僕が僕をやめた日
あの秘密基地は確かに壊滅したはずだった。夏休み明けの初日、樹流徒とメイジは一緒に森の中へ入って、前日の嵐でバラバラになった基地を目の当たりにしたのだから間違いない。
「もっとスゲー基地作ろうと思ってたトコだから、壊してもらって丁度良かったよ」
などと言って笑うメイジの顔も鮮明に覚えている。そのあと残念そうに肩を落としていた彼の後姿も……
そんな樹流徒の記憶に反して、学校の裏手に広がる森の奥には信じられないものが残っていた。
木々にくくりつけられたロープと、隙間無く並ぶダンボールの外壁。それに作りかけの屋根……。壊れたはずの秘密基地が、当時の姿そのままで現れたのだ。まるで過去の世界に迷い込んでしまったような錯覚に樹流徒は襲われた。
ただ、基地が作られたのは数年前にもかかわらず、良く見ればダンボールの表面やロープは余りにも綺麗だった。子供の頃に見せてもらった基地でさえ多少はボロボロだったのに、それが現在になっても朽廃しているどころか逆に真新しくなっている。
このおかしな点に気付いたとき、樹流徒は全てを理解した。きっと、いま目の前にある秘密基地は、魔都生誕よりも後にメイジが作り直したものに違いない。
メイジが死の際に言った「思い出の場所」とは、やはりこの基地を指していたのだ。
「でも、どうして……」
メイジはこんなものを作ったのか? なぜ、この場所に自分を呼んだのか?
疑問を抱きつつ、樹流徒は歩を進めた。基地の中に入ってみれば答えが見付かるかも知れない。
ダンボールの外壁を通り抜けると、地面には大量の雑誌や新聞紙が敷かれていた。床の隅には小さなちゃぶ台が置かれている。また、ガムテープやカッターナイフ、それにロウソクや懐中電灯まで用意されていた。外観だけでなく、基地の中まで数年前の状態を忠実に再現している。
当時の思い出はメイジの記憶にも相当根強く残っていたのだろう。そうでなければ子供の頃の思い出をここまで正確に再現できるはずがない。
それでもたったひとつだけ、昔とは明らかに違う部分があった。ちゃぶ台の上を見ると、綺麗に畳まれた黒い布が敷かれ、更にその上に一枚の封筒が置かれている。数年前の基地にそのようなものは無かった。
「もしかして、メイジが僕に見せたかったものはこれか?」
すぐに察して、樹流徒は封筒を拾い上げる。手に持った瞬間、わずかな重みを感じた。中に何かが入っているようだ。
封筒自体には何も書かれていない。慎重に開封すると、三つ折りにされた便箋が五枚も出てきた。
メイジが残した手紙だろうか。だとすれば、中には一体何が書かれているのか? 樹流徒は軽い緊張を覚えながら、折り畳まれた紙をそっと広げた。
ミミズがのたくったような文字が列を成し、紙上をびっしりと埋め尽くしていた。かろうじて解読可能なその独特な文字は、間違いなくメイジが書いたものだった。
樹流徒は手紙の文面を確かめようと急いで字を読み進める。
『よぉ、樹流徒。オマエがこれを読んでるってことは、オレはオマエに負けたんだな。そして多分、オレはもう死んでる。
でも、お人好しのオマエがこのオレを殺せたとは思えない。となれば、オレは誰に殺された? どんな風に死んだ? ダセェ死に方だったら嫌だな。どうせだったら派手にカッコよく散りたいじゃん?
ところで、この秘密基地どうよ? 懐かしいだろ? かなりの再現率だと思うぜ。といっても、オレが基地を作ったのはガキの頃だったから、オマエは余り憶えてないかも知れないけどな。
さて……。それじゃあ前置きはこの辺にして、本題に入るとしようか。
この場所を探し当てた褒美に、イイコトを教えてやるよ。ベルゼブブたちの野望についてだ。奴らが何の目的で魔都生誕を引き起こし、現世でコキュートス破壊の儀式を行なったのか、その答えをオマエは追い求めてきたんだろ? ソイツをここに書き記しておくから、しっかり脳裏に焼き付けておけよな。
とりあえず、結論から言っておこうか。
ベルゼブブたちの行動目的。それは……《天使への復帰》だ。
いきなりそう言われてもピンとこないか? なら、もう少し詳しく説明しとく。
悪魔と呼ばれている連中が、じつは元々天使だったって話は聞いたことがあるか?
悪魔の王サタンは、かつて“ルシファー”と呼ばれる偉大な天使だった。しかしある日、ルシファーは天使の三分の一を率いて神に戦いを挑んだ。
なぜ、ルシファーが神に逆らったのか、それは分からない。「ルシファーが己の力を過信し、増長した」という説や「神が天使よりも人間を可愛がろうとしたことにルシファーが憤った」という説が有名だが、本当のところはどうなんだろうな?
まあ動機はともかく、ルシファーは神に逆らった。そして激しい戦いの末、奴らはミカエル率いる神の軍勢に敗北したんだ。
ルシファーに協力した天使たちはみな聖界から追放され、悪魔となった。その中にはもちろんベルゼブブも含まれている。反逆の首謀者であるルシファーはサタンという名の悪魔となり、地獄の最下層コキュートスに幽閉された。
聖界を追放された悪魔たちは、その後永遠とも思える果てしなく長い時を魔界で過ごした。
しかし、現在でも多くの悪魔たちが「いつか必ず聖界へ戻り、天使に返り咲きたい」という願望を持ち続けているらしい。
それこそがベルゼブブの野望……天使への復帰だ。
さて。ここまで聞けば、なんとなく話が見えてきたんじゃないか?
ベルゼブブら悪魔が天使に復帰するには、聖界へ攻め込む必要がある。
そう……魔都生誕やコキュートス破壊の儀式はすべて“悪魔が聖界へ戦争を仕掛けるための準備”だったんだよ。
戦争の準備ってのは、もっと具体的に言うと“聖界に攻め込むための通路を作ること”だ。
天使と戦争するためには、聖界まで移動する手段がないことには始まらないだろ? だからベルゼブブは、魔界と聖界を繋ぐ通路を作ろうと考えた。魔都生誕は、その通路を作るために引き起こされた現象だったんだ。
突然だが、ここでひとつ質問させてくれ。
なあ樹流徒、オマエは結界の存在を疑問に感じたことはないか? 何故、ベルゼブブは現世に結界なんか出現させたのか、その理由を深く考えたことはあるか?
オレははじめ、ベルゼブブたちが人間に邪魔されず儀式を行うために結界を出現させたんだと予想した。龍城寺市を封鎖することで、外部から邪魔者が入らないようにしたんだと思っていた。
けどソイツは違った。当時のオレも、そして多分オマエらも、全員とんでもない勘違いをしてたんだ。
いいか。オレたちが結界と呼んでいた、あの巨大な壁……
じつは、あれこそが魔界と聖界を繋ぐ通路そのものだったんだ。
ベルゼブブとその仲間たちは、結界のことを“バベルの塔”と呼んでいた。
バベルの塔は旧約聖書『創世記』の十一章に登場する巨大な建物で、人間たちが「天まで届く塔を建てよう」と考えて築いたものだ。まさに聖界へ繋がる通路には相応しい名前だよな。
ま、名前の由来はどうでもいいとして……つまり結界ってのは、魔界と聖界を結ぶための塔だったんだ。龍城寺市そのものが塔の内部にされたってワケだな。
これが魔都生誕の真相だ。魔都生誕とは、現世と魔界を繋ぐと同時に“バベルの塔(結界)を現世に出現させるための儀式”だったんだよ。その影響で何が起こったのかは、オマエも知っての通りだ。現世に魔界の入口が開いた影響で、ほとんどの市民が死に絶えた。生贄として利用するために殺された、と言ったほうが正しいかもな。
じゃあ、次に現世で行われてきたコキュートス破壊の儀式について話そうか。
ベルゼブブは魔都生誕を引き起こし、龍城寺市にバベルの塔(結界)を出現させた。バベルの塔は、悪魔たちが聖界へ攻め込むための通路だ。そこまではいいな?
しかし、魔都生誕が起きた段階ではまだバベルの塔は不完全だった。現世と魔界は繋がったものの、現世と聖界は繋がっていない。今度は現世に出現させた塔を聖界まで開通さなければいけなかったんだ。
そのためには魔界で新たな儀式を行う必要があった。魔界から膨大な魔力を送り込んで塔を完全な状態にすることで、ようやく聖界への扉が開かれるんだ。
ただ、バベルの塔を完成させる儀式にはひとつ越えなければいけない大きな壁があった。強力な魔力を持つ者を儀式の生贄として捧げる必要があったんだ。そこらへんの悪魔を何体生贄に捧げても意味はない。もっと強大な魔力を持つ者がどうしても不可欠だったらしい。
そこで、ベルゼブブが目をつけたのがサタンの存在だった。魔界の最下層に幽閉されたサタンを利用すればいい。サタンの魔力の強さはほかの悪魔とは一線を画している。生贄には申し分ない素材だ。そう考えたベルゼブブは、サタンが閉じ込められているコキュートスを破壊しようと考えた。
それが、現世で行なわれた儀式の目的だ。オレたちがコキュートスを破壊したのは、サタンを救出するためじゃない。サタンの体を生贄に利用するためだったんだよ。全てはバベルの塔を完全な状態にするため。ひいてはバベルの塔を使って悪魔たちが聖界へ攻め込むために。
オレたちは村雨病院、スタジアム、市民ホールで儀式を行ない、順調にコキュートスを破壊していった。オレとオマエが号刀城で戦っているあいだには最後の儀式が完了するだろう。コキュートスを守る最後の砦ジュデッカが崩壊し、ベルゼブブはついにサタンの体を手に入れるはずだ。
魔都生誕、コキュートス破壊の儀式、そして天使との戦争……。ベルゼブブはこれらの一連の計画を総称してバベル計画と呼んでいた。
初めてこの話を聞かされたとき、オレはゾクゾクした。天使どもを相手に聖界で大暴れできるなんて、最高だと思った。オマエと組んでベルゼブブを倒すのも悪く無いと思ったが、オレはより派手に楽しいことがしたかったんだ。だからバベル計画を選んだ。悪く思うなよ。
ベルゼブブは、天使への復帰を強く願う同志を集めてバベル計画を進めてきた。それが完了した暁には、悪魔の大軍を率いて聖界へ侵攻しようとしている。聖界を攻め落とし、天使に返り咲こうとしている。
悪魔の中には天使への復帰を望まない連中もいるみたいだが、故郷の聖界に未練を残している奴らのほうが圧倒的に多いと聞いている。だからバベルの計画の存在を知れば、とんでもない数の悪魔が戦争に参加するだろう。
樹流徒。もしベルゼブブを倒したいなら魔界の第八階層・魔壕に行け。そこにヤツの居城がある。最後の儀式も魔壕のどこかで挙行されるハズだ。
これが、オレの掴んだ情報のすべてだ。どうだ? 少しは役に立ったか?
でも、言っとくがこれで魔都生誕の秘密を完全に暴けたとは限らないぜ。
実は、オレにはひとつだけ疑問に思っていることがあるんだ。
そもそも何故、ベルゼブブは今になって聖界を攻めようとするのか……。おかしいとは思わないか?
だってそうだろ? 悪魔たちが聖界を追放されてから、恐ろしく長い時が経っているんだ。
だが、そのあいだ魔界の連中は一度も聖界を攻めようとしなかった。
何故か? 多分、戦っても勝ち目がないからだ。もう一度神の軍勢と戦ったところで敗北は目に見えている。だから悪魔たちは天使への復帰を望みながらも、今までずっと聖界に乗り込もうとはしなかった。
にもかかわらず、ベルゼブブは今になって天使と一戦交えようとしている。その理由は何だ?
ンなモン、ひとつしかねぇよな? そう、ベルゼブブには勝算があるんだよ。今なら聖界へ攻め込んでも勝てる、という勝算が……。その一点が、どうしてもオレの頭に引っかかっている。
ベルゼブブが「聖界を攻めれば勝てる」と確信するためには、当然ながら聖界の状況を知らなければいけないハズだ。
だから、もしかすると聖界の情報をリークした奴がいるんじゃないか? とオレは睨んでいる。聖界の内部……つまり天使の中に裏切り者がいて、ソイツがベルゼブブに聖界の情報を流した。それによりベルゼブブは戦争を決意した……とは考えられないか?
だとしたら、魔都生誕の真の黒幕はベルゼブブじゃないってコトになる。バベル計画を実行すると決めたのも、魔都生誕を起こしたのもベルゼブブなのは間違いない。しかし、それを実行させようとベルゼブブをそそのかした天使がいるんじゃないか? その天使はもしかするとバベルの塔を出現させる方法をベルゼブブに教えたんじゃないか?
ま、こっちはただの憶測だけどな。証拠なんてひとつもねえし、ベルゼブブが大した勝算もなく戦争を始めようとしている可能性だって無いとは限らない。
この件については、残念ながらベルゼブブやフルーレティに探りを入れても答えは返ってこなかった。奴らも本気でオレのことを信用していなかった証拠だな。
それじゃあ……もう大して伝えたいことも残ってないし、最後にひとつだけ樹流徒に言っておく。
自分で言うのもなんだが、数年前、例の事件に巻き込まれた影響で、オレはすっかり変わった。
そのせいで今まで仲良くしていた連中も潮が引くようにオレの傍を離れていった。両親以外はほとんどみんなオレを避け、近寄らなくなった。仕方ない、オレ自身がそうさせたんだ。
でも、オマエだけは違った。たとえオレがどれだけ変わっても、樹流徒だけはずっと変わらずオレの友達でいてくれた。最後にその礼ってヤツを言っておきたい。
ありがとう。オマエ、やっぱ最高の相棒だったよ』
手紙を持つ樹流徒の手が小刻みに震えた。心臓がじわじわと痛む。
ふと、手紙が入っていた封筒の中にまだ何かが残っていることに気づいた。調べてみると、一枚の写真が同封されていた。新しい制服に身を包んだ樹流徒とメイジが校門をバックに並んで映っている。去年、高校の入学式で取った写真だった。
写真を裏返すと、そこには黒のマジックで文字が書かれている。
『追伸。そうそう。前に学校で会ったときも言ったけど、オマエ自分のこと“僕”って呼ぶのやめて“俺”にしろって。絶対そっちの方が似合ってるぜ』
お世辞にも綺麗とは言えない字で書かれたその伝言を見終えたとき、樹流徒の片目からたった一滴の雫がすっと流れ落ちた。
胸がいっそう強烈に締め付けられる。樹流徒はいまようやく、親友の死を実感できたのだ。
封筒の下に敷かれていた布を広げてみると、それはメイジが着ていたのと同じ黒衣だった。メイジが形見のつもりで残したのか。それとも相棒への贈り物だろうか。
樹流徒は服の上から黒衣を纏い、メイジの手紙と写真を残したまま秘密基地を後にした。
次に彼が向かったのは校庭の砂場だった。メイジと親友になったキッカケの場所である。
あの日、この砂場で一人座っていた少年は、もうどこにもいない。その現実を樹流徒は改めてしっかりと受け止めた。
深い悲しみが、ベルゼブブたちに対する怒りに変わる。炎の如き激情が心にぽっかりと開いた穴を急速に塞いでゆくのが分かった。
失われていた力が全身に蘇る。樹流徒は顔を上げた。この先、たとえ何かに迷うことはあっても、もう二度と立ち止まったりはしない。たったいま、自分の心にそう誓った。
「じゃあ、もう行かないと……」
樹流徒は微笑みを浮かべて過去の幻影に別れを告げる。素早く踵を返して歩き始めた。
吹っ切れたせいだろうか、後ろ髪を引かれるような思いは微塵も湧いてこなかった。
と、そのとき。
樹流徒がまだ数歩も進まぬ内に、複数の場所から殺気が放たれる。
ほとんど音もなく、異形の生物たちが一斉に姿を現した。ある者は上空から降り立ち、ある者は学校のフェンスを飛び越えて樹流徒の元まで駆けてくる。またある者は何も無い空中から染み出すように出現した。
悪魔たちだ。数は九。ラミアやデウムス、インキュバスのほか、虎の頭と人間の体を持った悪魔や、人間と酷似した姿の悪魔もいる。
九体の悪魔は円を作って樹流徒を囲った。
「やっと見つけた。オマエ、首狩りキルトだな?」
人間と似た姿の悪魔が不敵に笑う。外見は二十歳前後の男。肌は赤紫色で、分厚い灰色の衣を纏っている。そして先端が三又に別れている槍を両手で握り締めていた。
「オマエを探してはるばる魔界から来たんだ。大変だったんだぞ」
デウムスが樹流徒を指差す。
「こいつをやれば紫硬貨八千枚だ」
虎の頭を持った悪魔はかなり興奮気味だ。腰に巻きつけたオレンジ色の布が鮮やかだった。
樹流徒は行く手を遮るデウムスを正視して
「お前たち、ベルゼブブの手先か?」
誰とはなしに問う。
悪魔たちは顔を見合わせた。
「ベルゼブブの野郎なんてどうでもいい。オレたちはオマエの首に掛かった賞金が欲しいだけさ」
樹流徒の真後ろに立つインキュバスが答えた。
「ならば戦うつもりは無い。悪いが大人しく帰ってくれ」
「オマエにそのつもりがなくても、コッチにはあるんだ」
悪魔の誰かが凄む。続けとばかりに半人半蛇の悪魔ラミアが真っ赤な舌を伸ばしてシャーッと鳴く。殺伐とした空気が緊張に耐えかねていまにも弾けそうだった。
そんな雰囲気を無視するように、樹流徒は前進する。
男の姿をした悪魔が恐ろしい形相に変わった。槍を突き出し、樹流徒の左から迫る。
が、樹流徒が急に立ち止まると、悪魔もまるで金縛りにあったようにぴたりと動きを止めた。
樹流徒は静かに息を吸い、凶器を向ける敵に向かって言い放つ。
「今の俺に近付くな。警告は一度しかしない」
口調こそ冷静だったが、魔人の瞳に描かれた黄金の輪は抑え込んだ怒りでギラギラと輝いていた。その眼力は、槍を構えて殺気立った悪魔をたじろがせるのに十分な迫力を持っていた。
向かい風に黒衣の裾を翻し、樹流徒は再び歩き出す。その後を追いかけようとする者はいなかった。