コンビニへ
そうだ。現世へ戻る前にバルバトスに声をかけておこう。
不意にそう思って、樹流徒は足を止めた。店の出口を指したつま先が、反対方向へ振り返る。
店の奥にあるカウンターの向こう側には、フード付きのローブを纏った巨人が今も堂々たる威容で佇んでいた。
思い出すまでもない話だが、樹流徒がこの店で情報収集をできるようになったのはバルバトスのおかげだ。それについ先ほど「客に話しかけてみたらどうだ」と樹流徒の背中を押してくれたのもバルバトスだった。結果として青年は客の一名から重要な話を聞くことができた。
そのことを十分理解している樹流徒は、情報収集の成果をバルバトスに報告しておこうと思ったのである。それは相手に対する感謝や礼儀といった大袈裟なものではなく、もっと何気ない気持ちから起こった考えだった。
青年の背後からトポトポと小さな音が聞こえる。カラス頭の悪魔・アンドラスがボトルを片手に、空っぽになったグラスに酒を注いでいた。グラスの半分がブドウ色の液体で満たされたとき、小さな音は止まった。
ほぼ同時、樹流徒は歩き出す。店内を横切り、人間嫌いの悪魔パズズから放たれる殺気を全身にひしひしと感じつつ、カウンターの前に着いた。
すると、そこにはいつの間にか1匹の猫がいた。毛並みが良く全身灰色で両目は赤い。魔界の灰猫だ。
その猫は、先程パズズが割ったワインボトルの破片を勢い良く噛み砕き次々と飲み込んでいる。外見は現世の猫とそう変わらないが、中身は大分違うらしい。
樹流徒がその不思議な光景に目を奪われていると……
「そいつは“グリマルキン”だ」
バルバトスが彼に声をかけた。
「グリマルキン?」
「魔界に生息する稀少な獣だ。強靭な顎と特殊な胃液で何でも食べて溶かす」
「不思議な生き物だな。飼っているのか?」
「ああ。割れた皿や瓶だけでなく客の残飯や店の埃も食うから助かっている。時々余分なものまで食ってしまうがな」
「そうなのか」
魔界だけでなく、そこに棲む悪魔や生物にも人間の常識が通用しない部分がある。
考えれば当たり前のことかも知れないが、樹流徒はそれを今、軽く実感した。
「ところでオレに何か用か?」
バルバトスが話題を変える。
それにより樹流徒は本来の用事を思い出した。
「実は、重要な情報が手に入ったんだ。もしかすると更に凄い手掛かりがつかめるかも知れない」
「そのようだな。オマエとアンドラスの会話は全て聞こえていた」
「え。どういうことだ?」
樹流徒は僅かに怪訝な表情をする。
「オレの聴力はニンゲンよりも少しだけ高い。店内の音くらいなら大体何でも聞こえる。聞きたくなくても聞こえてしまうのだ」
「ああ……そういうことか。なら都合が良い。色々と説明する手間が省けた」
「キルトはこれから一度現世に戻るのだろう?」
「ああ。今すぐ行くつもりだ」
「そうか……。店を出る時は鍵を忘れないようにな」
「分かっている。それじゃあ」
バルバトスに報告を済ませた樹流徒は、店の出口へ向かう。
灰猫グリマルキンがバオーと妙な鳴き声を発した。愛らしい見かけによらず野太い声をしている。
樹流徒が店の扉を開くと、目の前には真っ暗な空間が広がっていた。何も見えない。地面さえ存在しない。
何もせずこのまま先へ進んでしまうと魔界に出てしまう。現世に帰るためにはこの真っ暗な空間に鍵を挿し込まなければならない。
樹流徒は当然それを覚えていた。何せ下手をしたら命を落としかねない。加えてバルバトスに念を押されたばかりだから、忘れるはずがなかった。
彼は鍵を取り出し、バルバトスから説明を受けた通りに使用する。
鍵の先端を飲み込んだ空間が穏やかに波打った。現世でガラスに鍵を挿した時と同じ現象だ。樹流徒は鍵を引き抜いて、揺れる暗闇に飛び込んだ。
すぐに青い光が目の中に射し込んでくる。
現世の空から降り注ぐ光だった。樹流徒が後ろを振り返ると、自動車販売店の外壁があった。どうやら無事に元の場所まで戻ってくることができたらしい。
彼は、たった今自分の体が通過してきたガラスに触れてみる。すると、それは何の変哲も無い普通の状態を取り戻していた。
樹流徒は、現世に戻って来られたことに一安心して、それからすぐに気持ちを切り替える。というより、切り替えずにはいられなかった。辺りには未だ多くの市民が横たわり誰一人として動かない。それを目の当たりにして、樹流徒の心は否応なしに冷え切った。
彼は歩き出す。マモンという悪魔の情報を得るために、アンドラスが欲するコンビニ弁当を入手しなければいけない。幸いコンビニは適当に歩いているだけでも、必ずと言って良いほどすぐに見つかる。
実際、店は難なく見つかった。わずか数十メートル先にあった。
樹流徒は薄い霧の中を進み、店の入り口の前に立つ。自動ドアが開かない。今更だが、市内には電気が通っていないようだ。どこもかしこも建物の明かりがついていないし、信号機のランプも消えている。
原因は結界に違いなかった。あの巨大な壁が送電線を全て遮断してしまったのだ。恐らく他のライフラインについても絶望的だろう。結界が市の周囲を完全に封鎖しているのだとすれば、配水管もガス管も全てやられていると見たほうがよさそうだった。
樹流徒は自動ドアを手動で開いて店内に踏み込む。
店員と買い物客が合わせて4、5名倒れていた。天から降り注いだ黒い光は、建物の中にいた人々まで容赦なく襲ったのだ。
樹流徒は自宅の中で見た家族の姿を思い出しそうになって、すぐにその映像を頭の中からかき消した。
レジの奥には事務室や裏口に繋がる通路がある。樹流徒はそこに入って、事務室の扉を開いた。店内の人たちが既に全員死んでいることを確認すると、彼らを1体ずつ事務所の中に運び込んで、床に並べる。
市内中の遺体を樹流徒1人で弔うのは到底無理だが、これくらいのことはしておこうと考えた。発作的な行動だった。
店内に誰の姿も見えなくなったところで、樹流徒は本来の目的を果たす。レジでビニール袋を拝借し、弁当のコーナーで適当な商品を数点詰め込んだ。
これで用事は済んだ。バルバトスの店を出て間もないが、すぐ引き返すことにした。
ところが、樹流徒はたった数歩進んだだけで立ち止まる。彼は辺りを見回した。そこら辺に飲食物が溢れているというのに全く手をつける気にならない。それが心に引っかかったのだ。
思えば、彼は目を覚ましてからまだ水一滴すら口にしていなかった。
樹流徒は店内の後ろにある冷蔵庫に歩み寄る。試しに好きなジュースを一本掴んで、中身を口に含んでみた。
美味しかった。味覚は正常に働いていた。
しかし、それだけだった。美味しいという感覚に満足を得ることができない。渇きが癒えたという実感も無かった。
気持ちの問題もあるだろう。惨憺たる世界にたった1人取り残されたのだ。食欲が無くても当然だった。
ただ、いま樹流徒の身に起きている症状は、きっとそんな単純なものではなかった。いくら気持ちが沈んでいるとはいえ、喉が全く渇かないのは明らかに異常だ。
言葉には表せない、実に奇妙な体感。まるで自分の体が自分のモノではないような錯覚……。束の間の恐怖が青年の心を蝕んだ。
樹流徒は静かに瞼を下ろし、深い吐息を漏らす。それにより少し気が紛れた。
これ以上頭を悩ませ続けると神経が参ってしまいそうだった。体のことを気にする余り心身の状態を悪化させてしまっては本末転倒である。
そこで彼は、敢えてしばらくの間、この問題から意識を遠ざけることにした。自分の体に起きている異変については後回しにしようと考えたのだ。
代わりにマモンという悪魔と、その悪魔に捕まっている人のことを優先して考えようと、己の心をそちらに仕向けた。
樹流徒は踵を返す。
マモンとは一体どんな悪魔なのか? 何のために人間を捕らえているのか?
捕まっている人は一体どんな人か? その人はまだ生きているだろうか?
早速あれこれと想像しながら歩く。彼の足音と、ビニール袋が揺れる音が律動的なリズムを刻んだ。
それが突として調子を変えたのは、樹流徒が出口に差し掛かったその時だった。
不意に、彼の視界に影が射す。
はっとして顔を上げると、ドアを挟んで目の前に1体の大きな化物が立っていた。
恐らく悪魔だろう。頭に王冠を戴き4本の角を生やしている。口は人の頭を丸呑みできそうなくらい大きい。恰幅があり背丈はゆうに180センチを超えていた。足は鳥の形をしている。
樹流徒は警戒心を働かせて一歩後退した。
半瞬後、悪魔が驀進する。大きな体が店の入り口に突っ込んだ。その凄まじい衝撃を前に、お互いを隔てるドアは何ら抵抗力を持たない。ガラスが飴細工の如くあっさりと砕け散った。フレームはひしゃげながら倒れ、床で無機質な音を立てる。
青年はさらに数歩あとずさった。
店内に踏み込んだ悪魔が急停止する。鈍重な動きで頭や肩のガラス片を払い、丸い瞳で樹流徒を見下ろした。
「ん? 何かいるかと思ったらニンゲンじゃねぇか」
そして言葉を発する。裂けるように広がった口の端からヒュルルとおかしな音がした。呼吸音だろうか。まるで口笛みたいな音だった。
樹流徒は努めて冷静になって、相手と会話を試みる。
「お前は悪魔だな?」
「だとしたらなんだ?」
「話を聞かせて欲しい。何が目的で現世に来たんだ?」
「なぜオレがそんなことをオマエに教えなきゃいけない?」
悪魔はふんと鼻を鳴らし、丸い目を細めて、口元を嘲笑うように歪めた。
その態度に樹流徒は眉を寄せる。
「質問に答えろ」
思わず語調も強くなった。
「オオ。ニンゲン風情が生意気な口を叩きやがる」
「……」
「まあいい、教えてやるよ。オレが現世に来たのは食い物を漁るためだ。ニンゲンが作る飯はなかなか美味いからな」
悪魔は答えてから
「まぁ……ニンゲン自身の肉は食えたモンじゃなかったが」
と、付け足した。
その言葉で、樹流徒は目の前の存在を敵だと見なさなければいけなかった。悪びれる様子もなく「人間を食った」と言った悪魔を許してはおけない。
かたや、異形の巨漢は口から大粒の唾液を溢れさせた。それは彼の顎から垂れて床に零れ落ちる。
「そういえばオレはまだ生きたままのニンゲンは食ったことがない。新鮮な状態なら美味いかも知れんな」
悪魔は太い腕で口元を拭う。赤い瞳の中はより真っ赤な線で激しく血走っている。瞳孔は焦点が合っていなかった。
樹流徒は手に持ったビニール袋を敵の顔面めがけて投げつける。
この瞬間、戦いの火蓋が切られた。