忘却の大樹
――空気の流れが変わってきた……。もうすぐ忘却の大樹が見えるぞ。
――ねえ、キルトに教えてあげた方がいいんじゃないかな?
――おーい、起きろよキルト。目的地が近いみたいだ。
ガーゴイル三兄弟の騒がしい声で、仮眠を取っていた樹流徒は目を覚ました。
巨大竜ガルグユの背に乗って、樹流徒たちはかなりの距離を旅してきた。もしかするとこの世界を半周くらいしてしまったのではないか、と錯覚するほどの長距離移動である。
足下には暗雲が大海原のように広がり、同じ景色がどこまでも延々と続いていた。頭上には太陽と良く似た星がさんさんと輝いているが、それがなければ忽ち方向感覚が狂ってしまう。もっとも、ガーゴイル三兄弟曰く「ガルグユはたとえ真っ暗闇の中でも自分の位置や、方角を正確に把握できるから心配するな」らしい。
事実、ガルグユはどこかを目指して真っ直ぐ飛んでいた。この世界には太陽が三つあって、内ひとつが樹流徒たちの真上で輝いているのだが、ずっと遠くにも別の太陽が見える。そのため上空は常に真昼間で、太陽の位置で方角を判断しようとすると間違いなく混乱する。それでも常に一定の方を目指して飛び続けるガルグユには、渡り鳥以上に優秀な空間認識能力が備わっていた。
ガルグユは飛行能力も非常に優れていた。樹流徒が羽を何十回も扇いで進まなければいけない距離を、ガルグユは翼のはばたきひとつで進んでしまう。もし樹流徒が自力で魔界血管までたどり着こうとしていたら、きっと何日もかかっていただろう。ガルグユは時折大地に降り立って食事や休憩を取るが、そのタイムロスを差し引いても樹流徒が自力で移動するよりは断然速かった。
ただ、そんなガルグユの飛行速度をもってしても、魔界血管までの道のりは長い。道中何かしていなければ、どうしても時間を持て余してしまう。
そのため、樹流徒とガーゴイル三兄弟は他愛もない話をして暇を潰した。他にすることがなかった、とも言える。本もゲームも筆記用具もスポーツ用品もないし、その上ガルグユの背中という不安定な足場で可能な暇潰しといえば、これはもう会話以外になかった。その会話にしたって、相当大声で話さなければ高速飛行しているガルグユの背中を流れる風にすべてかき消されてしまうので大変だった。
会話というのはしばしばキャッチボールに例えられるが、樹流徒と三兄弟の会話はさながら野球の試合だった。試合中、ピッチャーはキャッチャーミットめがけて全力でボールを放り込むが、キャッチャーはゆるいボールをピッチャーに返す。投げるという行為一点だけに注目すると、ピッチャーのほうが大変なのだ。
樹流徒がピッチャーで、三兄弟がキャッチャーだった。三兄弟は現世に強い興味があるらしく、科学、政治、思想や宗教など、人の世に関するありとあらゆる質問を次から次へと樹流徒にぶつけた。その一方で、樹流徒が魔界にいる理由やこれから何をするつもりなのか、そうしたことを改めて尋ねることはなかった。
元々誰かと会話する場合は聞き手に回ることが多かった樹流徒だが、今回は質問される側に回って三兄弟の五倍も十倍も喋った。キャッチャーから投げ渡された何倍もの力でピッチャーが投球するように……。樹流徒は、今日だけで一生分の言葉を使い切ってしまったような気分になった。
もちろん樹流徒が完全に一方的に答えていたわけでは無い。三兄弟の口からもいくつか興味深い話が飛び出した。
その中でも樹流徒が一番面白いと感じたのが、三兄弟の名前に関する話だった。彼らの名前は全員ガーゴイルなのだが、名前を呼び合うときはアクセントの違いをつけて互いを区別しているらしい。怒り顔のガーゴイルは「ガ」の部分を、笑顔のガーゴイルは「ゴ」の部分を、そして泣き顔のガーゴイルは「イ」の部分を、それぞれ微妙に強く発音することで混同を避けているというのだ。
「そんなことをするよりガーゴイル1・2・3みたく別々の名前をつけたほうが手っ取り早いんじゃないか?」と樹流徒は指摘したが、三兄弟が言うには「ガーゴイル以外の名前にするのはガーゴイルとしてのプライドが許さない」らしい。
そうした本当にどうでもいいような話をいくつも交わしているうち、樹流徒と三兄弟はかなり友好的な雰囲気になった。
だからなのか、会話をしている最中、ガーゴイルが樹流徒にこんな警告をした。
「この貪欲地獄にいる魔王は“ベルフェゴール”っていうやつなんだが、もしソイツに狙われたらさっさと逃げたほうがいい。キルトが強いのは十分に理解している。でもベルフェゴールのほうが強い」
その言葉に樹流徒は「分かった」と答えたが、魔王を倒さなければ先へ進めないならば、どうしても戦いは避けられなかった。
長話を終えると、樹流徒は三兄弟の勧めもあって仮眠を取らせてもらった。もしかすると今後ベルゼブブの元にたどり着くまで休憩する時間は無いかも知れない。今のうちに精神を休めておいたほうが良いかもしれない考えた樹流徒は、遠慮なくガーゴイルの言葉に甘えさせてもらった。
そして、すっかり気分転換が完了して、そろそろ仮眠をやめて起きようかと思っていた頃。
「おーい、起きろよキルト。目的地が近いみたいだ」
というガーゴイルの呼び声が、丁度良いタイミングで聞こえたのである。
樹流徒は巨竜の背中に寝かせていた体を勢い良く起こした。
ガーゴイルたちに駆け寄って、遥か前方を遠望する。
程経て、何もない暗雲の海に変化が訪れた。
「見えたぞ。あれが忘却の大樹だ」
ガーゴイルが遠くを指差す。
それが指し示すものを視界に捉えたとき、樹流徒の全身はぞくぞくした。
雲を突き抜けて、恐ろしく巨大な樹木がそびえ立っている。樹の姿はしているが、本当に樹なのかと疑ってしまう大きさだった。頭はゆうに雲を突き抜け、太陽を掴もうとするかのような勢いで天高くまで伸びている。雲がかかった山のことを雲山と呼んだりするが、忘却の大樹は言うなれば特大の雲樹だった。
「あの樹の中に魔界血管があるんだな?」
「そうだ。ただ、大樹の内部は不思議な空間になっているみたいだから気をつけろよ」
と、樹流徒に警告を与えたのは怒り顔のガーゴイルだった。
「不思議な空間というのは、魔空間のことか?」
「いや。魔空間ではないが、それと同じようなものらしい」
「じつはオレたち、上の階層には何度も旅してるんだけど、下の階層に行ったことはないんだ。だからあの樹の中がどうなっているのか、詳しく知らないんだよ」
そう語るのは泣き顔のガーゴイル。
悪魔にとって別の階層へ移動することは、人間が海外旅行へ出掛けるのと同じような行為なのかもしれない。もしそうだとすればガーゴイルたちが下の階層に行ったことがなくても別段不思議ではなかった。
「ただ、聞いた話によると、下手にあの樹の中に入ると一生出られなくなるって話だ」
「百年前、大樹に足を踏み入れて、未だに彷徨っているヤツもいるって聞いたことがあるよ」
脅しめいたガーゴイルたちの説明に、樹流徒が真剣に耳を傾けていると……
急に足場が強く揺れて、樹流徒たちは宙に投げ出されそうになった。ガルグユが停止したためである。どうやら目的地に到着したらしい。
「じゃあ、ちょっと名残惜しいけどここでお別れだね」
泣き顔のガーゴイルが言うと、本当に名残惜しそうに聞こえる。
「現世の面白い話を沢山聞かせてくれてありがとな。楽しかったよ」
笑顔のガーゴイルが言うと、本当に楽しかったように聞こえる。
「もし今度会ったら、話を聞かせてもらった礼をたっぷりしてやるぜ」
怒り顔のガーゴイルが言うと、別の意味に聞こえる。
「送ってくれて助かった。じゃあ……」
三兄弟に別れの挨拶をすると、樹流徒はガルグイユの背中から飛び降りた。
樹流徒に向かってガーゴイル三兄弟が手を振る。
彼らを乗せたガルグイユは身を翻すと、一声グオッと吠えてどこかへ飛び去っていった。
重力に身を任せて落下する樹流徒は、雲を突き抜けて、地表に近付いたところで羽を広げた。
下界の様子を確認すると、まず一見して賑やかだった。三百……それとも五百近くいるだろうか、かなり大勢の悪魔が大樹周辺を中心に往来している。彼らは、先ほどの例で言うならば海外旅行客なのかもしれない。魔界血管を通ってこれから下の階層へ行こうとしている悪魔たちと、下の階層からこの世界にやってきた悪魔たちだ。
旅行客以外にも、大樹の根元で寝転がる悪魔や、木陰に立ち止まって談笑している悪魔、大樹の枝に腰掛ける羽を生やした悪魔など、憩いが目的で来ている悪魔たちもいるようだ。中には真っ白な風呂敷を地面に広げて果実を売っている悪魔や、弦楽器を弾いたり、草笛を鳴らしている者もいる。まるで大樹とその周辺がひとつの町みたいだった。
樹流徒は悪魔たちから少し離れた場所に降り立った。大地には鮮やかな色の芝草と白い花が風に頭を揺らし、もっと大樹の近くに寄れば人間の腰よりも高い雑草が広範囲で生い茂ってた。
大樹からかなり離れた場所には美しい川が流れ、そこでも悪魔や鳥や動物たちが喉を潤したり、水流に体を浮かべたりして安らいでいる。
周囲の光景を眺め回したあと、樹流徒は忘却の大樹を正視した。
雲を突き抜けるほど巨大な大樹。その全身を支える幹や根っこも当然ながら普通の樹木に比べて桁違いの大きさを持っている。並足で根の周りをぐるりと一周したら、軽く十五分以上掛かるだろう。樹齢が幾つなのか、想像するつかない。
幹の表面は松の木みたくゴツゴツしていた。対照的に、幹や枝に巻きついている無数の細長い蔓は、しなやかな曲線を描いている。それ自体が一本の樹のように飛び出した太い枝から、少し太い枝が生え、さらにそこから細い枝が無数に生えている。
枝の上では数え切れないほどの鳥が羽を休めていた。彼らの体重を支えてもまったく反らずに伸びる枝が、相当丈夫であると分かる。長さを考慮に入れると不自然なほどに弾力性が無かった。恐らく人間が飛び跳ねても全く問題ないくらいの強度を持っている。見れば見るほど不思議な樹だ。
その威容を存分に眺めた樹流徒は、ようやく大樹の根元のある部分に視線を止めた。そこにぽっかりと巨大な穴が空いている。大樹の出入り口に違いない。巨大竜ガルグユでも楽に通り抜けられるであろう、大きな穴だった。その先は曲がりくねった通路になっているらしく、外側から大樹内部の様子は見えない。
行こう、と決めて樹流徒はすぐに歩き出した。大樹の入口に近付いてゆく。首狩りキルトの顔が悪魔たちに知られていることを考えると、つい足早になった。できれば誰にも見つからず魔界血管までたどり着きたい。
そんな樹流徒の不安は良い意味で裏切られた。ガーゴイル三兄弟には気付かれてしまったものの、自分から悪魔に話しかけさえしれば意外とバレないものである。メイジから貰った黒衣と人間離れした魔人の姿が役に立って、樹流徒は誰にも声を掛けられることなく異形の群れをすり抜けていった。
なんとか正体がバレずに大樹内部へ入れそうだ。
幾分の安堵と共に、樹流徒は少しだけ歩調を緩める。大樹の入口はもう目の前だった。
と、そのとき。
大樹の枝に止まっていた鳥たちがいっせいに逃げ出す。一帯の穏やかな空間を、全身怖気が走りそうな殺気が埋め尽くしたためだった。樹流徒は金縛りにあったように立ち止まる。
往来する悪魔の中にも殺気を感じ取った者が数名いるらしく、彼らは樹流徒と同様に足を止めて、辺りを見回していた。殺気の発生源を探しているのだろう。
それを樹流徒はすぐに見つけた。辺りを行き交う悪魔から少し離れて、異彩を放つ悪魔が一体、大樹のすぐ傍で、椅子に腰掛けている。強烈な殺気はそこから放たれていた。
その悪魔は全体的には人に近い形をしているが、頭からは二本の角が生え、尻からは牛の尾が伸びていた。皮膚は青紫色をしており、ところどころに黒や赤の直線や曲線模様が入り混じってる。そして顎からは銀色でボサボサの髭を蓄えていた。
また、よく見れば悪魔が腰掛けているのは椅子ではなく、便座だった。大樹の前で洋式便座に腰掛ける悪魔……それだけでも十分に異彩を放っているが、樹流徒がその悪魔をほかの悪魔とは違うと感じた理由はもっと別のところにあった。
便座に座っている悪魔は、恐ろしく強かった。直接手合わせをしたわけでもないのに、遠目から姿を見ただけで樹流徒には相手の強さが分かった。周囲の悪魔たちとは雰囲気がまるで違う。できれば近付きたくなかった。
あれが魔王か、と樹流徒は頭の中で決め付ける。根拠も無いのに、不思議とそれが間違っているとは思わなかった。
便座に腰掛けている悪魔が放った殺気は、紛れも無く樹流徒に向けられていた。素通りできるものならばそうしたかったが、樹流徒は相手を無視できない。仮に無視しても、向こうから近付いてくるのは分かっていた。
大樹の入口を目の前にしていた樹流徒は、進路を変えて便座に腰掛ける悪魔に近付く。
「お前が魔王ベルフェゴールか?」
開口一番、そう尋ねた。
「そうだ。お前は首狩りキルトだな。待っていたぞ」
ベルフェゴールは威厳のある老人の声をしていた。
待っていた、という相手の言葉に、樹流徒の体にわずかな緊張が走る。ベルフェゴールは待ち伏せしていたのだ。おそらく樹流徒の足止めをするために。
その「おそらくは」、すぐに純然たる事実に変わる。
「ベルゼブブから頼まれている。万が一首狩りキルトが魔界に侵入して魔界血管を通ろうとするようであれば、それを阻止して欲しい……とな」
ベルフェゴールが明言した。
ベルゼブブの名前が出ると、樹流徒の全身を徐々に支配しようとしていた緊張は、湧き起こる怒りと闘志の波に飲み込まれた。
「お前もバベル計画を進めてきた者たちの一人か?」
「バベル計画? 一体何の話だ?」
「計画を知らない? じゃあベルゼブブの一味ではないのか……」
ならばなぜ、俺の邪魔をする?
その疑問を樹流徒が口にするよりも早く、ベルフェゴールから答えが返ってきた。
「私はただニンゲンが嫌いなだけだ。オマエがニンゲンというだけで意地悪をしたくなるほどに」
「それだけの理由で、俺を足止めしようというのか?」
「十分な理由だ。言っただろう。それだけ私はニンゲンという生き物に対して嫌悪感と、不信感を抱いている。ニンゲンとは唾棄すべき生き物なのだ」
「でも、できれば俺は戦いたくない。黙って魔界血管を通らせてくれ」
「駄目だと言ったらどうする?」
「力尽くでも通るしかない。だから頼む。行かせてくれ」
「気に入らん。まるで、力尽くでどうにかなるような言い草ではないか」
どうにかなるのではない。どうにかするのだ。
樹流徒は心の中で強く反論した。
「私はニンゲンが嫌いだが、不要な戦いや、暴力は好まない。もしお前が大人しくこの場を去るつもりならば今回だけは見逃してやってもいい。しかし、お前が先へ進もうというならば、私はお前を敵と見なし全力で排除するだろう」
ベルフェゴールは、樹流徒に向かって最終警告を与える。
それが樹流徒にとっては戦いのゴングだった。
「俺だって同じだ。不要な戦いは避けたい。でも、どうしても先へ進まなければいけない。だから戦ってでもここを通る」
樹流徒は交戦の意思を告げてから、眼下の敵に向かって手をかざした。
ベルフェゴールは便座から静かに立ち上がる。樹流徒に向けた挑発的な視線が「いつでも撃って来い」と語っていた。
樹流徒は至近距離から火炎砲を発射する。ベルフェゴールは目にも留まらぬ速さで真上に跳躍した。巨大な炎が便座を木っ端微塵に吹き飛ばしたとき、魔王の体は羽も使わず空中に浮遊していた。
プロット変更や改稿作業と並行して次話を執筆している都合で、小説完結まで更新が不安定になります。
次話投稿まで結構日数が開いてしまうことが多くなると予想していますが、なるべく早く更新できるように頑張ります。
後書きを載せるのは多分今回で最後になりますので、この後書きは『悪魔倶楽部』完結の直前まで残しておきます。