日常への帰還
気が付けば、樹流徒は冷たいコンクリートの壁に四方を囲まれていた。
そこは、どこかのビルの一室らしかった。物は何ひとつ置かれておらず、建物の中は静まり返っている。空きビルだろうか。天井の隅に張った大きな蜘蛛の巣が、この建物に長いこと借り手がいない事実を物語っていた。
曇った窓の向こうに別の小さなビルが見える。その頭上ではすがすがしい青空が広がっていた。龍城寺市を覆っている水色の空とはまるで違う、太陽の光が上空の粒子に反射して見える本物の青空だ。
樹流徒は後ろを見返った。ところどころ煤けた白い壁面に、ぽっかりと不気味な穴が開いている。現世と根の国を結ぶ通路だ。巨大な穴の中で暗雲が渦巻いており、近付いただけで吸い込まれてしまいそうな不気味さがあった。樹流徒と渚はこの通路を通って、根の国から龍城寺市の外側へとやって来たのである。
「ここは?」
樹流徒は、隣の渚に問う。「ここが龍城寺市の外なのは分かる。ただ、ここはどこの土地なのか? いま俺たちがいるビルは何の建物なのか?」それを「ここは?」のたった三文字に集約して尋ねた。
「夜子様が所有しているビルの中だよ」
樹流徒の不明瞭な質問に、渚はにこやかな笑顔で答えた。
「そうか……」
樹流徒は気の無い返事をして、窓際に歩み寄る。
ガラス越しに下界の光景を覗いた瞬間、全身に鳥肌が立った。道路には人が歩き、車が走っている。建物の窓や看板が光を放ち、遠くの空には鳥が飛んでいた。
人々が、動物が、生きている。地上に降り注ぐ太陽の白い光を浴びて、活発に動き回っている。
ただの日常風景だった。特筆すべき点も無い、ごくありふれた光景だった。それでも廃墟と化した都からやって来た樹流徒の瞳には、とても美しく、生に満ち溢れ、懐かしくも新鮮な情景に映った。
樹流徒は窓に張り付いて、人々の動きを食い入るように見つめる。
「人も景色も逃げないから大丈夫だよ」
という渚の笑い声で我に返った。
「それじゃあ、早速外に出たいところだけど……」
渚は視線だけを動かして、樹流徒の頭からつま先までさっと見る。
「相馬君、さすがにそのままの格好で外に出ると目立っちゃうね」
と、指摘した。
「言われてみればそうだな」
渚はすでに根の国で着替えを済ませている。フレアワンピの下からペチコートの裾が覗き、さらにその下から黒のタイツとブーツを履いた脚が伸びていた。
一方、樹流徒は戦闘により激しく汚損した服の上から黒衣を纏っている。ただでさえ魔人の姿は人目に付くのに、この格好のままでは余計に目立ってしまう。
かといって人通りが少なくなる深夜まで待つわけにもいかない。
どうしたものか……と樹流徒が思っていると
「大丈夫だよ、そのへんは考えてあるから。ちょっとのあいだここで待っててね」
渚は一方的にそう告げて、部屋を飛び出していった。
“ちょっとのあいだ”という言葉が具体的にどのくらいの時間を指すのかは不明だが、結果的に樹流徒は三十分以上待った。
笑顔で帰ってきた渚の手には複数のビニール袋が提げられていた。その中から出てきたのは灰色のパーカー、ベージュのチノパン、手袋、サングラス、マスクなどなど、樹流徒の全身をくまなく隠すための変装セットだった。
「それ、どうしたんだ?」
「どうしたって……すぐ近くのお店で買い集めてきたんだよ」
「お金、持ってきたんだな」
樹流徒は渚の手回しの良さに感心する。
「現実的な話しちゃうと、バベルの塔から一歩外に出ればなにかとお金がモノを言う世界だからね」
「そうか……。そんなこと、すっかり忘れてたな」
もし全ての戦いが終わったら、もし龍城寺市からバベルの塔が消えたら、その後はどうやって生きていこうか。樹流徒は何も考えていなかった。
「じゃあ、私部屋の外で待ってるからゆっくり着替えてね」
「ありがとう」
渚が部屋から出ると、樹流徒は変装セット一式に着替え始める。ただし、脱いだ服や黒衣は全て捨てずにキチンと折り畳んでビニール袋にしまっておいた。なにしろこれらの服は詩織がわざわざ用意してくれたものと、メイジが残してくれたものだ。いくらボロボロになっても処分はできなかった。
手袋をはめ、マスクとサングラスを装着。最後にパーカーのフードを目深に被って着替えが完了すると、部屋から出る。
「うん。なかなか不審人物っぽくてイイ感じだよ」
変装セットに身を包んだ樹流徒を見て、渚は朗笑した。
二人は揃ってビルの階段を下ってゆく。
「龍城寺市の外、本当に無事だったんだね。私も話だけは聞いていたけど実際バベルの塔から出るのは今回が初めてなんだよ」
「そうなのか……」
「現世が無事で、やっぱり嬉しい?」
「ああ」
樹流徒は首肯する。ただ、本心は少しだけ違った。嬉しいのは間違いないが、それ以上にとても不思議な気分だった。
龍城寺市内は異形の生物が跋扈する完全な廃墟と化したのに、バベルの塔というたった一枚の壁を隔てた外の世界では、魔都生誕以前と何ら変わらぬ生活が営まれている。その現実が樹流徒から一時的に現実味を奪っていた。長い長い悪夢から突然醒めたような気分、とでも言えばいいのだろうか。階段を踏みしめる足裏も地に着いていない感じがした。
ビルの外に一歩踏み出すと、太陽の光が瞳に射し込む。欲を言えばサングラス越しじゃない陽光を見たかったが、変装を解くわけにもいなかいので、樹流徒は我慢した。
近くに駅でもあるのだろうか、都会の雑踏には遠く及ばないが歩道の中は結構な人込みだった。その中には親子連れや私服姿の若者たちの姿も混ざっている。今日は土日か祝日なのかも知れない。
樹流徒たちの前を通りかかったスーツ姿の若い男が、一瞬だけ訝しげな表情をした。いきなり無人のビルから高校生くらいの男女が連れ立って出てきたからだろう。しかも樹流徒の怪しい格好を見れば、通行人が不審がるのも無理はなかった。
幸いだったのは、現代人が何かとクールなことである。人々は必要以上に他人に干渉しようとしない。お陰で道行く人は樹流徒を一瞥もせずにさっさと通り過ぎていった。時折視線を送る者があっても、やはり何も言わずに歩き去ってゆく。魔人の姿を見られると少し面倒なことになる樹流徒にとっては、周囲の人々のよそよそしさに救われた気分だった。
「ここは一体、どこの町だろう?」
樹流徒はさっと街並みを見渡す。片側二車線の道路、それから人々が往来する並木道を挟んで、高低様々な建物が密集していた。見上げるほど高い建物はひとつも無い。都会とも田舎とも言えない、至って普通の場所だ。
近くの案内標識や電柱の標識を見れば、知らない町の名前が記されていた。ここが確かに日本国内だということだけは分かるが、どこの地域なのかまでは分からない。ただ、どちらの方角を遠望してもバベルの塔が見えないので、龍城寺市からかなり遠く離れた土地なのかも知れない。
「どこの町かなんて考えなくてもいいんじゃないかな? それより、折角だからこの時間を楽しもうよ」
渚が明るい声で言う。
それもそうだ、と樹流徒は簡単に納得した。
二人は見知らぬ土地の中を、あてもなく歩き始める。
樹流徒は、現世の日常風景を五感で味わった。
無邪気に駆ける子供の足音。キリッとしたな顔付きや疲れ気味の表情で行き交う労働者たちの背中。仲睦まじそうに腕を組んで歩く老夫婦の和やかな雰囲気。電信柱に止まったスズメの鳴き声、トラックが吐き出す排気ガスのにおい、空を漂う雲の白さ……目や耳や鼻を通して全てを体に刻み込んだ。一秒一秒がとても貴重な時間に感じられた。
その途中。
「あ。相馬君。ちょっとここで待っててね」
突然、渚が一方的にそう告げて走り出した。彼女は偶然通りかかったファーストフードの店に駆け込む。樹流徒が呼び止める間も無かった。
渚の言う「ちょっと」が具体的にどの程度の時間を指すのかは分からないが、今度は三十分以上も待たずに済んだ。数分後、彼女は店の中から出てきた。
「ね。どこかで一緒にお昼食べようよ」
テイクアウト用の白い箱を手に提げ、渚は機嫌が良さそうに提案する。
「ああ、それはいいな」
樹流徒は快諾した。空腹感は微塵もないが、人が作った物を食べたいという欲求はあった。
食事ができそうな場所を求めて、二人は移動する。
しばらく彷徨っていると、樹流徒はあるものが目に入って足を止めた。
「あれ? どうしたの?」
合わせて渚も立ち止まる。
樹流徒が見つめる先には、小さな電器店に置かれた街頭テレビがあった。
画面の中で正午のニュースが流れている。原稿を読み上げる若いの男性アナウンサーの下には、テロップが貼られていた。『龍城寺市封鎖事件。ビッグバードケージの調査に未だ進展なし』の文字が躍っている。
「あっ。龍城寺市のニュースだ。やっぱり大きな騒ぎになってるんだね」
「ああ。どうやら現世ではバベルの塔を“ビッグバードケージ”と呼んでいるみたいだな」
「バードケージって、鳥かごのことだよね」
二人がそのように言い合っていると、テレビの画面が切り替わり、上空からバベルの塔を撮影した映像が流れる。
全身から水色の光を放つ円柱が天高くまでそびえ、市内を完全に封鎖していた。なるほど、たしかにバベルの塔は巨大な鳥かごに見えた。ならば市内に取り残された樹流徒たちはかごの中の鳥といったことろだろうか。
塔の頂上には謎の球体が輝いていた。それは水色の輝きを放ち、まるで塔の頭に蓋をするようにジッと静止している。
「まさか、アレが空の正体?」
渚が小さな声で叫んだ。
たったいま樹流徒も同じことを考えていた。龍城寺市を覆っていた空の正体は、水色の光を放つ小型の太陽だったのだ。
続いてテレビ画面に日本の天気図が写され、ここ数ヶ月の雲の動きが早送りで再生された。見れば、雲がバベルの塔とその周辺を避けるように流れている。そのため、魔都生誕以降は龍城寺市の上空だけ常に雲が無い状態になっていた。
「どうりで市内に雨が降らないわけだ……」
樹流徒の独り言に、渚は「うん」と相槌を打つ。
バベルの塔が遮っているのは、雲の動きだけではなかった。ニュースによると、ビッグバードケージの頂上に浮かぶ水色の太陽は昼夜を問わず一定の明るさで輝き続け、本物の太陽や月の光の進行まで妨害しているらしい。お陰でケージの周辺に住む人々は太陽や月の光に代わって、水色の光を浴び続けている。その光が直接健康被害に繋がるという報告は今のところ無いが、二十四時間同じ光を浴びることで人々から時間の感覚が失われ、さらに日光を浴びられないことによって鬱になり易い状態に陥るのではないか……と懸念されているようだ。
たとえその心配が無かったとしても、ケージの存在は不気味であり、近隣住民たちの不安は大きいようだ。引越しを余儀なくされた家もある、とニュースは伝えている。
ちなみに日本政府はケージ出現から丁度三週間後に調査団の結成を決定したらしい。住民への避難勧告などは一切出しておらず、今までずっと事態を静観していたようだ。自衛隊の兵器によるケージ破壊も視野に入れているらしいが、実行はされていない。
一方、海外ではすでに調査が開始されている。ケージ出現の翌日には某国が人工衛星による赤外線写真の撮影などを試みたが、失敗に終わっているとのことだった。
「バベルの塔って、聖界と魔界の戦争が終わるまで残るのかな? それともいつまで経っても消えないの?」
渚が疑問を唱える。
無論、樹流徒は「分からない」と答えるしかなかった。
龍城寺市封鎖事件のニュースが終わったので、二人は電気店の前から歩き出す。
お互い口数も少なく歩き続けていると、やがて小さな広場を通りかかった。
中央に噴水があり、広場の内縁に沿って複数のベンチが置かれている。ベンチには杖を持った男性老人が一人腰掛けていた。噴水を挟んで反対側のベンチには二人の男児が並んで座っている。子供たちは携帯型のゲーム機を手に持っており、時折何かを言い合いながら楽しそうに遊んでいた。
「お昼、ここで食べようか」
「うん。私もそう言おうと思ってたところ」
意見が一致すると、樹流徒と渚は広場の隅に設置された水道で手を洗った。
蛇口を捻ればそれなりに安全で綺麗な水が出てくる。ほとんどの日本人にとっては当たり前のことだが、それがどれだけ有り難いことか、樹流徒は改めて痛感した。
手が綺麗になったところで、空いているベンチに並んで腰掛ける。正面に噴水、右手に老人、左手に子供たちが見える格好になる。
「はい。相馬君」
渚は先ほど購入したドーナツを一個箱から取り出して、樹流徒に差し出す。
「ありがとう」
樹流徒は手に持った食べ物をジッと見つめた。安全な場所でのんびりと食事をするなんて、本当に久しぶりだった。
変装用のマスクを下にずらしてドーナツを頬張ると、この世のものとは思えないくらい美味しかった。きっと今ならば何を食べてもそう感じただろう。
「何か幸せだね、こういうの」
渚は言葉通りの表情をする。
“でも、その幸せを人々から奪うのが、夜子の陰人計画じゃないのか?”
危うくそう言いかけて、樹流徒は思い留まった。こんな台詞を口にすれば楽しい雰囲気が台無しになってしまう。平和な日常に帰ってきた今だけは、なるべく他愛もない話をしたかった。
二人がドーナツをひとつずつ平らげると、頃合を見計らったように渚が口を開く。
「あ、そうだ。私いま、いいこと考えたんだけど」
「いいこと?」
「うん……。ね、相馬君。折角バベルの塔から抜け出せたんだから、いっそこのまま龍城寺市に戻らないっていうのはどう?」
「え」
「だって、これ以上君が危険な戦いを続ける必要ってあるのかな? メイジ君の手紙のお陰で、魔都生誕の秘密はほとんど暴いたようなものだし、伊佐木さんだって案外聖界で平和に暮らしてるかも知れないよ。だから相馬君はこのまま外の世界に残ったらどう?」
思いもよらない提言だった。単なる冗談か、それとも本気なのか。樹流徒には渚の意図が分からなかった。
もっとも、たとえ渚がどういうつもりで何を言おうと、樹流徒の答えは変わらない。
「そういうわけにはいかないだろう」
と、努めて明るく軽い口調で返事をした。
もしメイジの遺体を海に流した直後に、渚の提案を聞いていたら、心が揺らいでいただろう。
渚の言う通りにすれば、もう無理に戦う必要が無くなる。痛い思いをしなくてもいいし、死ぬ恐れもない。なによりこれ以上だれの命も奪わなくていい。
もっと先の話をするならば、数年後に根の国が陰人計画を発動しても見て見ぬフリをできる。そうすれば夜子に命だけは見逃してもらえるだろう。本気でそうしようと思えば可能なだけに、余計強烈な誘惑だったはずだ。
ただ、友の死を受け入れて吹っ切れた今の樹流徒に気の迷いは無かった。
「聖界に行って、伊佐木さんを連れ戻すよ」
と、躊躇無く言葉にできた。
それを聞いた渚は一瞬だけ真面目な顔つきになったが、すぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「あれ? もしかして真剣に考えちゃった? いまの話、タダの冗談だからね」
などと言って、箱の中から取り出した新しいドーナツを樹流徒に手渡す。
「冗談?」
「だって、仮に伊佐木さんが聖界で平和に暮らしていたとしても、助けに行かなきゃいけないと思うから……。だから、もし相馬君が私の提案に乗ったら、私は君に失望してたよ」
「そうだな。もしここで逃げたら、俺も一生俺に失望したままだったと思う」
樹流徒は答えて、渚から受け取ったドーナツをかじる。
――でも、ほんのちょっとだけ本気だったんだけどな。
という渚の囁き声が聞こえた気がしたが、樹流徒は敢えて聞き流した。
昼食終了後。ベンチに腰掛けていた老人と子供たちは去り、気づけば広場は樹流徒と渚の2人だけになっていた。
「まだ時間大丈夫? どうせだからもっと色々な場所で遊ぼうか?」
と、渚。
「いや。もう戻ろう」
樹流徒はフードの下で微笑を浮かべ、立ち上がった。
この平穏な世界は居心地が良すぎる。そのせいで決意が揺らぐことは絶対にあり得ないが、心が少しでも府抜けてしまう前に、樹流徒は己が向かうべき場所を目指すことにした。




