴びた顔や腕が痛む。


 樹流徒がダメージから回復すると、モロクはすでに次の行動を始めていた。

 なにやら今までとは違う動きである。モロクは鼻からすっと勢い良く息を吸い込むと、腹をいっぱいに膨らませた。その動きを警戒した樹流徒が身構えたときには、モロクは体内に溜め込んだ空気を白い煙に変えて一気に吐き出す。数本の消火器を一斉に使用してもここまで大量の煙は出ないだろう。凄まじい勢いで吐き出された白煙はモロクを中心にあっという間に広がり坑内を漂う。


 白煙の正体が分からない以上、迂闊にモロクへ近づけない。ひとまず煙から逃れようと、樹流徒は後ろへ下がった。そのあいだも煙は広がり続け、視界に映るモロクの姿がどんどん不鮮明になってゆく。

 安全な場所まで逃れた樹流徒は煙の奥で微かに浮かぶモロクの影に向かって手をかざした。牽制の一撃を放とうとする。


 それを中断させたのは、突如煙の奥に浮かびあがった複数の影だった。

 人の顔よりも大きな影が煙の中を突き抜け、樹流徒めがけてまっすぐ飛んで来る。モロクが召喚したのだろう、影の正体は岩だった。十近い数の岩が、いずれも先端を尖らせて樹流徒に襲い掛かる。

 樹流徒は後ろへ下がりながら鋭く左右を往復した。(のこぎり)の刃を描くような軌道で動き、前方から飛来する岩の塊を次々とかわした。全ての攻撃を回避するとモロクとの距離を詰めるべく白煙が届かないギリギリの場所まで前進する。


 一方、煙の奥ではモロクの腹がゆっくりと口を開けていた。それも裂けそうなくらいっぱいに開いている。

「首狩りめ……。骨まで残さず溶かしてやる」

 忌々しげな呟きと共に、モロク前方に小さな夕陽が浮かんだ。それはモロクの元を離れた途端火柱となって渦を巻きながら直進する。通路全てを埋め尽くすほどの巨大な炎の渦である。モロクの前方にあるもの全てを問答無用で飲み込む、回避しようにもできない大技だった。


 煙の奥で真っ赤な輝きが見えたとき、樹流徒は魔法壁を張り巡らせていた。ほとんど間を置かず彼の周囲を炎の渦が通り過ぎてゆく。

 嵐にも似た激しい音を立てて炎は通路を駆け抜けた。坑道を支える金属製の骨組みが次々と折れ曲がる。線路も溶けてぐにゃりと歪んだ。魔法壁にヒビが入る。このままでは耐え切れないと樹流徒が恐怖したとき、ようやく炎の渦は消えた。


 何とか命を繋いだ樹流徒だが、安心は欠片も感じなかった。もう一度今の炎に襲われたらひとたまりもない。これ以上受けに回ればこちらが死ぬと確信できた。

 時を同じくして、未だ安全な場所に隠れているグシオンがモロクの背中に向かって叫ぶ。

「バカ。そんな巨大な炎吐いたら坑内の酸素が無くなっちゃうじゃないか」

 衝動的に言ってしまったのだろう。言い終えてから、しまったという顔をした。

 気付いても後の祭りである。モロクは首から上だけをゆっくり回して、グシオンを睨んだ。片目から青い血の涙を流して不快そうに歪むその顔は、大抵の悪魔を戦慄させただろう。グシオンは縞々模様の尻尾を逆立てて身を震わせた。

「今、オレのことを馬鹿呼ばわりしたな? このオレを愚弄するヤツはたとえ誰であろうと許さない。首狩りの次はオマエを消してやるから楽しみにしていろ」

 グシオンに向かって冷然と言い渡すと、モロクは樹流徒のほうを向いた。もう一度炎の渦を吐き出してこの戦いに決着をつけるつもりらしい。腹の口がいっぱいに開いた。


 同時、モロクの瞳も微かに見開く。白煙が充満したこの空間でモロクの目に何が見えたのは不明だ。ただ、モロクは気付いたようである。樹流徒の周囲に浮かび上がった三つの神秘的な光を。

「何をするつもりかは知らんが、これ以上の抵抗など無意味だ」

 構うものか、とモロクは二発目となる巨大な炎の渦を発射した。

 鏡合わせのように全く同じタイミングで、樹流徒の周囲を囲う光のひとつが膨張する。それは光の柱となって宙に解き放たれた。


 全てを凍らせる死の光と炎の渦が衝突する。ぶつかり合う冷気と炎が大量の水蒸気を発生させた。それがモロクの吐き出した煙と混ざり合って辺りの視界を一層悪化させる。

 攻撃の勢いは樹流徒が優性だった。白い光が赤い渦の中を徐々に進んでゆく。一方で攻撃範囲はモロクが勝っていた。冷気をすり抜けた炎が坑道の内壁を這うようにして樹流徒の周囲を通り過ぎてゆく。刺すような熱に全身を襲われて樹流徒は奥歯を噛んだ。


 申し合わせたように同じタイミングで放たれた互いの攻撃は、止むのも同時だった。

 樹流徒は煙の奥でまだ微かに浮かぶモロクの影を睨んで2発目の光を発射する。

 対抗してモロクも腹から炎の渦を吐いた。樹流徒には見えていないが、このときモロクはかなり苦しそうな表情をしていた。それに心なしか炎の渦の勢いが最初よりも弱くなっている。

 白と赤。二色の光が衝突してまたも大量の水蒸気が発生した。それは樹流徒の視界を完全に奪う。モロクの姿が見えない。とはいえ、互いの攻撃は互いの姿が見えなくても当たる。それだけ攻撃の範囲と速度が凄まじいのだ。


 樹流徒は、最後の光を発射。モロクも炎の渦を吐くが、今度は明らかに勢いが弱い。青みがかった白い光が一気に炎を押し切った。

 モロクは腹の口を急いで閉じると、顔の前で両腕を交差して全身ガードを固める。死の光がモロクの全身を飲み込んで首から上以外全部を凍らせた。


 樹流徒は思い切って敵に近付く。前進すると煙の奥に隠れたモロクの影が見えてくた。その影の元へたどり着いたときには若干視界が良くなって、すぐ傍にいるモロクの顔がはっきりと見える。

 モロクは目付きを鋭くさせて歯を食いしばり、苦々しい表情ををしていた。憎まれ口を叩いたりはせず、不貞(ふて)腐れたように押し黙っている。

 樹流徒はこの後の判断をモロクに委ねることにした。

「大人しく負けを認めてくれ。そうすれば命は取らない」

 モロクは決して「分かった」とは答えなかった。ただ、苦々しい顔をして一度だけ軽く頷いた。


 戦いを終えて、樹流徒は静かな吐息を漏らす。漏らした息の量よりも少し多めの空気を吸い込んだ。多少息苦しさを感じる。モロクが何度も炎を吐いたために一帯の酸素が薄くなったからだろう。それでも酸欠に至らず済んだのは、坑内が広くて通気が良かったからに違いない。

 別の理由があるとすれば、現世と魔界における炎の違いだろうか。以前、樹流徒は市民の遺体を火葬するためにマモンの炎を使ったことがある。マモンの炎は人間の遺体をあっという間に溶かした反面、市民が身に着けていた時計などの金属に対しては効果が薄かった。その出来事からも分かるように、悪魔が操る炎は普通ではない。恐らくモロクの炎も特殊だったのだ。モロクの炎が現世の炎に比べて少ない酸素で燃焼できる性質を持っているのだとすれば、モロクが沢山炎を吐いても坑内の酸素が無くならなかったことにも一応の説明がつく。


 もっとも、そのような細かいことはどうでも良いのかもしれない。ともあれ皆生きている。モロクが素直に負けを認めてくれたお陰で犠牲者を出さずに戦いが終わった。その事実があれば十分だった。

 樹流徒は氷漬けになったモロクの横を通り過ぎる。

「大丈夫か? グシオン」

 戦闘の影響にグシオンが巻き込まれていないかどうか確認しようと、彼が隠れていた場所へ向かおうとした。


 と、そのときである。

 樹流徒の動きを追ってモロクの首が音も無く回転した。その目は怒りと狂気に満ちている。モロクは降参するつもりなど無かったのだ。頭部の口をいっぱいに開くと、樹流徒の背中に向かって炎を吐き出す。


 残心……というのだろうか、樹流徒はモロクに背を向けた後も油断していなかった。モロクに裏切られるとは微塵も考えていなかったが、意識はまだ戦いの中にあった。お陰で素早く敵の殺気を拾った樹流徒はモロクが炎を吐き出すよりも早く動き出す。振り向きざま手を触手に変えて敵の口めがけて伸ばした。モロクが炎を吐き出したときには、触手がモロクの口から侵入して喉を刺し貫いていた。

 それがトドメの一撃になった。モロクは目をいっぱいに見開くと氷漬けになったまま全身の崩壊を始める。


 気付けば、グシオンはいつの間にか樹流徒のすぐ後ろに立っていた。

 樹流徒は魔魂を吸収しながら渋面を作る。樹流徒にとってバベル計画の関係者が相容れない者であるように、モロクにとっては樹流徒が相容れない者だったのだろう。その理屈は分かるが、後味の悪い結末だった。


 グシオンは、モロクが死んだことが信じられない様子だった。

「あのモロクが……」

 などと呟いて、牛頭悪魔が最後に立っていた場所を見つめる。それから顔を上げると樹流徒と目が合った。

「危険に巻き込んで悪かったな」

 樹流徒のほうから声を掛ける。

 謝られたのが意外だったのか、グシオンは何度か目を瞬かせた。そのあと急に嬉しそうな顔になる。

「まったくだよ。キミとモロクが暴れたせいでこのあたりの線路は滅茶苦茶だ。だからキミにはもう少し先までトロッコを運んでもらうからね。そうしないとボクは造幣所まで歩かなきゃいけなくなる。それに、トロッコがないとキミを外に連れてってあげられなくなっちゃうからね」

「いいのか? 俺を助けても」

「この際キミが何者だろうと関係ないね。さっき言ったでしょ? ボクは守銭奴だけどもらった金の分だけはきっちり働くのが自慢だって」

 グシオンは蝶ネクタイの両端をつまむと、外側に向かってピンと引っ張った。




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