半円の硬貨
空の移動が不可能になった樹流徒は、徒歩で目的の町にたどり着いた。
その町には出入り口や、町の中と外を区切る境界線のようなものが一切見当たらなかった。門も無ければ防壁も無い。生垣も無ければ棒杭の一本も刺さっていない。道路にしても部分的にあったり無かったりという有様だった。それでも敢えて町の出入口を設けるとするならば、最初に通りかかった建物が外から来た者にとって町の入り口となる。
その入り口の前で樹流徒は立ち止まった。民家と思しき四角い建物に体を寄せ、建物が地面に落とす日影の中で気休め程度の涼を得る。そしてフードの奥で赤く光る瞳を動かして町の様子を眺めた。
石造りの家、石畳みの道、石の階段に石の坂……この町は全てが灰色の石で造られているようだ。石の町である。
また、建造物の材質が見事なまでに石で統一されている反面、町並みはかなり不規則だった。建物は個人が建てたい場所に好き勝手建てたような感じだし、階段や坂も明らかに不要なものが沢山ある。そのため町というよりは前衛的な巨大アートに見えた。
そんな、見ようによっては芸術的な町の中で、多くの悪魔たちが暮らしている。立ち止まって談笑している者や適当にぶらぶらと歩いている感じの者もいるが、忙しそうに動き回っている者が特に多く見えた。それでも全体的に伸び伸びして見えるのは、実際に悪魔たちが時間に追われることのない生活をしているからだろう。活気とのどかさを兼ね備えた、良い意味で変わった雰囲気の町だった。
反面気になるのは、謎の騒音である。どこからともなくカンカンと何かを叩くような音が聞こえてくるのだ。それも一つではなく、かなりの数。少しのあいだこの町に滞在する分には我慢できるが、若干耳障な音だった。その発生源は町の中に入って調べてみなければ分からない。
樹流徒は日影から出て、町の中へと進む。頭上から太陽の光が容赦なく降り注いだ。
体内に蓄積した熱を追い出そうと、樹流徒の額がじわりと汗を滲ませる。可能ならば今すぐにでもローブを脱ぎ捨ててしまいたかった。顔を晒すわけにはいかないので、我慢するしかない。
町のところどころに敷かれた石畳の道は隙間だらけの上に小さな段差があって、うっかりしていると転んでしまいそうだった。多少足元に注意しながら幾つかの建物を通り過ぎると、町を縦断する真っ赤な川が見えてくる。浅くて幅の広い川だ。
近付いてみると、川の水はぶくぶくと音を立てて泡立ち、少量の湯気を立てていた。見るからに生物に有害そうな水である。
ただ、上流を遠望すると川の中で悠々と行水している者たちがいる。悪魔だろうか、それともこの世界に適応するために進化した生物だろうか、恐竜じみた頭部を持つ河馬、分厚い全身の皮膚を更に分厚くした犀、それに熱湯をがぶがぶ飲んでいる六本足の獅子など、珍しい生き物が沢山いる。
町の様子が少し分かったところで、樹流徒は本来の目的のために動き始めた。そこら辺をうろつく悪魔を適当に捕まえて情報収集をする。魔界血管の場所を尋ねて歩いた。
――え? 下の階層に続く魔界血管? そんなの忘れちゃったよ。もうかれこれ200年くらいは行ってないからね。
――ほう、魔界血管の場所を知りたいとな? 構わんよ。ただし、お前さんの持ってる服と硬貨全部と引き換えならばの話だ。どうするね?
――悪いけど急いでるんだ。話なら後にしてくれよ。
――魔界血管? 確か東の洞窟だったかな? いや、西の塔? ん? 違うな、やっぱ南の島だった気がする。いや待てよ。北の城だったかも……
運が悪いのか、魔界血管の場所を知っている者が意外と少ないのか、有力な手掛かりが得られないまま樹流徒は町の奥へと進んでゆく。
あちこちから鳴り響くカンカンという謎の音が次第に近くなってきた。魔界血管とは何の関係もないだろうが、音の正体が少し気になる。情報収集のついでだと思って、樹流徒は騒音の発生源を調べてみることにした。
たどり着いた先は、一軒の大きな建物だった。確認するまでもなく石造りの建物である。
そこは武器や防具を販売している店――言わば武具店らしく、軒先に置かれた石の棚に、剣、斧、鎧、兜などが陳列されていた。さすがに武器や防具まで石ということはない。全て金属製だ。
謎の音はこの武具店の裏から聞こえている。それが分かった時点で、樹流徒は騒音の正体に概ね察しがついた。
店の裏手に回ってみると、そこには想像通りの光景があった。
広い工房の中で十体前後の悪魔たちが鍛冶仕事をしている。金属を炉で熱したり、ハンマーで叩いたり、ヤスリをかけたり、皆、真剣な様子で武具の加工に取り組んでいた。町中を駆け巡っていたカンカンという音の正体はこれだったのだ。
作業中の悪魔に声を掛けるのは気が引けて、樹流徒は踵を返す。謎の音の秘密も分かったことだし、今度こそ魔界血管に関する情報の聞き込みに専念することにした。
そのとき、樹流徒が振り返るのとタイミングを合わせるように、彼の目の前を炎の柱が勢い良く横切る。
驚いて反射的に炎が飛んで来たほうを見ると、そこには一体の悪魔が立っていた。
頭から二本の角を生やした猿人だ。背丈は樹流徒よりもやや低く、顔を除いて全身が真っ赤な毛に覆われている。両手にはライフル銃に似た形状の武器を構えていた。樹流徒の眼前を横切った炎はこの銃器から飛び出したものだろう。
武装した悪魔の出現に樹流徒は身構える。
「いきなり何をする?」
「オマエこそ、そんな場所で何を突っ立ってるんだ? ここはオレの工房だぞ」
猿人の悪魔はクケケッと明るく不気味な声で鳴いた。怒っているのか笑っているのか分からない。
ただ、相手の素性は分かった。たった今この悪魔は「オレの工房」と言った。きっと武具店の主人なのだ。
相手の正体がはっきりして樹流徒の警戒心が解けた。
「町の中から音が聞こえるから、何の音か気になって調べていたんだ」
樹流徒は工房の中を覗いていた理由を素直に伝える。
「キキキッ。嘘が下手だな」
悪魔は肩を揺らして再び奇妙な声を発した。
「なにが嘘なんだ?」
「ここは魔界唯一にして最大の鍛冶の町だぞ。金属加工の音は何億年も前から鳴り続けてるんだ。それを知らない悪魔がいるはずないだろう」
「でも、本当に知らなかったんだ」
「信じられないな……。というか衝撃的だ。この世にこの町を知らない悪魔がいるとは思わなかった。クケケケッ」
猿人の悪魔は眉尻を下げ、呆れたような情けないような顔をした。
続いて念のため確認するように質問をする。
「オマエ……まさかとは思うが、このオレのことまで知らないなんて言わないだろうな?」
そのまさかだった。
樹流徒が黙っていると、悪魔が少々不機嫌そうな態度になる。
「おい。嘘だろ? このオレを知らないのか?」
最初から疑惑の色を帯びていた瞳が、いよいよ不審なものを見る目付きになった。銃器の先端が樹流徒の顔に向けられる。
「無知で悪かったな」
樹流徒は落ち着いて取り繕う。心の中ではすでに逃走開始の準備を始めていた。正体がバレたら、もうこの町にはいられない。
短い緊張と沈黙が漂ったあと、銃口がそっと下ろされた。
猿人の悪魔は「仕方ねェなあ」と嘆息交じりに言う。
「一度しか言わないからよーく聞けよ。オレの名は“グザファン”っていうんだ」
「グザファンか。言われて見れば聞き覚えがあるような……」
本当は無いが。
「だろう。何しろこのオレはかつて聖界を火の海にしようとした、それはそれは恐ろしい悪魔なんだからな」
「しようとした?」
ということは実際にはしなかったのか。もしくは未然に防がれたのか。
「黙れ、黙れ。とにかく、もうオレの名前を忘れるんじゃないぞ。クキキッ」
「分かった。今度は忘れない」
何とか窮地を乗り切って、樹流徒は薄い笑みをこぼした。
グザファンはどこか満足げに頷いて
「ところで、オマエの名前は何ていうんだ? どうせ大して名の知られてない下級悪魔なんだろうが、この際だから覚えといてやるよ」
「俺は樹流……」
答えかけて、思い留まった。名前を明らかにしたら正体に気付かれてしまう。
「相馬だ」
咄嗟に答えを変えた。嘘はついていない。
「ソーマか。やっぱ聞いたこと無い名前だな。別の階層から来たのか?」
「上の階層から来たんだ。実は魔壕まで行きたいんだが、魔界血管の場所を知らないか?」
質問に答えるついでに、情報収集をする。
グザファンは首肯した。
「ああ知ってるよ」
「本当か? どこにあるんだ?」
「教えてやってもいいけど、代わりにウチの店で何か買ってくれよ。安くしといてやるからさ」
言い終えてから、ケケケッと笑う。
どうするか? 樹流徒は一考する。
悪くない取引だった。武器も防具も不要だが、それを購入して魔界血管の所在を教えてもらえるならば安い買い物かもしれない。バルバトスから受け取った硬貨を役立てるときが来たようである。
答えはすぐに出た。
「分かった。それじゃあ何か一つだけ売ってくれ」
「いいねえ。そうこなくっちゃな。クケケケ。決断の早いヤツは好きだぜ」
グザファンは銃器を地面に放り捨てると、すっかりご機嫌な様子で樹流徒の肩に手を回す。
二人は旧知の友みたく連れ立って店の表側に回った。
さっきも見たが、店の軒先には石造りの棚が設置され、その上に武具が置かれている。改めて確認すると奥の棚には指輪やネックレスなどのアクセサリー類も売っていた。そちらのほうが武具よりもかさばらなくて良さそうだった。
値札は見当たらない。樹流徒は迷わず適当な指輪を選んで
「いくらだ?」
グザファンに商品価格を尋ねる。
「ああ、それだったら紫硬貨1枚ってトコだな。いや、やっぱり2枚にしよう」
現世ではまずあり得ないことだが、魔界ではその場で商品の値段が決まるらしい。
樹流徒は腰に提げた松葉色の皮袋から紫色の硬貨を二枚取り出す。それをグザファンに手渡した。皮袋の中にはまだまだ硬貨が沢山入っている。
するとグザファンは受け取った硬貨をしっかりと握り締めてから、にやりとした。
「やっぱり二枚じゃ安すぎるな。三枚だ」
などと言って値上げをしてくる。
足下を見られたと思ったが、樹流徒は特に抗弁もせず三枚目の硬貨を手渡した。
それで味を占めたのか、グザファンが調子に乗り出す。
「やっぱ三枚じゃ安すぎる。四枚だ。いや五枚にしようかな。キキキッ」
放っておけば際限なく値段が上がってゆくパターンだった。樹流徒のことを下級悪魔だと思って甘く見ているのだろう。
力を見せるのは余り得策ではないが、この場はやむを得ない。
樹流徒は皮袋の中から四枚目の硬貨を取り出すと、それをグザファンの目の前で折り曲げてみせる。分厚くて頑丈な円形の硬貨が音もなく半月の形になった。それをグザファンに手渡す。
グザファンの視線が、掌に置かれた半円の硬貨と、フードの奥に潜む魔人の顔を往復した。
「ケケ……最近の硬貨は結構柔らかい材質でできてるんだな」
乾いた声で冗談を言いながら、樹流徒に指輪を手渡す。
「それで、魔界血管の場所は?」
「坑道を抜けるのが近道ですぜ旦那。クキキッ」
急に低姿勢になったグザファンは、遠くにそびえる山々を指差した。
「あの中で一番大きな山があるでしょう? あれは鉱山なんスよ。あの山の坑道を抜けると、その先には造幣所や別の町がありますから、そこでまた道を聞くと良いでしょう。誰か教えてくれるンじゃないスかね?」
「分かった。ありがとう」
坑道を目指して樹流徒は歩き出す。
一度だけ後ろを振り返ってみると、半分に折れ曲がった硬貨を元の形に戻そうと悪戦苦闘しているグザファンの姿が見えた。
町を出た樹流徒は、グザファンから指示された通り、遠くに連なる山々の中で最も高い峰を目指して歩き始めた。できれば空を飛んで鉱山の上を飛び越えてしまいたいところだが、鳥や竜が天空を支配するこの世界では不可能である。例外的にそれが可能なのはパズズくらいだろう。
頭上の鳥たちを若干羨ましく感じながら、樹流徒は灼熱の大地を進む。
やがて前方に意外なものが見えてきた。なんと地面に線路が敷かれている。まさか魔界にも列車があるのだろうか、果てしなく長い線路が、鉱山の方角に向かって地平線の彼方まで延びていた。
その線路沿いに少しのあいだ歩き続けていると、今度は低い石の塀に囲まれた広大な施設が見えてきた。
先ほど立ち寄った町の中から聞こえてきたカンカンという音が、この施設からも聞こえている。
何の施設かと思って、塀の外から中の様子を窺ってみると、せっせと動き回る数十体の悪魔と、彼らを囲うように置かれた大量の鉱物が見えた。悪魔たちは手作業で鉱物を選別したり、選別し終えた鉱物に炎を吐いている。また鉱物を叩いて削っている悪魔もいた。
どうやらこの施設は選鉱場であり製錬所のようである。
それで樹流徒は得心した。地面に敷かれている線路は、鉱山からこの施設まで鉱物を運ぶためのものに違いない。逆に考えれば、この線路や施設の存在が鉱山の実在を証明している。
「よう。見学か? それともここで働きたいのか?」
通りかかった悪魔が樹流徒に声を掛ける。
背丈は二メートル近くあるだろうか。頭に王冠を戴き、四本の角を生やした悪魔――デウムスだ。
「いや。偶然ここを通りかかって、少し中の様子を覗かせて貰っただけだ」
樹流徒が答えると、デウムスは特に不審がる様子もなく納得したように頷いた。
「その口ぶりだと、この選鉱場を見るのは初めてみたいだな。別の階層から来たのか?」
「ああ。上の階層から。今日初めてこの世界に来たんだ」
「ふうん。観光目的か? でなければ移住?」
「どちらでもない。大事な用があって、魔壕に行きたい」
「なるほど。じゃあこの階層はタダの通過点。オマエは旅の途中ってわけだ」
「ああ。これから魔界血管に行くんだ」
「魔界血管ね……。そうだ。魔界血管といえば、オマエあの噂知ってるか?」
ここで、デウムスがふと思い出したように言う。
「噂?」
「ああ。本当かどうかは分からないが、“ベリアル”が、しばらくのあいだ魔界血管の監視をするって話だぜ」
「監視? 何故?」
「理由は分からない。ただ、この階層を出入りさせたくないヤツでもいるんじゃないか、って皆噂してるよ」
多分、樹流徒のことだった。
となればベリアルと呼ばれる者の正体もおのずと分かるような気がする。
「ベリアルは……たしかこの階層の魔王だったよな?」
果たして想像が事実かどうかを確認してみると
「当たり前のこと聞くなよ。暑さで脳がやられたのか?」
鉤状に尖った鼻を揺らして、デウムスは苦笑いをした。
間違いない。この階層の魔王はベリアルという名前の悪魔だ。ベルフェゴールと同じように、ベルゼブブから依頼されて樹流徒を追い返すつもりなのか。あるいはベリアルがバベル計画の参加者ということも考えられる。
そのあとデウムスとひと言ふた言別れの挨拶を交わして、樹流徒は歩き出した。