死の光
手応えが無い。指先に何か触れた程度の感じしかしない。
衝突の刹那、目に映ったものと手に伝わった感触の差に、樹流徒の心臓が嫌な音を立てた。
ベルフェゴールの喉には確かに手が刺さっている。なのに、この煙を突いたような感触は何だ?
目の前の状況を理解できず、ただ「しくじった」という言葉が樹流徒の頭に浮かんだ。ベルフェゴールにトドメを刺し損ねた――
結論から言えば、樹流徒の直感通りベルフェゴールは生きていた。渾身の力を込めて放り込んだ樹流徒の一撃は、敵を仕留め切れなかったのだ。攻撃の威力は申し分なかった。まともに命中すればたとえ魔王でも無事では済まなかっただろう。それが、実際にはほとんど当たっていないものだから、ベルフェゴールが負ったのはかすり傷にも等しい怪我だった。
ベルフェゴールは、ダミーを身代わりにしたのだ。武器が破壊されたのとタイミングを合わせるように、ベルフェゴールはダミーを生み出しながら真っ直ぐ後ろに下がっていた。樹流徒の手刀が貫いたのはダミーの喉であり、離脱を始めていたベルフェゴール本体には爪の先端が浅く刺さっただけだった。
予知能力の使用を疑わせるほど咄嗟の回避を見せたベルフェゴールは、恐るべきことに、窮地を切り抜けるとすぐ逆襲に転じる。状況が掴めず一瞬動きを止めてしまった樹流徒の隙を、目ざとく見逃さなかったようだ。
一旦後ろへ下がったベルフェゴールの体が、まるで壁に跳ね返ったボールのような動きで樹流徒の元に引き返す。空中を自由自在に動き回れるベルフェゴールならではの芸当だった。
眼前でダミーが消滅するのを見て、樹流徒は全てを察する。そのときにはもうベルフェゴールが攻撃の姿勢を完成させていた。片膝を胸にくっつけるほど折り曲げて、今すぐにでも蹴りを繰り出せる状態になっている。
不意を突く敵の反撃に、樹流徒は十分な対応ができない。咄嗟に身構えはしたが、所詮格好だけの、隙だらけの防御である。針の穴を通すような魔王の蹴りがいとも簡単に樹流徒のガードをすり抜けて、彼のみぞおちに突き刺さった。
ベルフェゴールの痩躯からはおよそ想像できない、重たい一撃だった。内臓が押し潰されたと錯覚するほどの衝撃を感じながら、樹流徒は後方へ吹き飛ぶ。そのあいだ呼吸と全身の動きが停止した。
墜落する樹流徒を狙って、ベルフェゴールが氷の矢を放つ。横一列に並んだ六本の矢が端から順番に飛び出した。
丁度一本目の矢が宙から弾き出されたとき、樹流徒はダメージの影響から回復した。掻き込むように息を吸うと、急いで羽を動かて体勢を立て直す。爪を振り払って、目前まで迫った氷の矢を弾した。やや不安定な体勢で着地を決めると、芝の上を転がって次の矢を回避する。ひとまず難を逃れた。
地面から跳ね起きて、残った矢を全て爪で叩き落すと、樹流徒の周囲を旋回していたベルフェゴールのダミーが一斉に消える。時間が経過すると勝手に消滅するのか、それともかすり傷程度とはいえベルフェゴール本体に一撃与えた影響だろうか。
樹流徒は、上空の魔王を仰ぎ見る。
「まさか、ニンゲンから攻撃を受けるとは夢にも思わなかった……」
首からたった一滴の青い血を流して、ベルフェゴールは小さな笑みを浮かべた。笑みといってもあくまで忌々しげな顔つきで、人間相手に一太刀浴びせられたことへの屈辱感がありありと滲み出ている。
対照的に、樹流徒の表情は「魔王と互角に渡り合える」という自信に満ちていた。ベルフェゴールは力の出し惜しみなど一切していない。強敵には違いないが、決して勝てない相手では無い。それを今回の攻防で確信したからだ。
無論、自信が油断に繋がることはあり得なかった。ベルフェゴールは既に次の行動へ移っている。その挙動を、樹流徒は警戒してもし足りないつもりで集中して見ていた。
何か新しい攻撃を繰り出そうとしているようだ。ベルフェゴールは体の周囲に三つの青みがかった白い光を浮かべた。
とても美しい光だ。小さいが、神仏が顕現したかのような輝きを放っている。今が戦いの最中でなければ思わず見惚れしまいそうな煌めきだった。
その神秘的な輝きの中に、樹流徒は底知れない恐怖を感じる。今、ベルフェゴールに近付いては駄目だと判断して、その場で足を止めた。脇を締め、つま先に力を入れて、いつでも防御、回避のどちらでもできるように準備する。もちろん、隙あらば反撃に転じるつもりだった。
結果として樹流徒が選択したのは回避だった。
ベルフェゴールを囲う三つの輝きの内ひとつが急激に膨れ上がり、かと思えば、眩い円柱状の光となって天から落ちる。なんという巨大な輝きだろうか。最初は握り拳くらいの大きさだった光が、複数の人間を丸呑みできるほどにまで広がった。それがベルフェゴールの元から飛び出して半瞬も経たない内に大地と衝突する。
光が膨張を始めた段階で、樹流徒は回避を始めていた。防御を選択してはいけない。絶対に攻撃を受けてはいけないという予感がして、ほとんど無意識の内に体が動いていた。
全力で地を蹴った樹流徒は、後ろに高く跳躍してなんとか攻撃をやり過ごし、ついでに羽を広げて上昇する。光の変化を見逃さなかったから、ぎりぎりで回避が間に合った。
雷の如く空から落ちた光の柱は、大地を突き刺すと真っ白な冷気を広範囲に拡散させ、風に揺れていた草花の動きを完全に停止させた。氷の矢とは比較にならない威力だ。神秘的な輝きの正体は、触れたものを何もかも瞬時に凍らせる死の光だった。
空に逃れた樹流徒だが、安心するのはまだ早い。魔王の傍で待機するく光はあとニつ残っている。その片方がいま激しく煌いた。膨張した光が円柱を模って、地上に落ちる。
樹流徒は羽をいっぱいに広げて滑翔し、急旋回した。それにより何とか直撃だけは避けたが、被弾は免れなかった。片方の羽が光に飲み込まれる。
樹流徒の背筋に刺すような寒気が走った。それは恐怖や戦慄による悪寒ではなく、背中を襲った冷気が起こした物理的な寒気だった。
光を浴びた羽は忽ち凍り付いて刃物のように固まる。確認するまでも無く、そのような羽では空を飛べない。片翼を失った樹流徒の体は落下を始めた。
このままでは地面に衝突する。その衝撃には耐えられるが、問題なのは着地の瞬間をベルフェゴールに狙われることだ。
なんとかしなければ。その一心で、樹流徒は凍り付いた羽を捨てて新しい羽を展開する。ただ、そのときにはもう地上がかなり近くまで迫っており、墜落は避けられなかった。今更羽をはばたかせても、せいぜい落下の速度を抑えるくらいしかできない。
ベルフェゴールの傍にはまだ白光がひとつ残っている。それはやはり樹流徒が着地する寸前を狙って膨張した。
あの光に全身を飲み込まれれば命は無い。樹流徒は両手を地面に向け、同時に火炎砲を放った。火炎砲の爆風を利用して自分の体を吹き飛ばし、攻撃を回避しようと試みる。
機転を利かせた、と言うより苦渋の決断でしかなかった。高所から落下した樹流徒の体は、火炎砲ニ発分の強烈な爆風を浴びても、さほど大きな軌道変更が出来ない。両の羽を必死に動かして落下の速度を落とし、火炎砲が爆発した瞬間に羽をパラシュートのように広げて爆風を受け止めたからこそ、何とか方向転換だけは間に合った。ただ、光の柱を完全に回避するだけの推進力は得られなかった。
今度も直撃こそ避けたものの、被弾はした。樹流徒の右腕が光の柱に飲み込まれる。肘から先が瞬時に凍りついた。痛みを覚える暇も無い。氷漬けにされた腕から感覚が失われるまで、ものの数秒だった。
爆風を浴びた樹流徒の体は、カチコチに固まった冷たい草花の上を転がる。
ベルフェゴールは腕を横に振り払い、その軌道上に出現させた氷の矢を次々と飛ばした。
氷漬けになった右腕の状態を確認する暇も無く、樹流徒は素早く身を起こし、迫り来る矢を爪や空気弾で迎撃する。最後の一本を跳躍で回避すると、そのまま羽を広げて空へ飛び立った。
空中での速さはどちらに分があるか、すでにはっきりしている。それは樹流徒だけではなくベルフェゴールも理解しているはずだ。
故に、ベルフェゴールは逃げようとしなかった。何も無い空中から氷の鎌を出現させて、長い柄を両手で握り締める。接近戦に応じる構えを見せた。
しかしそうと見せかけて氷の矢を使われたら厄介だ。それを防ぐために、樹流徒は牽制攻撃を仕掛ける。飛行しながら頭上のベルフェゴールに掌をかざすと、電撃を放った。青い雷が耳の奥に残る乾いた音を立てながら宙を切り裂き天に昇ってゆく。
対して、魔王の動体視力は雷の動きすら見切るというのか。ベルフェゴールは眼下から迫る雷を鎌の刃で受け止め、なぎ払って消し飛ばした。
それだけで終わらない。攻撃を防ぎきったベルフェゴールは鎌を肩に担いぐようにして構えると、急降下を始めた。樹流徒のお株を奪おうとするように接近戦を挑む。
樹流徒も相手めがけて突進している。両者の間合いは一気に縮まった。
ベルフェゴールの両腕が大きくしなる。それは樹流徒が攻撃の間合いに入った瞬間、鋭く斜めに振り下ろされた。遠目から飛んだ鎌の刃が樹流徒の首を狙う。それは、樹流徒の右側から放たれた攻撃だった。いま、樹流徒の右腕は凍り付いて動かない。反対の手を使うにしてもベルフェゴールの一閃を防御するのは難しかった。
首狩りキルトが首を狩られて死ぬなど、笑えない皮肉だ。樹流徒は上体と首を全力で後ろに反らして、寸でのところで凶刃を避けた。同時、ベルフェゴールが鎌を頭上に掲げたのが見えた。もう一撃来る。
今の体勢では反撃できない。一か八か、樹流徒は羽を畳むと、上体を反らした勢いに逆らわず、反対にその勢いと足を振り上げる力を利用して、落下しながらくるりと後方に宙返りをした。振り上げた足から伸ばした爪で、再度ベルフェゴールが振り下ろしてきた鎌を弾き飛ばす。
まさかそんな方法で攻撃を防がれるとは思ってもみなかったのだろう。わずかに見開かれたベルフェゴールの瞳が、己の手を離れて地上に落下してゆく鎌の軌道を追った。
この戦いで初めて、魔王に大きな隙が生じる。隙と言っても、ベルフェゴールは決して樹流徒の実力を侮って油断していたわけではない。それは実際ベルフェゴールと手合わせをしている樹流徒自身が良く分かっていた。ただ単純に、相手の虚を突く樹流徒の動きがベルフェゴールを驚かせたのである。
いかに魔王でも、度肝を抜かれることはあるのだ。そのあいだに樹流徒は羽で空気を叩きつけて、落下する体を宙に留めた。安堵する間もなく、頭上の敵を睨んで反撃に移る。
そのとき我に返ったのだろう、ベルフェゴールがおっと短い声を上げた。
凍り付いた右腕は使えない。樹流徒は上昇すると、勢いそのまま左手を振り上げて敵の脚を狙った。それをかわそうとベルフェゴールが後退したところへ、近距離からの火炎砲を放つ。
この連続攻撃を回避できる悪魔はそういないだろう。特に動きが鈍重な悪魔ならば最初の一撃をまともに食らっていたはずだ。それに引き換え、魔王の壁は厚く、一筋縄ではいかなかった。樹流徒の動きをある程度予測していたらしく、ベルフェゴールはいつのまにか新しい鎌を装備していた。
三日月を描いた氷の刃が、火炎砲を防御する。激しい爆音と共に氷の破片が飛び散り、ベルフェゴールの手元には刃を失った鎌――ただの長い棒が残された。
まだ攻防は終わっていない。火炎砲が通じないと見るや否や、樹流徒は敵に向かって石化の息を吹きかけた。流石の魔王もこの攻撃までは回避できない。大量の白煙がベルフェゴールの全身を包んだ。これでベルフェゴールの肉体に石化攻撃への耐性の無ければ勝敗は決していただろう。
残念ながら現実は違った。ベルフェゴールの脚が白煙の中から飛び出し、樹流徒の胸を突く。威力は無い。軽く押す程度の力だった。石化攻撃が効かないことを十分に予想していた樹流徒は、攻撃を放ちながら羽の動きを止めて落下を始めていたのである。そのためベルフェゴールが放った強烈な蹴りも非常に浅く入った。
「癇に障るニンゲンめ……」
魔王の渋面が、今回の攻防の勝者がどちらであるかを物語っていた。
無事に着地した樹流徒は、即座にベルフェゴールを仰ぎ見て、すっと息を吸い込む。吐き出す息と共に青い炎の球体を三発連続で放った。
上空のベルフェゴールは体を左右に往復させて炎をかわすと、地上スレスレまで下降する。
魔王が次に何をするつもりか、樹流徒には分かった。
予想通り、ベルフェゴールは樹流徒の周囲を旋回しながら分身を生み出す。ダミーの数が三、四と増殖し、それが十体まで増えるのにものの数秒。樹流徒の目はベルフェゴール本体を見失った。
この状況に追い込まれると、集中力や運との戦いになる。樹流徒はベルフェゴール本体の攻撃の的にならないよう絶えず周囲を警戒し、動き回りながら、遠距離攻撃で分身を消してゆく。
前の攻防では、樹流徒がダミーを攻撃した瞬間に合わせて奇襲を仕掛けたベルフェゴールだが、それを逆手に取られて反撃を受けたため、同じ過ちは繰り返さなかった。今度は樹流徒に攻撃のタイミングを悟らせず、あらゆる方向から氷の矢や槍を飛ばす。
それら際どい攻撃を、樹流徒は全てかわした。彼が寸秒も集中力を途切らせなかったから、という理由もあるが、それ以上に運が良かった。こんな攻撃を何回も繰り返されたら、集中力が持続するかどうかにかかわらず、その内に間違いなく被弾してしまう。
ダミーの数が四体まで減ると、残りはベルフェゴールが自ら消した。魔王は両手を広げ、掌の上に漆黒の丸い空洞を2つ出現させる。それぞれの空洞から植物の蔓が大量に飛び出した。合わせて二十本くらいだろうか、半分は宙を伝い、もう半分は凍り付いた地面を這って、残ったダミー消し去りながら樹流徒目指して殺到したのである。
素手でも千切れそうな細い蔓だが、外見に惑わされてはいけない。樹流徒は横に駆けて迫り来る魔手から逃れた。
いや、逃れていない。蔓は自らの意思を持ったかの如く樹流徒を追跡し、彼の足に絡みついた。
樹流徒は素早く反応する。巨大クラゲの悪魔フォルネウスや、メイジとの戦いで似たような攻撃を経験していたのが役立った。焦ることなく、炎を吹いて蔓を焼き尽くす。
そのあいだにベルフェゴールは次の行動に移っていた。蔓による攻撃は最初からただの時間稼ぎのつもりだったのだろう。
魔王の周囲に三つの光が浮かび上がる。先程樹流徒の右腕を凍りつかせた、光の柱だ。
神秘的な輝きのひとつが急速に膨らんで、爆発した。襲い来る円柱状の光を、樹流徒は横っ飛びで回避する。光の柱を目視してから避けても間に合わない。光が膨張している最中に動き出して、なんとか直撃を避けられるくらいである。
あらゆる生命を死に導く光の柱は、地面に残ってた蔓をすべて氷漬けにした。広範囲に広がる冷気が足元を吹き抜けて、樹流徒は軽く歯噛みする。
反撃に移る暇も無い。ベルフェゴールが次の攻撃を行う。
それは樹流徒の虚を突いた。ベルフェゴールは残りニつの光を続けざまに射出したのである。樹流徒は真横に跳躍して最初の一発を避けたが、逃れた先にはすでに次の光が直進していた。
方向転換をしている暇はない。逃げ道を塞がれた樹流徒は、背中の羽を前方へ折り畳み上下に重ねる。身を屈めて片膝を着き、防御を固めた。羽の鎧である。以前、八鬼の一人である柝雷と戦ったとき、広範囲に広がる毒砂を防御したのと同じ方法だ。
それにより樹流徒の命だけは守られたが、無傷で済むはずがなかった。なにしろ柝雷の毒を遮断したときは数十枚もの羽を折り重ねたが、今回はたった一対の羽を使っただけの薄い鎧だった。それでは鎧の厚さも、面積も全然足りない。羽で覆い切れなかった樹流徒の右肩や左足が凍りついてしまった。すでに動かない手と同様、左足からも感覚が失われてゆく。
これで樹流徒は片手片足の機能を完全に失った。もう、走ることはできない。流石の樹流徒も魔王相手にこの不利は痛かった。