魔界へ
少しばかり老朽化が進んだ木製の扉がくたびれた音を立てて開く。建物内に吹き込む魔界の外気と共に一人の青年が姿を現した。体中の皮膚に埋め込まれた電気回路を連想させる細いラインが黒衣の奥でぼんやりと赤い輝きを放ち、人間とも悪魔ともつかない存在を空間に浮かび上がらせる。
数日ぶりに悪魔倶楽部を訪れた樹流徒は針のような気配を全身から放っていた。彼が姿を現した途端、客のいない冷えきった店内がやや殺伐とした熱気を帯びる。その変化は決して目に映らないものだったが、察知できる者には察知できたはずである。
現にカウンターの奥に立つバルバトスは辺りの雰囲気が変わったことに気付いたらしく、幾分鋭い視線を樹流徒に向かって投げた。大きな手の中に収まっているグラスがカウンターの上に置かれ、入れ物の中を半分まで満たす葡萄色の液体は表面を揺らした。氷の山がカラカラと音を立てて崩れる。
店内を進んで、樹流徒はカウンターの前で立ち止まった。バルバトスと目を合わせると、これから一戦交えるのだろうかと思わせる緊迫感が両者の間に流れる。それは気のせいなどではなかった。事と次第によってはこのあと樹流徒とバルバトスが激突する展開は十分にあり得えるからだ。
「オマエはキルトなのか? 見た目も雰囲も随分変わったな」
先に口を開いたのはバルバトスだった。
“見た目や雰囲気が変わった”。些か聞き飽きたその言葉に簡単な相槌を打ってから、樹流徒はバルバトスに対して真っ先に伝えなければいけないことを口にする。
「急な話だが聞いてくれ。伊佐木さんが聖界に連れ去られた」
「なんだと?」
浅く被ったフードの下で、真っ赤な瞳が見開いた。
それは恐らくバルバトスが初めて樹流徒の前で見せた驚きの反応だった。「詩織の身柄を悪魔倶楽部で保護して欲しい」と頼んだときでさえ平然と受け答えをしていた巨人の悪魔が、いま明らかに動揺している。
「ミカエルという天使が現世に現われ、俺たちを連行しようとした。伊佐木さんや仙道さんが助けてくれなければ、俺も今頃は聖界に閉じ込められていただろうな」
「天使がニンゲンに聖界の地を踏ませるなど、信じられん。しかもあのミカエルが直々に出向くとは……。なぜ、奴はオマエたちを連れ去ろうとしたのだ?」
「理由は俺にも分からない」
恐らくNBW事件が関わっていることくらいしか知らなかった。
「話は分かった……。それで、キルトはこれからどうするつもりだ?」
そう尋ねたとき、バルバトスはいつもの落ち着きを取り戻していた。少なくとも表面上は。
「俺はこれから魔壕に向かう。あそこへ行けば伊佐木さんを救えるかも知れない」
「ますます分からんな。魔壕へ行って、どうして聖界にいるシオリを助け出せる?」
「じつは……」
樹流徒はバベル計画について概略のみを説明する。その計画を乗っ取り、聖界に乗り込むつもりだということも喋った。それを聞く権利がバルバトスにはある、と樹流徒は考えていた。
事情を知ったバルバトスの口から「ううむ」と低い唸り声が漏れる。
「バベル計画か。まさかベルゼブブがそんなことを企んでいたとはな。あの結界が聖界に繋がる通路とは、想像すらしていなかった」
「もし計画が成功したら、バルバトスも聖界との戦争に参加するのか?」
「ああ、するだろうな」
バルバトスの返答に迷いの色は無かった。
「多くの悪魔にとって、天使への復帰は長年夢見てきた悲願だ。中には戦争に参加しない者もいるだろうが、オレは天使と戦う。聖界を手に入れ、天使に戻る。そしてあの輝かしい日々を取り戻したい」
「だが勝てるのか?」
天使と神を相手にして、悪魔に勝機はあるのか? それとも敗色濃厚だと知りながら戦いを挑むのか? 樹流徒はいつになく遠慮ない質問をぶつける。
それを受けてバルバトスは笑みを浮かべた。
「ベルゼブブは決して愚昧な悪魔ではない。奴が聖界に戦争をしかけるというのなら、それなりの勝算があるのだろう」
正鵠を射た言葉だった。事実、聖界は少し前にウリエルという天使が反乱を起こしたために大変なことになっているらしい。戦争に勝てるかどうかは別として、悪魔たちが聖界を攻めるには絶好の機会と言えるだろう。それをベルゼブブは知っていたと考えて間違いない。だからこのタイミングでバベル計画を進めたのだ。
樹流徒の脳裏にメイジの手紙の一文が過ぎる。もしかすると聖界には裏切り者の天使がいて、その天使がベルゼブブに聖界の情報を流したのかも知れない……確か、そのようなことが書かれていた。
あれはメイジの憶測に過ぎないが、信憑性は高そうだった。もし聖界に裏切り者がいるならば、ベルゼブブがウリエルの反乱を知っていたとしても不思議ではない。
「ところで、オマエはバベル計画を乗っ取ると言ったな?」
「ああ」
「それはつまり戦争を止めるつもりなのか?」
フードの下から覗く巨人の表情がにわかに険しくなる。バルバトスは聖界との戦争を望んでいる。天使への復帰を願っている。それを樹流徒に邪魔されては困るのだろう。
樹流徒にそのつもりは無かった。戦争など起きないほうが良いに決まっているし、大勢の天使や悪魔が殺し合いの中で命を散らしてゆく光景など見たくもなかった。
ただその上で、果たして自分に戦争を止めるだけの資格があるのか、樹流徒は疑問を覚えていた。悪魔たちが戦いを仕掛ける目的は、天使への復帰という悲願を成し遂げるためである。その想いがどれだけ深く大きいのか、樹流徒は全く知らない。永遠とも思える長い時を魔界で過ごした悪魔たちの気持ちを、十七年しか生きていない人間の青年が実感したり、想像するのは無理だった。加えて聖界には聖界の、魔界には魔界の歴史や事情がある。外部の者が首を突っ込むのは筋違いに思えた。戦争を止めるという行為に見合うだけの動機が、今の樹流徒には無い。
「儀式の生贄に人間を利用したベルゼブブたちは何があっても倒す。そして、もし戦争が現世に被害を及ぼすようなら、俺は悪魔たちを聖界に行かせない。バベル計画を利用して単身聖界に乗り込む方法を探す。それ以外のことはしないつもりだ」
既に心に決めていた答えを樹流徒は口にする。
「要するにニンゲンが戦いの巻き添えを食わなければ良いのだな」
バルバトスの顔が再び元の状態に戻った。
「俺を止めないのか?」
状況によっては戦争を阻止すべく動くかも知れない自分を、このまま魔壕に行かせてもいいのか? 樹流徒は尋ねる。それによりバルバトスと戦うことになるかも知れない、と覚悟を決めた上での質問だった。
バルバトスは鼻からふんと軽い息を出して微苦笑する。
「止められるものならば止めている。だが、オレとオマエでは力に相当差があるようだ。こうして向かい合っていればそれくらいのことは分かる。オマエに戦争が阻止されぬよう、オレはただ願うしかない」
「そうか……」
「もっとも、願う必要は無いかも知れんな。いくらオマエが並の悪魔を超越した力を得ているとしても、魔壕まで辿り着くのは不可能だ」
「何故そう思う?」
「オマエの名はすでに魔界全土に広まっているからだ。そうだろう? 大物賞金首、首狩りキルトよ」
「……」
「理由はほかにもあるぞ。魔界の各階層には“魔王”がいる。魔王は通常の悪魔とは桁違いの力を持っている。いくらオマエでも奴らを突破するのは不可能だ」
バルバトスは立て続けに脅迫めいたことを言う。裏を返せば、樹流徒に忠告を与えているようにも聞こえた。「首狩りキルトの賞金目当てで襲いかかってくる連中に注意しろ」「魔王の存在に気をつけろ」と。
「バルバトス。それでも俺は……」
樹流徒が言葉を返そうとすると――
ワイン棚の隣にある扉が蝶番の音を響かせながらゆっくりと開いた。
「おい、バルバトス。誰か来てるのか? 今日はもう店を閉めるって言っただろ。料理は出せないからな」
甲高い独特な声を発して、誰かが扉の隙間から顔を出す。
それはほぼ全身を黄土色の毛に覆われた猿だった。背は低く、樹流徒の腰辺りまでしかない。長く伸びた手には銀色に輝く出刃包丁を握り締めていた。
包丁を持っているくらいだから、多分店の料理人だろう。
最初はそうとしか思わなかったが、樹流徒は心の中でおや、と呟く。扉から覗く悪魔の顔に見覚えがあるような気がした。
「ああっ。オマエは……」
悪魔のほうも樹流徒を知っているらしい。些か大袈裟な声を張り上げ、包丁の先端を樹流徒に向けた。
そのとき、樹流徒は相手が何者だったかを完全に思い出す。どこかで見た顔だと思ったら、号刀城で飛び掛ってきた猿だった。樹流徒に頭を踏まれて水掘りに墜落した悪魔、とも言える。
「ほう。オマエたちいつの間にか顔見知りになっていたのか」
バルバトスの視線が樹流徒と猿のあいだを往復する。
「顔見知りなんかじゃない。コイツ、オレの頭を踏みつけたんだぞ」
悪魔は歯茎を思い切り剥き出しにして怒鳴る。
「あれは、お前が襲い掛かってきたからだ」
「うるさい。オマエ首狩りキルトだな。あのときの屈辱ここで晴らす」
黄土色の猿は地団駄を踏むように床を打ち鳴らした。
「よせロンウェー。お前の敵う相手ではない」
バルバトスが制止する。
それを無視して、ロンウェーと呼ばれた悪魔は動いた。身軽な動きでカウンターを飛び越えると、樹流徒の真正面に着地する。間髪入れず次の跳躍を見せ、店の天井スレスレまで到達した。猿というよりは怪鳥を髣髴とさせる奇声を発し、両手で握り締めた凶刃を落下の勢いと共に振り下ろす。
相手の直線的で単純な動きに対して、樹流徒は大きく一歩後ろに下がった。ロンウェーの腕が勢い良く空を切ったときには脚を思い切り振り上げる。そして包丁の刃が床に突き立てられたのとほぼ同時、相手の脳天に踵を落とした。ぎゃんと潰れた悲鳴が飛んで壁のロウソクを微動させる。
勝負は一撃で決まった。ロンウェーは白目を剥いて前のめりに倒れると、四肢の先を震わせる。
「だからオマエでは勝てんと忠告したのだ」
と、呆れたようなバルバトスの声も、もうロンウェーの耳には届いていないだろう。
「この悪魔は、悪魔倶楽部の店員だな?」
「ああ。名前はロンウェー。以前オマエにも教えたが、店のコックだ」
「そうだったのか。すまない、なるべく手加減したんだが……」
「気にするな、自業自得だ。それにロンウェーは生命力があるから簡単には死なん」
バルバトスは床に倒れた黄土色の猿を見下ろしながら淡々と言う。その様子を見る限り、ロンウェーの身を案じる必要が無いのは本当らしかった。
樹流徒は床に刺さったままの出刃包丁を引き抜くと、カウンターの上にそっと置く。
「じゃあ……俺はそろそろ出発する。バルバトスやこの店には色々と世話になった。そのことは絶対に忘れない」
バルバトスに別れの挨拶を告げた。いよいよ魔界に旅立つときが来たのだ。
「キルト。オレは今回ばかりはオマエを手伝うわけにはいかない。戦争を阻止されては困るからな」
「ああ、分かっている」
「ただ、バベル計画の話を聞かせて貰った礼にひとつだけ教えておこう。もし下の階層へ移動したければ“魔界血管”を探すことだ」
「何だ、それは?」
「魔界血管は別の階層へ移動するための通路だ。それがどのような形をし、どこにあるのかは秘密だがな」
「いや。それだけ教えてもらえれば十分だ」
「あと、これを持っていけ」
バルバトスは懐に手を突っ込むと、そこから取り出した物を樹流徒に向かって放った。
見れば、バルバトスが投げた物は松葉色の小さな皮袋だった。中には何かが入っているらしく、樹流徒が受け止めるとジャラと硬い音が鳴る。想像以上に重たかった。皮袋の口は太い紐できつく結ばれており、中身は見えない。
「これは?」
「中に硬貨が入っている。それがあれば道中何かの役に立つだろう」
「どうして、これを俺に?」
「オマエにやるのではない。それはシオリのものだ」
と、バルバトス。
「以前、この店でシオリが歌を披露したのを覚えているか? あのときの特別報酬だ。本来であれば次にシオリが来店したときに渡すはずだったのだが……彼女を救出するために使うのならば、オマエに渡しても問題ないだろう」
どこか嘘っぽい説明だったが、樹流徒は素直に納得する。
「ありがとう」
そして謝意を述べるとカウンターに背を向けた。
バルバトスから返る言葉は無い。代わりに店のどこかからバオーという野太い鳴き声が聞こえた。
樹流徒は店の扉の前で立ち止まり、ひとつ息を吸う。眼前には黒い空間がゆらゆらと波打っていた。この空間に鍵を挿せば現世に戻れるが、何もせず通り抜けると悪魔倶楽部から現世に帰ることは二度とできなくなる。
樹流徒に恐れは無かった。鋭い視線で眼前の空間を見つめると、その先めがけて飛び込んだ。