灼熱の戦い
悪魔が口をいっぱいに広げる。歯肉の上に隙間なく並んだ牙が、樹流徒の投げたビニール袋を受け止めて、その中身ごと噛み砕いた。たった二回か三回の咀嚼だけで、あっという間に全てを飲み下す。丸呑みに近かった。
あの口に噛み付かれたらひとたまりも無い。
樹流徒は全身を緊張させる。同時に、「不用意に敵へ近付くのは危険だ」と心が警鐘を鳴らした。
まずは相手の出方を窺ったほうが良い。そう判断して、彼は身構える。表面上は応戦の構えを取りながら、守りに徹するため敵の一挙手一投足を見逃さないように細心の注意を払った。
両者は無言で睨み合う。互いが互いの動きを警戒しているようにも見えた。
ただ、その静止状態はすぐに解かれる。悪魔が顎をゆっくりと開いて、鋭い牙を剥き出しにした。足は止めたまま、空っぽの口内を青年に向ける。
樹流徒はやや腰を落した。敵がいつ襲い掛かってきても素早く反応できるように準備をする。
それが終わるや否や、悪魔の様子に次の変化が起こった。ぽっかりと開いた異形の口が、急に赤く輝き出す。
樹流徒は直感的に危険を察知した。横っ飛びで商品棚の間に逃れ、床を滑る。
コンマ数秒送れて、悪魔の口から飛び出した炎の塊が彼の元いた場所を高速で通過した。直径二十センチ前後の大きさがあるそれは、壁に接触すると小さな爆発を起こす。細かな火種が飛び散った。
間一髪難を逃れた樹流徒は、床でくすぶる火種を見て息を呑む。今度の悪魔は炎の弾丸を吐き出すらしい。さしずめ“火炎弾”とでも言ったとこだろうか。現世の生物にはない能力を目の当たりにして、樹流徒の中で異世界の住人と対峙している実感がいよいよ沸いてきた。
樹流徒は、ひとまず悪魔から離れることにした。飛び道具を持つ相手に対して身を晒したままでは危険だ。彼は身を屈めながら通路を駆ける。店の奥まで退避して物陰に隠れた。
悪魔の口内から次の火炎弾が発射される。棚の一部とそこに陳列されていた商品が四方に吹き飛んだ。
これではますます悪魔に近付けない。樹流徒は棚の影からそっと顔を出して敵の様子を窺った。
悪魔は樹流徒を追いかけようとはせず、レジの前で仁王立ちしている。正面出入り口と裏口の両方を塞ぐ絶妙な位置取りだった。意図的にその場を選択しているのかは不明だが、もし樹流徒が店内から脱出を試みようとする場合には厄介なポジションだった。
樹流徒は顔を引っ込めて息を殺す。この危機をどうやって切り抜けるか、考えなくてはいけない。
しかし今は戦闘中だ。平常時ならばいざ知らず、緊張と焦りの中では冷静に頭を働かせることができなかった。
やがて三発目の攻撃が樹流徒の頭上を通り過ぎる。炎の塊が、彼のすぐ背後に設置されているリーチイン冷蔵庫のガラスを粉々に砕いた。中の缶ビールが破裂して床に液体をばら撒く。
その衝撃で、樹流徒は反射的に頭を抱えながら倒れた。彼の全身が棚の陰から飛び出す。しまったと思った時には、無防備な姿を敵の正面に晒していた。
やられる。
樹流徒は瞬間的に死を覚悟した。
ところが悪魔は大口を開けたままジッとしている。一体何があったのか、異形の生物は火の弾を吐き出すこともなく石像のように固まって身動き一つ取らない。
その隙に、樹流徒は慌てて床を這った。別の棚に身を隠して体勢を直す。深く息を吐いて、命拾いをしたことに胸を撫で下ろした。
一方で、微かな疑念が脳裏を過ぎる。何故、今、悪魔は攻撃をしてこなかったのか? それが引っかかった。
床に倒れた時、樹流徒は完全に恰好の的だった。どうぞ撃って下さいと言わんばかりの体勢だった。
果たしてそのような好機を敵が都合よく見逃してくれるものだろうか?
青年は内心で小首を傾げた。
「コソコソ隠れやがって!」
悪魔の怒声が響く。逃げの姿勢に徹する相手に対して立腹している。その様子からは、バルバトスみたいに獲物を追い詰め楽しもうという雰囲気が微塵も感じられない。
こうなると、先刻悪魔が好機を見送ったことがますます不自然だった。
あの悪魔は獲物を弄んだりしない。トドメを刺せるとなれば躊躇わず実行するはずだ。なのに、何故僕を攻撃しなかった?
樹流徒は考えを巡らせる。速まる心臓の音を邪魔に感じながら頭を回転させた。
すぐにはたと気付いた。あのとき、敵は炎を撃たなかったのではなく撃てなかったのではないか。もしかするとあの攻撃は連射が効かないのかも知れない。
そのように考えると一応は辻褄は合った。そういえば先程から悪魔の攻撃にはある程度間が開いている。
そのようなことを考えていると、再び炎の塊が冷蔵庫を直撃した。ガラスの破片が散り乱れる。
樹流徒は爆発の衝撃を受けて床に手を着いた。しかし今度は素早く立ち上がる。勢いそのまま、悪魔の真正面を走る通路に飛び出した。
それは危険な行為だったが、樹流徒は体を張ってでも確認したかった。果たして敵が攻撃してくるかどうか、知りたかった。
「ニンゲンは逃げるしか能がないのか? かかって来い」
悪魔がギョロと目を剥き、樹流徒を挑発する。しかしその態度とは裏腹に相手を追いかけたり攻撃をする素振りは見せない。
樹流徒は、再び棚の陰に戻り身を隠す。そして確信した。やはりあの飛び道具に連射性能は無い。敵の付け入る隙を見つけた。
だが喜んでばかりもいられなかった。火が放たれるたびに店内は破壊され、壁や床に飛び散った火種が延焼してゆく。すでに焦げ臭い匂いと共に黄色っぽい煙がうっすら立ち込めていた。急いで次の行動に移らなければならない。
素早い判断を迫られる中、樹流徒は敵と戦うべきかそれとも逃げるべきかの2択で揺れる。
本音を言えば、勝負をしたかった。自分自身が敵から逃げたくないという感情もあるが、あの悪魔に屍肉を漁られた見ず知らずの人たちの仇を討ちたいという気持ちも少なからず持っていた。
ただ問題なのは、悪魔に対抗するための武器が無いことだ。成り行きで戦いを始めたのは良かったものの、攻撃手段が無いことに今更気付いた。
間抜けな話だった。ライフルも持たずに裸で熊狩りをしに行くようなものだ。辺りを見回しても武器として利用できそうなものは無い。ガラスの破片を刃物代わりにして戦うというのも些か心もとなかった。
他に何か手はないのか。他に……
この切羽詰った状況の中、樹流徒は必死に突破口を探す。
間もなく頭に浮かんだのは、バルバトスとの戦いで使用した爪の存在だった。あれさえあれば悪魔に立ち向かう事ができるかも知れない。
そうだ……。あの爪が使えれば戦える。なんとかしてもう一度あの力を。
樹流徒は祈るような気持ちで戦う力を欲する。本来戦うことは好きではなかった。でも、あの悪魔は倒さなければいけない。逃げたくなかった。
そのとき、まるで樹流徒の願いに応じるかのように奇妙な出来事が起こる。
彼の耳に不思議な音が聞こえた。メリメリと、生き物が内側から膜を破るような、小さくて少々不気味な音だった。
それは樹流徒の指先から鳴っていた。見れば、彼の爪が変形を始めている。紛れも無く対バルバトス戦のときと同じ現象だ。青年の爪は、明らかに殺傷を目的とした鋭利な形に尖った。
まさか本当にこんなことが起こるなんて。樹流徒は信じられない気持ちで、寸刻自分の指先を凝視する。
が、今は呆けている場合ではない事に気付いた。とにかくこれで敵と戦える。次の火炎弾が来たら攻撃を仕掛けよう。そう決めた。
そして、決心を実行に移す時はすぐに訪れた。悪魔の口から放たれた炎の塊が、樹流徒の数メートル手前で弾けて床を焦がす。
樹流徒は舞い上がる火の粉に足踏みしたが、次の瞬間には、棚の陰から躍り出た。
彼は敵めがけ突っ切る。その常人離れした速度に意表を突かれのだろうか。悪魔はおっと驚きの声を上げた。
樹流徒はいとも簡単に敵の懐に潜り込む。悪魔が縦に振り下ろした爪を避け、逆に自分の武器を敵の喉元に深く突き刺した。
ぐえっという潰れた声がして悪魔の頭上に輝く王冠が落下した。青い血がほとばしり樹流徒の顔と袖を濡らしてゆく。
完璧な手応えだった。人間だったらほぼ間違いなく即死である。
だがそこに樹流徒の油断が生まれた。“魔界の生き物には人間の常識が通用しない”。彼は、バルバトスの店で学んだばかりのことを失念していた。
トドメを刺したと確信して気を緩めた途端、悪魔の爪が宙を疾走する。青年の顔面を引き裂いた。
樹流徒は痛みと驚きから、うっと声を上げて仰け反る。彼の顔に真っ赤な線が浮かび上がった。
しかし樹流徒は慌てることもなければ、混乱もしなかった。むしろ敵から攻撃を受けたことでカッとなり瞬間的に闘争心を爆発させる。力任せに爪を横になぎ払った。
耳慣れない生々しい音、そして鈍い音が合わさって聞こえる。
悪魔の首が床で小さくバウンドした。それから転がって、すぐに止まる。
余りにグロテスクな光景に、敵の首を斬り落とした樹流徒自身が軽く戦慄した。
「ニンゲン如きに……」
悪魔の顔は、胴体と分断されながらもまだ喋る。驚異的な生命力だ。
が、今度こそ致命傷を負っていた。間もなく異形の頭部と胴体がそれぞれ崩壊を始める。赤黒い光の粒となり空中を漂った。樹流徒が初めて悪魔を倒した時に見たのと同じ現象である。
悪魔から放出される光の粒が樹流徒の体へと引き寄せられ、吸い込まれてゆく。樹流徒の全身に力がみなぎった。バルバトスの弓に裂かれた頬の傷、それからたった今悪魔から受けた傷が同時に癒えてゆく。それらは瞬く間に跡形も無く消えてしまった。
光の粒もひとつ残らず消える。気付けば、店内に充満する煙は黄色から灰色へと変色していた。
樹流徒は走り出す。壊れた扉めげけて突っ込み、煙と一緒に外へ飛び出した。
小火を上げる店を遠巻きに眺めながら、樹流徒は棒立ちになる。
恐ろしい戦いだった。一歩間違えれば自分が死んでいた。
青年は束の間戦いの余韻に浸る。しかしすぐに別のことで頭がいっぱいになった。
自分が、倒した悪魔の力を取り込んでいる事に、いよいよ確信を持ったのである。
その可能性にはじめて気付いたのは、最初に遭遇した悪魔を倒した後だった。あのときも樹流徒は悪魔から放出された赤黒い光の粒を吸収して、頭部の傷口を塞いだ。同時に、樹流徒の全身から疲労も飢えも乾きも、何もかもが消えてしまった。
それだけではない。バルバトスや今回遭遇した悪魔との戦闘中、樹流徒は人間離れした身体能力を発揮した。それが一度だけならば「火事場の馬鹿力」という説明で納得できたかも知れないが、二回立て続けに起きれば少し無理がある。今までの経緯を考えると、樹流徒が悪魔の力を吸収して自分のものにしてしまった、と考えたほうがむしろ自然なくらいだった。
もはや不自然を当然として扱わなければ事実に近付けないのだ。科学では説明できない何かが樹流徒の身に起きているのは間違いない。誰が何と言おうと、それだけは既に現実として起きてしまっているのだから。
そして、樹流徒は今回の戦いを終えて、もうひとつ気付いたことがあった。もしかすると、倒した悪魔の肉体の一部や能力を、自分のものとして利用できるのではないか……ということである。
その根拠は、ニ度に渡り樹流徒の窮地を救った謎の爪だ。バルバトスと戦ったときも、今回の戦いでも、樹流徒は爪の形状を鋭利に変化させて武器にし、敗北濃厚な状況を逆転した。
バルバトスと戦ったときには全く気付かなかったが、樹流徒は今回の戦いで、あの爪が最初に戦った悪魔の指から伸びていたものと良く似ていることに気付いた。もしそれが正しければ、樹流徒は悪魔の爪を使ったことになる。
悪魔は死ぬと光の粒を放出する。それを吸収することで、樹流徒は体の傷を癒し、肉体を強化し、さらに悪魔の体の一部や能力が使える。
それらは全て憶測に過ぎず、絶対の証拠は無い。ただ、やはり今までの出来事を振り返ると、信じるに足るものがあった。
元来、樹流徒は己の直感に自信を持つタイプの人間ではない。だが、今回は自分が感付いたことを不思議と信じられた。もう少し正確に言うならば、己の体がそれを肯定しているような気がした。悪魔との戦いを通して色々なことに気付いたとき、自分の全身が突然何かに目覚めたようだった。己の細胞ひとつひとつが「悪魔の力を使える」と伝えてくるような感覚に襲われたのだ。或いは樹流徒に倒され、彼の体内に取り込まれた悪魔の囁きだったのかも知れない。
そこで樹流徒は、果たして己の仮説と直感が正しいかどうか、ひとつ試してみる事にした。もし本当に悪魔の力が使えるというならば、あの火炎弾だって撃てるかも知れない。
もしこの話を誰かが聞いたら「幾らなんでもそれは無理だろう」と言うかもしれない。樹流徒もこれが他人のことだったら恐らくそう言ってた。「悪魔の力を吸収して不思議な力が使えるようになった気がする」などと言われても、その言葉を完全に信じることはできなかった。クラスメートの伊佐木詩織から世界滅亡の予言を聞かされた時と同じように……
しかし、現実として樹流徒の体は伝えていた。「悪魔の力が使える」と強烈に訴えていた。その確かな感覚を「嘘だ」と否定することはできない。
もう理屈が入り込む余地は無かった。樹流徒は空に向かって口を開き、炎を吐くイメージを頭に浮かべる。先程の戦いの記憶から可能な限り正確に火炎弾の映像を想起すた。炎の塊を放った悪魔の姿に、無理矢理自分の姿を重ねる。
そして最後に「行け!」と強く念じた。
鼓動が不自然に高鳴った。それに合わせ、樹流徒は自分の体内が恐ろしい速さで構造を組み替えてゆくのを感じた。胃から食堂、口にかけて体がチリチリと熱くなった。
彼の口が真っ赤な光を放つ。次の瞬間、炎の塊が水色の薄闇を切り裂いて空へ昇ってゆく。
いとも簡単に結果が出た。出てしまったと言うべきかも知れない。常識や科学を冒涜するような現象を、樹流徒はあっさりと起こしたのだ。まるで彼がこの世の生物ではなくなってしまった瞬間のようだった。
ともあれ、樹流徒は倒した悪魔の能力を使用できる。どうやら間違いなさそうだった。
樹流徒は思わず微苦笑する。根拠無き自信があったとはいえ、余りにも思い通り成功してしまったため、乾いた笑みを浮かべずにはいられなかった。何故、自分にこのようなことできるのか、その原理が全く不明のままという気持ち悪さもあった。改めて己の体を不気味にも感じた。
それでも樹流徒は「自分の体について深く考えない」と決めたばかりだ。今は、その決定に従う事にした。自分の身に起きている異変については、もう少し後で調べればいい。わざわざ自分で調べるまでもなく、今回のように何かがきっかけで新たに分ることがあるかも知れない。
樹流徒は顔を上げて歩き出した。