悪魔倶楽部
悪魔との予期せぬ戦闘に巻き込まれ、それを何とか乗り切った樹流徒…………彼はいま、とあるコンビニに来ていた。無論、悪魔と戦った場所とは別の店である。
樹流徒はビニール袋の中に店の弁当を素早く詰め込む。今度は悪魔と遭遇しない内にバルバトスの店に戻りたかった。それ以上に、早くアンドラスに会いたい気持ちが強かった。何しろ、上手くいけば彼からマモンの居場所が聞けるかも知れない。
いっぱいに膨らんだビニール袋を手に提げて、店の出口に差し掛かる。外には出ず、その場で立ち止まった。そしてポケットの中から矢羽を模した黒い鍵を取り出す。現世とバルバトスの店を直結させる不思議な道具である。
樹流徒はこの鍵を、眼前にある自動ドアに使用することにした。確かバルバトスは「ガラスか鏡に鍵を挿し込めば良い」と言っていた。それが本当に正しいのであれば、自動ドアに張られたガラスを利用しても特に問題は無いはずだ。
樹流徒は、早速それを実行してみた。
鍵の先端を飲み込んだガラスの表面が、水面の如くゆらゆらと揺れる。当然のように成功した。これを通り抜ければ間違いなくバルバトスの店に通じるはず。樹流徒は足を前へ進めた。
ガラスの水面に飛び込むと、彼の視界を真っ暗闇が包む。かと思えば、瞬きする間もなく周囲が見覚えのある酒場の風景に変わった。辺りを包む空気も急変する。
樹流徒は店の入り口に立っていた。
「キルトか。どうやら鍵の使い方は間違えなかったようだな」
カウンターの奥に立つバルバトスが笑みを浮かべる。
樹流徒は軽く頷いてそれに応えた。
彼が店内を見回すと、ライオン頭の悪魔・パズズとアンドラスの両名は、まだ席に腰掛けていた。新たな客の姿は見えない。
樹流徒はすぐにアンドラスの元へ向かった。
カラス頭の悪魔は未だグラス片手にうつらうつらしていた。鋭いクチバシが短い振幅で前後して、まるで啄木鳥の玩具みたいになっている。半睡状態で、とても気持ちが良さそうだった。
彼の甘美なひと時を邪魔するのは少々気が引けたが、樹流徒は一刻も早く情報を得たい気持ちの方が圧倒的に強かった。アンドラスが目を覚ますまで悠長に待っていられない。
二、三回声をかけてみると、悪魔はしゃがれた声でううんと唸って重い瞼を半分まで持ち上げた。スローモーションのような動作で首から上だけ樹流徒ほうに向ける。
「ん……。おお。誰かと思えばニンゲンじゃないか。えーと。確かキルトだっけ?」
「そうだ」
「またオレに何か用かい?」
「ああ。実は、現世に戻ってこれを持ってきたんだ」
樹流徒はビニール袋に手を突っ込んで、中のものを取り出す。ガサガサと袋の擦れる音がするたび、テーブル上に弁当が並んだ。
「おお。これはまさか」
眠た気な半月を描いていたアンドラスの瞳が満月になる。
「お前が欲しがっていたものだ」
「これがあの噂に聞いた“こんびにべんとー”か。本当に入手してくれたんだな」
アンドラスは指を弾いて鳴らす。椅子に座ったまま、上半身だけで小躍りを始めた。顔がカラスなのでその表情からは感情が読み取りづらいが、非常に嬉しそうに見える。
「それで……例の話は思い出してもらえたか?」
樹流徒が頃合いを見計らって尋ねた。
それによりアンドラスは軽快なリズムを刻んでいた上体を停止させる。
「ん? ああ。マモンの居場所だろ? 分かってるよ。たった今思い出したぜ」
「どこにいるんだ?」
「現世に“マソ神社”って場所があるらしい。マモンはそこに住みついたみたいだな」
「あんな場所に」
今アンドラスが口にした“摩蘇神社”というのは、龍城寺市郊外の更に外れに佇む小さな神社だった。樹流徒はまだそこへ行ったことはないが、場所だけは知っていた。
すぐにでも神社へ向かおう。
彼は即決した。迷う理由は何ひとつ無かった。
樹流徒は、貴重な情報をくれたアンドラスに礼を言って、席から離れる。
一方、アンドラスはクチバシを使って一心不乱に弁当の中身を突付いていた。青年の声は全く耳に届いていないようである。
樹流徒は逸る気持ちを抑えつつ、しかし気持ち足早に客席を横切る。カウンターの前に立った。
バルバトスは、いつのまにか一人で酒を煽っている。今は他にやる事が無いのだろうか、どこか時間を持て余しているように見えた。
彼の巨大な手に収まったグラスは汗をかいている。積み重なった氷が水面より頭を覗かせていた。
バルバトスの背後には一枚の扉があって、その奥から微かな物音が聞こえてくる。店の従業員が作業でもしているのかも知れない。壁際では、灰色の猫・グリマルキンが、体を丸め寝転がっていた。
「ありがとう。おかげで貴重な情報が手に入った」
樹流徒はバルバトスに礼を述べる。
「話は聞こえていた。またすぐ現世へ向かうのか?」
「そうするつもりだ」
「そうか。また来るがいい。この店はいつでも開いている」
「ああ。それじゃあ」
あっさりとした会話を終え、樹流徒は踵を返そうとした。
が、彼は体の向きを九十度回転させたところで止める。「そういえば……」と呟きながら再びバルバトスの方に向き直った。
「ん?なんだ?」
巨人の悪魔は口元まで運びかけたグラスをカウンターの上に戻す。
「今ふと思ったんだが、この店の名前は何て言うんだ?」
樹流徒は素朴な疑問を投げかける。特に他意は無かった。雑談のつもりでもない。
するとバルバトスは首を左右に動かす。
店の名前を尋ねたのに、どうして首を横に振るのか? 樹流徒がその意味を理解できずにいると、ほとんど間を置かずにバルバトスが答える。
「名前は無い」
「無い?」
「そう。この店は七百年以上続いているが、まだ名前が決まっていないのだ。焦って決める必要も無いしな」
「そうなのか」
樹流徒は少々驚いた。
人間と悪魔。種族による感性の違いもあるだろうが、随分とスケールの大きな話だった。平均寿命が百年に満たない人間にとっては少し考えづらい話である。
「しかし……言われてみればそろそろ店の名前をつけても良い頃かも知れん」
するとバルバトスは顎に手を添えた。そのままの姿勢で少しの間考え込む仕草を見せてから
「うむ。良いことを考えた。オマエが店の名を考えてくれないか?」
突然、樹流徒にそのような提案を持ちかける。
「え。何故僕が?」
思いもよらぬ展開に、樹流徒は目を丸くする。何故そういう話になるのかが分からなかった。
対照的にバルバトスは淡々とした語り口でその理由を述べる。
「魔界では、ニンゲンが命名した店というのは未だ前例が無い。もしオマエが協力してくれればこの店は悪魔史上に名を刻む事が出来るだろう」
「そんなことで自分の店の名前を決めてしまって良いのか?」
「ああ。だからこうして頼んでいる」
「しかし……」
樹流徒は躊躇う。自分の些細な疑問がよもやこのような依頼に発展するなどとは考えてもみなかった。
「さあ。早くしろ」
バルバトスはもうすっかりその気でいる。樹流徒を急かした。
「本当に僕で良いのか?」
樹流徒が念を押す。
「良い。今すぐ頭に浮かんだものを言え。それにする。さあ、言え」
「分かった。じゃあ、そうだな……」
樹流徒は瞬発的に想像力を働かせ
「悪魔倶楽部……とか」
言われた通り何の捻りも加えず、ただ頭に浮かんだ文字列をそのまま声にして出した。
「ふむ……。アクマクラブか。オレ達悪魔からしたら妙な響きだ。しかしそこがいかにもニンゲンが名付けた風で良いかも知れん」
「そうか。もし気に入ってくれたなら良かったが……」
「うむ。では、この店はたった今からアクマクラブにする」
バルバトスはニヤリとする。それからグラスの中で揺れる液体を一気に飲み干して心地良さそうな息を吐いた。