憤怒地獄
魔界の各階層を繋ぐ通路・魔界血管。どうして血管などという異名が付けられたのか? 「その理由は先へ進めば分かる」とサキュバスが言っていたが、本当にその通りだった。
巨大リングの中で渦巻く光を通り過ぎると、その向こうは上下左右あらゆる方向に曲がりくねった管状の通路になっていた。通路の広さは入り口のリングと同じ大きさで、距離は相当長いとしか説明できない。言うなれば巨大トンネルだ。
ただしトンネルと言っても現世のそれとは全く様子が違った。魔界血管は天井、壁、そして床、すべてが生き物のように柔らかい何かで作られている。それは静かに脈動していた。耳を澄ませばドクン、ドクンと微かな音が聞こえてくるような気もする。“生きたトンネル”とでも呼ぶべきだろうか。
トンネルの内壁は全体が青みがかった緑色に染まっており、皮膚の上から見える静脈の色と良く似ていた。その緑色の空間を魔魂よりも鮮やかな赤い光の粒が無数に駆け巡り、長い通路の端から端までを延々と往復し続けている。
誰が名付けたのかは不明だが、魔界血管はこの通路を表現するのに相応しい名だった。魔界全体を一体の悪魔と置き換えれば、魔界血管は悪魔の全身を駆け巡る脈といったところだろう。
神秘的な雰囲気と不気味さが同居するこのトンネルの中を、樹流徒はほかの悪魔たちに紛れて歩いていた。
そっと顔を上げると、遠い道の果てで渦巻く赤黒い光が見える。それを通り抜ければ次の階層にたどり着けるはずだ。
次は一体どんな世界なのか、どれだけ強力な魔王が待ち受けているのか。不安は尽きないが、本音を言えば樹流徒は不安と同時に少し楽しみでもあった。まだ見ぬ悪魔や生き物たち、まだ見ぬ景色がすぐ目の前にある。それを想像すると冒険心が疼いた。男の性みたいなものかもしれない。
出口が目前に迫った。瞳の奥を微かに輝かせ、樹流徒は光の渦に飲み込まれてゆく。期待と緊張が一気に膨れ上がった。
光の向こう側へ一歩踏み出すと、樹流徒の不安や冒険心は軽い立ちくらみに取って代わった。
魔界の第五階層・憤怒地獄……。辿り着いてみれば、そこは肌が焼け付く酷熱の地だった。「暑い」を通り越して「熱い」。いや、それすら通り越して最早「痛い」と表現したくなるほどの体感気温が樹流徒の全身を焙る。
加えて、樹流徒の体を襲ったものがもうひとつあった。それは重力である。どうやらこの世界は上の階層よりも少しだけ重力が強いらしい。そのため樹流徒はこの世界に到着するや否や、肩に小さなおもりを乗せられたような感覚に見舞われた。
地球上ではありえない高気温と重力。とてもではないが人間の生きてゆける場所では無かった。いかに樹流徒とて死ぬことはなくてもこの階層に一週間も滞在すれば気が触れてしまうだろう。
この世界には余り長居できない。早く抜け出してしまわなければ。そう思わずにはいられなかった。
それにしても辺りは真っ暗だ。ここはどこかの洞窟らしいが、山の中身を丸々くりぬいたかのような広さがある。それくらい広くなければ巨体の悪魔は魔界血管を通り抜けられないので当然といえば当然だが、分かっていてもこれだけ大きいと圧倒された。
樹流徒の正面には曲がりくねった一本道の通路が走り、床には忘却の大樹と同じ電気回路を模した光のラインが埋設されている。同じく忘却の大樹で見たコードの束もあるが、それは通路の壁面にはめ込まれており、どこに向かって延びているのかは分からなかった。
自然と謎の技術が融合したこの空間を、大勢の悪魔が往来している。半月を描いた赤、大きくて細長い紫、そして丸い黄金色……色も形もまばらな瞳が闇のあちこちで鈍い光を浮かべていた。
周囲から目立たないように、樹流徒は努めて落ち着いた足取りで歩く。
急角度で蛇行する道の隅っこを黙々と進んでいると、やがて通路の果てから差し込む明かりが見えてきた。
洞窟の外へ一歩踏み出してみると、横から吹いた熱風が樹流徒の頬や肩に絡みつく。眼前に広がる光景を見て、樹流徒はもう一度軽い立ちくらみを覚えそうになった。
狂ったように真っ赤な太陽が容赦なく下界を照り付け、岩盤を剥き出しにした硬い大地は常人がジッと立っていられないほどの熱を放っている。空も、地上も、前方の視界を遮るものはほとんどない。目につくものといえば、ところどころに転がっている大きな岩くらいだった。草木は一本も見当たらない。悪魔倶楽部周辺も緑は少なかったが、痩せた木々や水気の無い草くらいは点在していた。この場所にはそれすらも無い。真に不毛の大地である。
ただ、こんな世界の中でも逞しく生きている者たちがいた。真っ赤な空の中を巨大な鳥や竜たちが悠々と泳いでいる。ひび割れた大地の上を往来している悪魔たちの影も五つか、六つ。皆、苦しそうな顔ひとつせず自由に動き回っていた。
この世界の住人ならば、魔界血管の場所を知っている可能性が高そうだ。そう考えた樹流徒は、いかにも土地勘のありそうな悪魔を探して視線を彷徨わせる。
すぐ一体の悪魔に目が留まった。二足歩行をする狼の悪魔だ。背丈は樹流徒と同じくらい。全身を茶色い毛皮で覆われ、服や武器など身につけているものは一切無かった。
その悪魔は両手を頭の後ろに回してダラダラと歩いており、手持ち無沙汰な様子だった。地元の悪魔だろうか。少なくとも初めてこの地を訪れた旅行客には見えない。
あの悪魔に話を聞いてみよう、と樹流徒は後を追った。
「ちょっと待ってくれ」
背中から声を掛けると
「え?」
振り返った狼の悪魔は、半開きになった眠たそうな瞳を樹流徒に向けた。
「呼び止めてすまない。ひとつ聞きたいんだが、下の階層に続く魔界血管の在り処を知らないか?」
「さあ。俺はこの辺りから出たこと無いからな」
両手を頭の後ろで組んだまま、悪魔はさもつまらなそうに答えた。
樹流徒の予想通りこの狼は地元の悪魔だったが、残念ながらこの世界全体については余り詳しくない者らしい。
「そうか。ありがとう」
樹流徒は礼を言って、次に話し掛ける悪魔を探し始める。
その隣で、狼の鼻がひくひくと動いた。
「おい。オマエ、なんだかニンゲンみたいな臭いがするな」
と言って、悪魔は腰を曲げる。樹流徒の顔を下から覗きこむような仕草を見せた。
「ああ……。現世旅行に行ったからな。多分そのせいだろう。現世から頂いてきた服をローブの下に着てるんだ」
樹流徒は誤魔化す。咄嗟にしては巧い嘘がつけた。
ただし、たとえどんなに上手な嘘でもちゃんと相手を誤魔化せなければ無意味だ。
狼の悪魔は「なるほど」と一度は納得したような素振りを見せておきながら
「でも、オマエやっぱ何か怪しいな」
疑惑の視線を樹流徒に向けた。
「おい、ちょっと顔を見せてみろよ」
さらにフードを捲れと要求する。
樹流徒に選択肢は無かった。ここで相手の要求を断れば、自分を不審者だと認めるようなものだ。
「分かった」
下手に騒がれても困るので、相手の求めに応じて樹流徒は自らフードを捲り上げた。己の顔を陽の光に晒す。
同時、悪魔の顔に向かってふっと黒い煙を吹きかけた。インキュバスが使用する力だ。この黒煙を浴びた者は睡魔に襲われる。
狼の悪魔がうおっと鳴いた。相手が首狩りキルトだと分かって発した声か、それとも自分の顔面を覆った黒煙に驚いて漏れた悲鳴だったのか。
元々眠たそうだった半開きの瞼が段々下がってくる。黒煙が晴れた頃には完全に閉じられていた。狼の悪魔は脱力しきったようにその場でへたり込み、前のめりに倒れる。そして気持ち良さそうにいびきをかき始めた。
「悪いな。しばらくそうして眠っていてくれ」
謝って、樹流徒は素早くその場から離脱した。周囲の悪魔に感付かれる前に姿を消さなければいけない。遠くに佇む大岩を目指して駆け出した。
無事岩陰に身を潜めると、そこからこっそり顔を覗かせて洞窟前の様子を確認する。地面で眠る狼の周りに早くも別の悪魔たちが集まり始めていた。
狼がいつ目覚めてもおかしくない。意識を取り戻したら「首狩りが現れた」と騒ぎ出すかもしれない。樹流徒は急いでこの場所を離れる必要があった。情報収集は後回しだ。
適当な方角に向かって樹流徒はやや足早に歩く。
洞窟からだいぶ離れてもう大丈夫だと判断すると、歩調を緩めながら辺りを見回した。魔界血管の位置を知る手がかりを求め、空と大地と岩しかない殺風景な景色の中からめぼしいモノを探す。
間もなく、遠くの地平線に何かが見えてきた。
広範囲に並び立つ凹凸……もしかすると建物かもしれない。悪魔の町でもあるのだろうか。
もし町だったら、そこで情報収集ができそうだ。樹流徒が次に目指す場所が決まった。
背中から漆黒の羽を広げ、樹流徒は上空に舞う。この世界の重力は厄介だった。地上を歩いているときはそれほど問題に感じなかったが、空を飛んでみると多少難儀さを覚えた。羽が重くて疾走感のある飛行ができない。
ただ、それを踏まえても空を飛ぶ能力は便利だった。地上を走るよりもずっと速く移動できるし、壁だろうと山だろうと障害物は全て無視できる。さらには遠くの景色まで良く見渡せた。地平線の彼方に見えた凹凸の正体が、やはり建物の群れだったと分かる。悪魔の町を一望できた。
それはそうと大きな町だ。現世ならば町というより市と呼べそうな規模だった。建物はかなり密集しており、きっと多くの悪魔が住んでいるのだろうと想像できる。
悪魔が集まる場所は樹流徒にとって都合が良くもあり悪くもあった。大勢の悪魔がいれば貴重な情報を入手できる可能性が高いが、代わりに正体が気付かれ易くなる上、気付かれた後の危険度も増す。忘却の大樹で遭遇した巨人フンババや、さきほど出会った狼の悪魔に正体を気付かれたこともあって、欲を言えばもう少し小さな町で情報収集がしたいのが樹流徒の本音だった。無論、そんな贅沢を言ってる場合では無いが……
目に映る町の姿が段々と大きくなってきた。町の中央を縦断する溝が見える。その中を何か赤いものが流れていた。血の川か溶岩でも流れているのだろうか。
魔界ならば有り得る話だ。などと考えて、樹流徒が地上を見下ろしていると――
不意に、真上から影が差した。かなり大きい。
嫌な予感がして、樹流徒は思い切り右に旋回した。
音もなく、樹流徒が飛んでいた場所を巨大な影が通り過ぎてゆく。
その正体は怪鳥だった。ハングライダーの数倍はあろうかという大きさのハゲワシである。
黒ずんだ茶色の翼を広げて滑翔する巨大ハゲワシはそのままどこかへ飛び去ったかに見えたが、遠くの空で旋回して引き返してくる。鋭い瞳を黄金色に輝かせ、樹流徒めがけて突進してきた。
正面から襲い来る脅威に向かって、樹流徒は掌をかざす。威嚇のつもりで雷を放った。敢えて狙いを外して放たれた青い雷がハゲワシの頭上を切り裂く。
樹流徒に殺意が無いことを感じ取っているのか、それとも恐いもの知らずなのか、ハゲワシは電撃を避ける素振りすら見せなかった。引き続き樹流徒めがけて宙を疾走する。
樹流徒は身構えた。飛行速度は相手のほうが上だから逃げられない。こうなったら戦って追い払うか、一時的に行動不能にさせるしかない。そう判断して、両手を前方に向ける。もう少し相手を引きつけて、今度は確実に電撃を当てるつもりだった。
そこへ思わぬ横槍が入る。
他にも敵がいたのか。ハゲワシに向かって攻撃を仕掛けようとした瞬間、樹流徒は背後から強烈な衝撃を受けた。
まさかの不意打ちを食らった彼はバランスを崩して墜落する。空中で姿勢を直して何とか着地に成功した。
これほどまともに攻撃を受けたのは久しぶりだった。背後から迫り来る存在に全く気付けなかった。恐らく、相手の攻撃に殺気が込められていなかったせいだ。
殺す気がないとしたら、一体、誰が何のつもりで攻撃してきたのか。樹流徒は上空を仰ぐ。視線の先に自分を奇襲した者の姿があった。
獅子の頭と人間の体、そして二対の白い翼を持った悪魔が宙で直立している。
その姿を樹流徒は知っていた。パズズである。人間嫌いを自称する悪魔倶楽部の客だ。樹流徒に空の飛び方を教えてくれた悪魔でもある。
いきなり現われたパズズは、着地した樹流徒には目もくれず、前方を睨んでいた。その瞳には巨大ハゲワシが映っている。両者は仲間では無いらしい。樹流徒を討ち漏らしたハゲワシは爪の先端を鈍く光らせながらパズズめがけて突っ込んだ。
パズズが大口を開けて、喉の奥から獅子の咆哮を放つ。
あらゆる生き物を萎縮させるであろう大音声が大気を揺らした。それを真正面で受けたハゲワシが驚いて身を翻す。パズズに背中を向けてどこかへと飛び去って行った。
怪鳥を追い払ったパズズは、眼下の樹流徒を睨みつける。4枚の翼を畳んで高所から落下すると、難なく着地を決めた。
「馬鹿野郎。テメェ何してやがる」
再会の挨拶もなく、パズズは樹流徒に詰め寄るなり彼の胸倉を乱暴に掴んだ。
いきなり背後から襲撃を受け、次には怒声をあびせられ、樹流徒にはわけが分からなかった。
「俺はただ空を飛んでいただけだ」
と、反論する。
それを聞いたパズズはさらに語気を強めて「空を飛んでただけだと? テメエ、オレ様が怒ってる理由が分かってないみたいだな」と言った。
「いいか、よく聞け。この世界の空は竜や鳥どもの縄張りなんだ。つまり空を飛ぶってことは奴らの領域を侵すってことなんだぞ」
そうなのか? と樹流徒が表情で返事をすると
「見てみろ。空を飛んでる悪魔がいるか?」
パズズが上空を指差す。
言われてみれば竜や鳥は空を飛んでいるが、悪魔の姿は無かった。
「じゃあ、この世界では空を飛べないのか」
「そういうことだ。ま、オレ様だけは特別だがな。鳥だろうが竜だろうが歯向かう奴らは全員返り討ちにしてやるからカンケーねぇんだよ」
「……」
「話はそれだけだ。オレ様は用があるからもう行く」
パズズが踵を返そうとする。
樹流徒はつい尋ねた。
「俺の首に掛かった賞金を狙わないのか?」
初めて出会ったときは口を利いてくれなかったほど人間嫌いのパズズである。そんな悪魔がこのまますんなりと首狩りキルトを行かせてしまっても良いのか? 疑問に感じて、尋ねてしまった。
今の樹流徒ならば、パズズが相当な実力の持ち主であることが何となく分かった。恐らくパズズは魔王級の強さを持っている。樹流徒を倒そうと思えば、可能かもしれなかった。
寸秒、パズズの全身が魔王ベルフェゴールにも劣らない強烈な殺気を纏う。
「なんだ? テメエ、オレ様に狙って欲しいのか?」
「そういうわけじゃない」
答えると、パズズはふんと鼻を鳴らして地面を蹴った。白い翼を広げ、悠々と空の世界へ飛び立つ。
その姿が遠のき完全に消えるまで、樹流徒はパズズの背中を見送った。
結局、パズズは何のために樹流徒へ警告を与えたのだろうか。それはパズズ本人にしか分からない。
樹流徒のためなのか。逆に、この世界に住む空の生き物たちを樹流徒から守るためなのか。
どちらにしても有り難いことだ、と思いながら樹流徒はローブの裾を翻した。