人間という生き物
身動きが取れなくなった樹流徒に対しても、ベルフェゴールは油断を見せない。緩やかなスピードで体を宙に浮かべると、ある高さでぴたりと静止し、冷たい瞳で樹流徒を見下ろした。その振る舞いには、決着をつけようとする気迫がまるで感じられない。それどころか迂闊に樹流徒へ攻撃するのを禁ずるような、己の軽挙妄動を許すまいとする強固な意思が見て取れた。圧倒的優位にもかかわらず勝負を急がないベルフェゴールの戦い方は、獲物が弱るのを待ち確実にトドメを刺すハイエナのそれと似ている。
樹流徒の状態を試すように、ベルフェゴールが氷の矢を放った。横並びで整列した六本が、端から一定時間ごとに発射される。
その攻撃にそろそろ慣れ始めた樹流徒は、慌てることなく対応した。遠距離攻撃と爪を駆使して、迫り来る矢を全て撃ち落とす。四肢の半分を失って不利に陥っても尚、樹流徒の鋭い動きや、闘志は損なわれていなかった。
ただ惜しいことに、樹流徒がどれだけ頑張って敵の攻撃を防ぎ続けても、戦いには勝てない。相手が悪魔の場合、弾切れや体力切れなどが一切期待できないからだ。粘るだけでは戦いは終わらない。樹流徒が勝つためには、魔王が誇る鉄壁の防御を破る一撃が必要だった。
その一撃をベルフェゴールに見舞うには接近戦を仕掛けなければいけない。もう一度空中戦を挑んで、今度こそ魔王を仕留めてみせる。
そう結論して、樹流徒は片足で立ち上がった。思い切り地面を蹴り、空に舞い上がる。
樹流徒の背中から一対の羽が広がると、動きを合わせるようにベルフェゴールは両手を広げた。
空間が捻れて歪み、魔王の周囲に円形の大きな空洞が四つ現われる。それぞれの空洞から鋭利な形の氷塊が一発ずつ放たれた。いずれの氷塊も人間の胴体に比肩する大きさがある。それらが寸秒の狂いもなく同時に発射された。
ベルフェゴールが所有する能力の豊富さに多少驚きつつ、樹流徒は羽を器用に動かして、頭上から降ってくる氷塊を避けた。即座に反撃の炎を口内から三連射する。
一、二発目はベルフェゴールが避けるまでもなく勝手に的を外し、氷塊が地面に墜落して轟音を鳴らしたとき、ベルフェゴールが最後の炎をひらりとかわした。
両者の距離が縮まる。
次で勝負を決める。次で勝負を決める。次で……。
樹流徒は頭の中で復唱した。脳髄に刻み込むように「次で決める」と何度も繰り返す。
それは、樹流徒が己の精神を鼓舞するための、己の覚悟が揺るがないようにするための、一種の自己暗示だったが、同時に微かな焦りの表れでもあった。
微かな焦り……樹流徒は、なんとしても次の攻防で決着をつけたかった。ベルフェゴールが再び死の光を放つ前に戦いを終えたいからだ。
触れたもの全てを凍りつかせるあの光は、強力な能力故か、恐らく連射性能が無い。もし無制限に使用できるならば、ベルフェゴールはとっくにあの光を無闇やたらに撃っているはずだ。それをしないということは、できないのと同じである。ベルフェゴールが再びあの光を放つまでには、いま少しの時間を要するはずだ。その前になんとか決着をつけてしまいたい……というのが、樹流徒の狙いであり、彼の心に微かな焦りを生じさせた原因だった。
それを知ってか、知らずか、ベルフェゴールはその場で樹流徒を待ち受ける。真っ向勝負を受けるつもりだろうか。氷の鎌も装備せず、自然体で宙に浮いている。その落ち着いた佇まいが樹流徒には不気味だった。
遂に両者の間合いが、互いの手の届きそうな距離まで縮まる。
今度はダミーに惑わされない。ベルフェゴール本体を確実に貫く。
樹流徒の腕に全身全霊の力が込められた。
樹流徒は、自分では冷静なつもりだった。実際、頭の中はかなり落ち着いていた。強敵相手にハンディを背負う展開は今までも何度か経験しているし、そうした場合にも弱気にならず冷静に戦ったから今まで生き延びられたという自覚があった。だから、決して樹流徒の中に己を見失うほどの焦りはなかった。
ただ、樹流徒は機械ではない。頭でモノを考え、心に様々な感情を抱える、人間という生き物だ。いくら冷静でいたくても、また冷静でいようと努めても、完全にその通りにはできない。いま、樹流徒の中には勝負を逸る気持ちがわずかに生じていた。それは通常の戦闘中であれば取るに足らない程度の心の揺れだったが、魔王が相手だと命取りになる。
決意を込めた樹流徒の一撃は、凄まじい力強さと速さを兼ね備えていたが、単純な攻撃になった。ベルフェゴールの首を狙って手刀を突き出す。
それがそこに来ると完全に読み切ったように、ベルフェゴールは紙一重で樹流徒の腕をかいくぐった。のみならず、指先から伸びた黒い鋭利な爪を樹流徒の左肩に突き刺す。
攻撃を受けた衝撃と、運命を賭けた一撃にあっさりカウンターを合わせられた精神的な衝撃。その両方が樹流徒を襲った。彼は落下する。どちらの衝撃が影響したのかは分からないが、羽を動かそうとする体に力が入らなかった。一応受身は取ったが、大地に衝突した衝撃でベルフェゴールの爪に抉られた肩の痛みが暴れる。声すら出ない痛みだった。
空中のベルフェゴールは勝ち誇るでもなく、どこか機械的な動きで追加攻撃を狙う。手を横に振り払い、その軌道上に氷の矢を出現させた。
樹流徒は仰向けで地面に倒れたまま、自由が利く片足を振り上げて一本目の矢を叩き落し、体のバネを利用して地面から跳ね起きて次の矢をかわす。目前に迫った三本目の矢を空気弾で、四、五本目を左手の爪で破壊し、最後の矢は片足で地面を蹴って回避した。動作を取るたびに肩の傷が痛んで辛かったが、動かなければ氷の矢に体を射抜かれて死んでしまう。
――この貪欲地獄にいる魔王はベルフェゴールっていうヤツなんだが、もしソイツに狙われたらさっさと逃げたほうがいい。キルトが強いのは十分かっている。でもベルフェゴールのほうが強い。
不意に、ガーゴイル三兄弟から受けた警告が、樹流徒の脳裏を過ぎった。
確かにその通りだ。ガーゴイルの言う通り、ベルフェゴールとは戦わずに逃げるのが正しい選択だった。
樹流徒は顔を横に向ける。そちら方角には深い茂みの中でそびえ立つ大樹の姿があった。
それを見たとき、樹流徒は次の行動を決定する。最後の力を振り絞るような心地で跳躍すると、羽を広げて超低空を飛んだ。目指す先はベルフェゴール……ではなく、忘却の大樹。
「あのニンゲン……。まさか、大樹に逃げ込むつもりか?」
ベルフェゴールが憤怒の形相を露わにする。すぐに急下降しながら氷の矢を射出した。
背後から迫る矢の一本が、樹流徒の羽を貫き、忽ち凍らせる。大樹の根元まで逃れた樹流徒は、凍りついた羽を解除して辺り一帯を覆う深い茂みの中に墜落した。その衝撃でまた肩の傷が痛む。口からうっと声が漏れた。額に汗が滲む。
すぐに追いついたベルフェゴールが、銀色の髭の奥で「これまでだな」と断言した。
「所詮、ニンゲンなど弱い生き物だ。心も、体も」
哀れみと、憤りと、失望が混在しているような顔をしていた。
茂みの中に体を埋めた樹流徒は、倒れたまま背中から十数枚の羽を一斉に出して、それをすべて前方に折り畳んで全身に巻きつける。羽の鎧を纏った。その状態で片手片足を使って立ち上がり、大樹を背負う。羽の隙間から鋭い目を覗かせてベルフェゴールを睨んだ。そこに怯えの色は欠片もない。
このとき、ベルフェゴールは気付いたようだ。樹流徒が敵前逃亡を図ったのではないという事実に。
「なるほど。オマエがここまで逃げてきたのは、大樹の中に逃げ込むためではなく、そうやって大樹を盾にして背後からの攻撃を防ぐためか」
少し感心したように言う。心なしか喜んでいるようにも見えた。
樹流徒は瞬き一つせず、敵を見つめる。
“魔王ベルフェゴールに狙われたら逃げろ”というガーゴイルの言葉は、紛れもなく正しかった。
それを樹流徒は認めたが、だからといって実際に逃げるかどうかは、また別の話だ。樹流徒は最初から逃げようとは微塵も考えていなかった。ガーゴイルの警告に従うのが利口だと分かっていても、それを実行するつもりはなかった。
時に道理に合わないことをするのが人間である。理屈だけで動かないのが人間である。それは人の愚かさでもあり、強みでもあった。
「だが、所詮はただの悪足掻き。そんな事をしても戦いの勝敗に何ら影響を与えぬ」
ベルフェゴールは冷然と言い渡す。真実の言葉だった。大樹を盾にして背後からの攻撃を防いだくらいでは、勝敗は覆らない。
樹流徒は口頭では反論しなかった。代わりに心の奥深くで強い言葉を燃す。
魔王に、人間の悪足掻きの力を見せてやる……と。
ベルフェゴールは周囲に神秘的な光を三つ浮かべた。先ほどまで樹流徒が恐れていた展開である。
「我々悪魔の力を得ているとはいえ、人の身でよくぞここまで戦った」
いかにもこれからトドメを刺そうとする者の言葉と共に、光のひとつが膨張する。
樹流徒は片足で大地を蹴って逃れた。光の直撃を避けたものの、羽の鎧が一部凍りつく。
ベルフェゴールはすぐさま二発目を放った。樹流徒は粘りを見せる。魔法壁で光を防ぎながら、引き続き片足だけでぴょんぴょんと大地を跳ね回ってベルフェゴールと距離を取った。それにより、早くも大樹から引き離されてしまう。もう樹流徒の背中を守るものはない。
哀れさや憎しみを通り越して滑稽さを覚えたのか、ベルフェゴールは苦々しく歪んだ口元はそのまま、耐えかねたようにふっと失笑した。
狙い済ましたように三発目の光が発射。樹流徒が羽を広げて飛び立つ暇は無い。魔法壁も使用できず、あとは羽の鎧だけが頼みの綱だが、それだけでは全身を守りきれなかった。羽はすべて凍りつき、羽の隙間から入り込んだ冷気が樹流徒の顔を襲った。忽ち樹流徒の片耳と口が塞がる。口が使えなければ炎や空気弾なども使えない。おまけに呼吸も苦しくなるという最悪の状態に追い込まれた。
凍り付いた羽を纏ったまま、樹流徒はその場で横たわる。
恐るべき魔王の実力だった。樹流徒が満身創痍なのに対し、ベルフェゴールが受けた攻撃はたったの一撃。しかもただのかすり傷だ。まともに食らった攻撃はひとつもない。
この時点ですでに勝負あったように思われたが、ベルフェゴールはきっと相手の息の根を止めるまで慎重に戦い続ける悪魔だった。
異形の手が空中にニつの空洞を出現させ、大量の蔓を樹流徒に向かって伸ばす。念のために様子見をしておこうというのだろう。
空洞の奥から這い出た細い蔓は、外見とは裏腹に強い力で、凍りついた羽を砕き、その奥に隠れていた樹流徒の全身を絡め取った。
蔓に縛られた樹流徒は宙に吊るされる。その無残な姿を見て、魔王はもう失笑もせずただ忌々しげな顔をしていた。「ようやくこのニンゲンにトドメをさせる」と言いたげな瞳は、鋭さを増すばかりだ。殺気漲る全身の挙動には、今も一分の隙も見当たらない。冷静という言葉を体現したかのような悪魔だった。
にもかかわず、である。
次の瞬間、紫ずんだ魔王の顔が青みを増したように見えた。ベルフェゴールは血相を変えて樹流徒のすぐ傍まで近付く。
「オマエ!」
そして叫ぶ。「オマエ、その体は何だ!」もう一度叫んだ。
余程驚いたのだろう。なにしろ、樹流徒の“右手が無くなっている”。右腕は戦闘中に氷漬けにされたが、切断されたわけではない。なのに無い。樹流徒の右腕が手首の少し上から全部消えていた。
ベルフェゴールの顔が大きく輪郭を歪める。鋭い視線が、樹流徒の腕から彼の顔へと移った。
樹流徒の眼が赤紫色に変色していた。念動力である。この瞬間、ベルフェゴールはようやく気付いた様子だった。樹流徒の狙いに。樹流徒に残された逆転の一手に。
息を吸う間すら命取りになるかのようにベルフェゴールはすぐ魔法壁を張った。わずかに遅れて金属同士をぶつけ合ったような音が鳴る。その音は、ベルフェゴールのすぐ背後から聞こえてきた。
続いて何かが草むらに落ちてガサッと鳴る音……。
それは、爪を剥き出しにしたまま凍った樹流徒の右手が、茂みに飛び込んだ音だった。
直前にベルフェゴールの背後で鳴った金属同士をぶつけ合ったような音の正体は“念動力で操った樹流徒の右手がベルフェゴールの魔法壁に防がれた音”だったのである。
「このニンゲンめ……。なんと馬鹿な真似をするのだ」
喫驚か、畏怖か、それともただの呆れか。ベルフェゴールは初めて見せる表情を樹流徒に向けた。
樹流徒がそれを実行したのは、彼が大樹の根元まで逃れて茂みに落下したときだった。
深い茂みに埋もれた樹流徒の姿は、ベルフェゴールの位置からは見えなかった。見えなかったと断言できる。だからこそ、樹流徒はベルフェゴールが追いかけてくるわずかな時間を使って“密かに自分の右腕を切り落とせた”のだから。
そう。樹流徒が大樹まで逃げたのは、大樹を背負って背後からの攻撃を防ぐためではなかった。茂みに隠れて自分の右腕を切り落とし、さらにその右手を茂みの中に隠すためだったのだ。すべては“草の中に隠した右手を念動力で操ってベルフェゴールに一撃食らわせるため”。
樹流徒が、茂みから立ち上がる前に羽の鎧を纏ったのも、ベルフェゴールの攻撃から身を守るためだけではなかった。羽の鎧で自分の全身を覆い隠し、右手を切り落としたことをベルフェゴールに気付かれないようにするためでもあったのだ。羽は鎧であると同時に、敵の目を欺くブラインドだった。
その後、樹流徒が片足で地面を飛び回ってベルフェゴールの攻撃を必死に避けたのも、すべては自分とベルフェゴールの位置を調整するため。茂みに隠した右腕を念動力で飛ばすにしても、ベルフェゴールの正面から攻撃したのでは簡単に避けられてしまう。敵を背後から攻撃するために、今度はベルフェゴールに大樹を背負う位置にいてもらう必要があった。
全てが樹流徒の狙い通りに進んでいた。ベルフェゴールは用心深い悪魔だ。一気に相手にトドメを刺そうとはせず、慎重に慎重に事を運ぶはず。どこかで一度攻撃が止む。その瞬間、念動力を発動して、茂みの中に隠した右腕を遠隔操作して勝負に出る。何もかも樹流徒が描いたシナリオ通りに進んだ。
だが、ベルフェゴールは気付いた。樹流徒の目が変色しているのを見ただけで全てを看破したかどうかは分からない。それでも嫌な予感はしたのだろう。ベルフェゴールは驚くべき早さで魔法壁を展開した。そして、寸でのところで樹流徒の一撃を防いだのである。自ら右腕を切り落としてまで敢行した樹流徒の奇襲作戦は、あと一歩のところで失敗した。
ベルフェゴールの全身を守っていた魔法壁が消えてゆく。樹流徒の表情が険しくなった。
「愚策を実行した、その度胸だけは認めてやろう」
賛辞が送られる。人間嫌いを自称するベルフェゴールの口から出たことを考えると、これは最大級の褒め言葉に違いなかった。
樹流徒は全身を蔓で縛られて身動きが取れず、背中から新たな羽を出しても逃げられない。口は凍りつき、念動力による奇襲でもトドメをさせなかった。
そんな中、樹流徒が唯一動かせるのがまだ凍り付いていない左手だった。四肢は蔓に縛られて動けないが、まだ攻撃する方法はある。樹流徒は左手をフォルネウスの触手に変えて伸ばした。触手の先端は恐ろしく硬い。敵の体を貫くことも可能だ。
さすがに虚を突かれたのだろう。ベルフェゴールは触手の突きは回避したが、そのあと触手が体に巻きついてくる動きには対応できなかった。フォルネウスの触手は際限なく伸びて魔王の両腕と胴体を何重にも縛り付ける。ベルフェゴールの肩から指先まで全て見えなくなるまで巻きつけた。
そしてフォルネウスの触手は伸縮自在だ。樹流徒は触手を縮める力を利用して、捕えたベルフェゴールを自分の元まで引き寄せた。両者の体が密着するくらい接近する。
「凄まじい執念……。だが、所詮は急場しのぎだ。この程度の力では私を絞め殺すことなどできない」
的確な言葉だった。触手はベルフェゴールの身動きを封じただけで、相手に傷一つ負わせていない。それだけでは勝てなかった。
このまましばらく時間が経てば、ベルフェゴールは再び魔法壁が使えるようになる。そうすれば魔王は忽ち触手の束縛から逃れるだろう。そのときが樹流徒の最期だった。
ただ……別の言い方をするならば“ベルフェゴールはまだしばらくのあいだ魔法壁を使えない”のである。樹流徒にとってはそれが重要だった。
凍りついた唇の隅に残っていたわずかな隙間から、樹流徒はかろうじて声を出す。
「ベルフェゴール。今からでも戦いをやめて、俺を先に進ませてくれ」
言葉が正確に伝わったかどうか怪しいくらい不明瞭な発音しかできなかった。
それでもちゃんと通じたようである。ベルフェゴールは一瞬耳を疑ったような顔をして、すぐに冷笑した。
「戦いを止めろ、と言ったか? それは優位に立っている者が言う台詞だ。死に損ないのオマエが吐く言葉ではない」
「ならば、俺がこれから逆転の一手を打ったとしても、戦いをやめるつもりは無いのか?」
「そんなこけおどしが通じると思っているのか?」
ベルフェゴールは耳を貸さない。樹流徒の言葉を微塵も信用していないのだろう。
それでも樹流徒はもう一度尋ねる。
「これがただの脅しじゃないとしたらどうする?」
「くどい。この状況をひっくり返せるものなら、してみるがいい」
魔王は怒りを増すばかりだ。どうあっても説得は通じないだろう。
「分かった」
ならば、やってやる。人間が覚悟を決めたときの力を見せる。
樹流徒の全身が赤く輝き始め、熱を放出し始めた。
「オマエ! 何をしている」
ベルフェゴールの顔が強張る。
そう、勝負を決する本当の賭けは、これから始まる。樹流徒が自ら右手を切り落し、念動力を使ってベルフェゴールの背後から攻撃を仕掛けたのは、確かに相手にトドメを刺すためだった。それで勝負を決めるのが樹流徒の一番の狙いだった。
ただ、たとえそれが失敗しても、樹流徒の希望が完全に潰えたわけではない。本命の一撃で敵にトドメをさせなかったとしても、次の攻撃は用意されていたのだ。
念動力による奇襲は、ベルフェゴールを倒すためだけの一撃ではない。“仮にトドメをさせなかったとしても相手に魔法壁を使用させる”という、もう一つの目的があった。
魔法壁は一度使用するとしばらく再使用できない。念動力による奇襲攻撃に気付いて魔法壁を使用したベルフェゴールを守るものは、もう何も無い。そこを攻撃するという二段構えの作戦を、樹流徒は考えていた。
樹流徒が残していた正真正銘最後の攻撃手段。それは“自爆”である。ブエルという悪魔がこれを使った。もっとも、他者を道連れに死のうとしたブエルの自爆とは違う。樹流徒の自爆は、あくまで自分が生き延びるための手段だった。
この自爆攻撃でベルフェゴールと生死を賭けた博打をする。もし倒せなければ樹流徒は死ぬ。仮にベルフェゴールが死んだとしても樹流徒が生きている保障は無い。ただ、死んだベルフェゴールから放たれる魔魂を吸収すれば一命を取り留められるかも知れない。それが樹流徒のたったひとつの望みだった。
通常の精神状態ではできない賭けだった。そんな状態に自分を追い込んだ樹流徒の覚悟、あるいは刺すような瞳が、ベルフェゴールの全身を震え上がらせる。その震動は魔王の体を捕縛する触手を通して、樹流徒の体にもはっきりと伝わった。
光と熱が加速度的に激しさを増す。全身の身動きを封じられ息をするのもやっとの魔人が、土壇場の土壇場で魔王を追い詰めた。
「やはりニンゲンは愚かな種族だ。だが……なんという恐ろしい生き物なのだ……」
樹流徒個人にではなく、人間という存在そのものに対して向けられた軽蔑と、恐怖。それがベルフェゴール最期の言葉だった。
樹流徒の体から凄まじい閃光が放出される。四散する爆風が広がって、ずっと遠くの芝生をざわざわと鳴かせた。