残りの5名
あてもなく宙をさまようヒトダマが絶えず色を変えながら広大な闇を照らしている。桜色の水がきらめく湖には長い橋が掛かっていた。その先に連なる黒い鳥居の下をくぐれば、異様にせり上がった祭壇が設けられた円形の広場に辿り着く。そこは根の国の最下層、死者の国の果て。
今、その場所には四つの人影が集まっていた。内二つは樹流徒と渚。彼らは祭壇の正面で横並びになって立っている。
別の一つは祭壇の足元に佇んでいた。紫色の衣を全身に纏った外見不明の人物。八鬼の一人、火雷だ。
そして残り一つの影は祭壇の上で玉座に腰掛けている少女。それが誰なのか、今さら確認するまでもなかった。
「夜子様。只今戻りました」
渚は前回この場に来た時と同様、深々と頭を下げる。
「ご苦労だったな、渚。そして樹流徒よ」
玉座の少女が答えた。彼女の瞳は相変わらず奈落のように深く、しばしば微笑を讃える口元はいつになく引き締まっている。見ようによっては不快感を露にしている風でもあった。
どこか浮かない彼女の表情にもし何か理由があるのだすれば、樹流徒は多分それを知っていた。
八鬼の一人、柝雷の死である。
「夜子様、柝雷様のことですが……」
早速、渚がその話を持ち出す。彼女は根の国に帰還する途中、樹流徒から全ての事情を聞かされていた。
夜子はやや張り詰めた表情のまま答える。
「皆まで言わずとも良い。カラスから全て聞いている」
「はい……」
「柝雷の方から樹流徒に攻撃を仕掛けたそうだな」
夜子が確認する。
樹流徒は無言で首肯した。
「私としたことが人選を誤ったようだ。柝雷が八鬼の中でも特に人間を嫌っていたのは知っていた。とはいえ、私の命令を無視して樹流徒に襲い掛かるほど愚かとは思っていなかった」
「相馬君に責任は無いですよね?」
「そう。非はこちらにある。しかしこうなってしまった以上、今後も樹流徒と共に戦うのは八鬼が納得すまい」
「では、どうするんですか?」
「協力関係の破棄が妥当であろうな」
夜子が即答すると、渚は傍目にもはっきりと分かるくらいに表情を曇らせた。
「恐れながら申し上げたいことがございます、黄泉津大神様」
そのとき火雷が口を挟む。端正な唇から発せられた声にはあどけなさが残っている。
「火雷。お前が私に物申すとは、珍しいな」
夜子はようやくいつものように微笑して
「構わん。言ってみるがいい」
発言の許可を与えた。
「ありがとうございます」
火雷は浅く頭を垂れる。一呼吸置いてから、おもむろに話し始めた。
「今しがた黄泉津大神様が仰られた通り、今後キルトと行動を共にするのは我々八鬼の感情が許しません。私個人は特に憤りも無いのですが、残りの五名が決して認めないでしょう。しかし……」
「しかし何だ?」
「しかし、我々とキルトの関係を完全に断つのは得策では無い、と私は考えます」
「ほう。その理由は?」
「キルトは柝雷を倒すほどの実力の持ち主。今の状況で敵に回せば、こちらにもそれなりの損害が生じましょう。結果、我々の天使や悪魔への対応にも影響が出るかも知れません。しばらくのあいだは互いに手をさない方が無難かと……」
「一時的に停戦せよ、と申すのだな?」
「は。加えて、キルトとの協力関係も形を変えて継続しては如何かと存じます」
「具体的には?」
「キルトが我が軍の兵として戦う代わりに我々がキルトに情報を与える、というのが現在の取引です。それを“情報と情報の交換”に変更します。我々がキルトと共に行動する必要は無くなりますし、天使と悪魔に関する情報のみをキルトと共有することで利はあっても逆は無いでしょう」
「うむ……」
夜子は口元に指を添えて、数秒思考する。そのあと軽く頷いた。
「悪くない案だ」
「是非ご検討を」
火雷はもう一度頭を下げた。
「君はどうだ?」
夜子の視線が青年の顔に移る。
「僕はそれで構わない」
樹流徒は検討するまでもなく答えた。そもそも彼が根の国と協力関係を結んだのは、今まで何度か助けてくれた渚の行為に対する感謝を示すためであり、彼女が拾った悪魔倶楽部の鍵を渡して貰うためだ。根の国の兵士たちと共に戦いたいという希望ははじめから皆無だった。
また、共闘の見返りとして根の国からもたらされる情報も特別あてにはしていない。既に渚から鍵を返して貰ったため悪魔倶楽部での情報収集が可能だし、その気になれば現世を訪れている悪魔相手に聞き込みをすることもできる(とはいえ現世の悪魔に声を掛けると戦闘に発展する恐れがあるので、悪魔倶楽部で情報収集をする方が断然良い)。今後貴重な情報が手に入れば根の国と取引をするのは一向に構わないが、それをする必然性は無かった。
夜子の人差し指が玉座の手すりをトン、トンと二回叩く。
「分かった。火雷の提案を採用しよう。我々は一時的な停戦協定と新たな協力関係を結ぶ。ネビトには引き続き樹流徒に対して手を出さぬように命じておこう」
「できれば組織の人たちにも危害を加えないようにしてくれないか?」
「無理な相談だな。我々が停戦協定を結ぶのはあくまで君個人となのだから」
「そうか……。ならば僕も人間を襲うネビトに対しては容赦しない」
「好きにするがいい」
根の国の女王は「おもしろい」とでも言いたげに破顔した。
「あの、ひとつよろしいですか?」
話がまとまると、すかさず渚が口を挟む。
「何か異論でも?」
「いえ、ありません。正直に言えば相馬君にはこのまま根の国の一員になって欲しかったですけど、今は停戦状態を保ってくれるだけでいいです。私が言いたいのは、もっと全然別の話です」
「構わない。申してみよ」
「はい……。実は火雷様にお尋ねしたいのですが」
渚は祭壇の足元に佇む人物に視線を送る。
「さっき火雷様が“残りの五名”と言ってましたよね? あれはどういう意味ですか?」
そう尋ねた。
実は、樹流徒も内心同じ疑問を覚えていた。先刻、火雷は確かに「残りの五名」と言った。それを聞いたとき、はっきりとした違和感を覚えたのだ。
というのも、彼らは八鬼と呼ばれるくらいだから、恐らく八人のメンバーで構成されている。柝雷が消えたため現在は七名なので、火雷を除けば残りのメンバーは全員で六名のはずだ。しかし火雷は「五名」と言った。渚もそこが引っかかったのだろう。
樹流徒が敢えてその点を追及しなかったのは、もしかすると八鬼のメンバーが八名ではないのかも知れないし、柝雷のほかにも以前から欠けているメンバーいたのかも知れないからだ。しかし、渚が疑問を唱えたということは、そのどちらも違う。
つまり、火雷が発した「五名」という言葉は“柝雷のほかにも八鬼の中で最近消えたメンバーがいる”という可能性を想像させるのだ。
「渚は鋭い子だ」
すると火雷の口から褒め言葉が出る。暗に渚の指摘を肯定したようにも取れる発言だった。
「それじゃ、やっぱり八鬼のどなたかがやられたんですか?」
渚は直截的な表現で尋ねる。
「それについては丁度今から話そうと思っていたところだ。天使たちが別の場所で行っていた儀式の件と合わせてな」
「本物の儀式について知っていたのか?」
「知っていたというより、中央公園の儀式が囮かも知れない程度のことは最初から頭にあった。そして我々根の国の情報網を侮って貰っては困る。複数の場所で儀式を行なっている天使たちを、我々は発見した」
「それで、どうなさったんですか?」
「無論、手は打った。ある場所にはネビトを派遣し、またある場所には八鬼を送った。私が前もって君たちに“状況次第では別の八鬼も投入する”と伝えたのは覚えているだろう? その通りにしたのだ」
「八鬼のどなたが派遣されたんですか?」
「“若雷”と“黒雷”。そして“鳴雷”の三名だ。あやつらならば天使相手にもまず遅れを取ることはない」
「しかし鳴雷は死んだ」
火雷がさらりと結論を述べた。
「天使にやられたんですか?」
「いや。カラスから受け取った情報によれば、鳴雷が現場に到着したとき、既に悪魔の集団によって儀式は阻止されていたらしい」
「ベルゼブブの仲間か」
樹流徒は独り呟いた。
「では、鳴雷様は悪魔と交戦して落命したんですね?」
「そうだ。より厳密に言うならば、悪魔に与している人間にやられた」
「まさか」
樹流徒はすぐにある人物が思い当たり、はっとした。
「恐らく君が考えている通りだ。鳴雷を倒したのは君の友人と考えて間違いない」
やはりメイジが。樹流徒の心がざわつく。彼が柝雷を撃破したのと同じ頃、メイジもまた八鬼の一人を沈めていたのだ。
「火雷は別として、八鬼は皆プライドが高い。仲間が二人も敗れたとあっては、彼らが人間への敵意を増すのも無理はないだろう」
と夜子。
その言葉を聞いて、樹流徒は渚の立場が少し心配になった。
「だからといって仙道さんが八鬼から憎悪を向けられる心配はないんだろう?」
念のために尋ねる。
渚は明るい笑みを樹流徒に向けた。
「ありがとう相馬君。でも私のことは心配しなくても大丈夫だよ。だって、私はもう人間……」
「渚。余り口が軽いのは感心できんな」
夜子が少女の言葉を途中で遮る。
「あ……すみません、つい」
渚の笑顔は一瞬にして固まった。
今、彼女は何を言おうとしていたのか、樹流徒は気になったが、この場で尋ねても無駄だろう。
夜子は話題を変える。
「ところで、我々はまだ樹流徒との約束を果たしていなかったな」
「約束……。もしかして取引のことか?」
「そう。天使の儀式が囮だったとはいえ、君は我々の戦力として良く戦ってくれた。柝雷が君を奇襲したことへの詫びも込めて、こちらが相応の対価を払うのは当然だ」
「じゃあ、何か情報を掴んだんだな?」
「掴んだというより、前もって掴んでいた。今すぐ聞くだろう?」
「ああ」
樹流徒に断る理由は無かった。
「これから君に伝える情報は全部で三つ。内二つは例の捕獲した天使の口から引き出したものだ」
「……」
「早速一つ目を話すとしよう。聖界への侵入方法についてだ。残念ながら市内中央に浮かぶ魔法陣から聖界へ潜り込むのは不可能だということが判明した」
「何故?」
「あの魔法陣は天使の生体情報を読み取り、それに反応して機能するらしい。つまり天使だけが自由に開閉できる仕組みになっている」
「できれば信じたくない情報だな」
「それは我々とて同じだ。だが、あの魔法陣を通ってきた天使本人の言葉だけに事実と認めざるを得まい」
「じゃあ、どうやって聖界へ行けばいい?」
「現時点では不明だ。引き続き調査する」
「そうか……」
樹流徒は握り締めた拳に軽く力を込めた。
「続いて二つ目を話そう。こちらも天使から聞き出した聖界に関する情報だ」
「聞かせてくれ」
「少し前に聖界内で反乱が起きたらしい」
「反乱?」
突拍子もない単語が飛び出して、樹流徒はにわかに表情を硬くした。
「なんでも“ウリエル”という名の天使が多数の兵を率いて現体制に反旗を翻したそうだ」
「物騒な話ですね」
渚が口を挟む。
「それで結果は?」
「反乱は失敗に終わった。反乱軍は既に鎮圧され、首謀者のウリエルは捕らえられた。しかし戦いの影響で聖界は未曾有の被害を負ったようだ」
「聖界内でそんなことが起きてたなんて……」
「ね。もしかしてマルバスが言ってたことって、これが原因なんじゃないかな?」
渚がはたと気付いたように言う。
彼女の言葉で樹流徒も気付いた。そういえばマルバスが「現世に来ている天使の数が余りにも少ない」と疑問を唱えていた。
聖界内で起きた反乱……その影響で天使たちは現世に十分な兵を派遣できなかったのかも知れない。少なくても原因の一端を担っているのはほぼ間違いないだろう。
「でも意外だね。私、詳しいことは知らないけど、天使たちの世界を治めてるのって多分神様なんでしょ? 反乱を起こすってことは、神様に逆らうってことじゃないの?」
「確かにそうだな」
樹流徒は渚に同調した。樹流徒は元々天使という存在について良く知らないが、神という名の絶対的な秩序の下に結束を固めている、という漠然としたイメージは持っていた。そのため、反乱が発生するなどとは想像していなかった。
ただ、以前南方からこんな話を聞いたことがある。
今は悪魔と呼ばれている者たちも、かつては皆天使だった。しかし、あるとき悪魔の王サタンが天使の三分の一を率いて神に戦いを挑んだ。激しい衝突の末、サタンたちは天使ミカエルが率いる神の軍勢に敗れ、聖界を追放された。彼らは地上に落とされ悪魔になった……という話である。
ウリエル以前にも反逆行為を犯した天使がいたのだ。何故彼らが神に逆らおうと思ったのか、樹流徒には分からないし、今は知る由もなかった。
「以前にも言ったが、神の称号など飾りに過ぎない。剥がれてしまえばそれまでだ」
夜子はそう語る。彼女が言うと妙に説得力があるのは相変わらずだった。
ここで、樹流徒は聖界に連れて行かれた少女の存在を急に思い出す。
「そうだ。伊佐木さんは無事なのか?」
我知らず夜子を問い詰めた。ウリエルの反乱は少し前に起きた出来事だから、連れ去られたばかりの詩織が戦いに巻き込まれたなどということは決して有り得ない。だが、それを知った上でも気が気ではなかった。
「ほう。君の仲間が聖界にいるのか? どうりで君が聖界に侵入する方法を探すわけだ」
「そんなことはどうでもいい。彼女の安否について何か知らないか?」
「聖界内で人間が死んだという情報は入っていない。それどころか人間が聖界に連行されたという話も聞いていない」
「落ち着いて相馬君。夜子様が天使から情報を引き出したのも、伊佐木さんが連れ去られるよりも前の話なんだから」
「済まない、少し取り乱した」
指摘されて、樹流徒はすぐ冷静になった。
「でも、もしかすると伊佐木さんが連れて行かれたこととウリエルの反乱って何か関係があるのかも知れないね」
渚はそう言ってから
「どんな関係があるのかは分からないけど」
と、付け足した。
「聖界の話は置いて話を進めよう。次が三つ目、最後の情報だ。これは偵察用のカラスが持ち帰った話だが、どうやら悪魔たちが最後の儀式を始めようとしているようだ」
「それはもう知っている」
「左様か。とっておきの情報だったのだがな」
「儀式が開かれる場所は号刀城ですよね?」
「うむ。正確には号刀城も、だが……」
「どういう意味だ?」
「悪魔が市内の三ヶ所に散らばって同時に儀式の準備を始めているのだ。天使への意趣返しのつもりなのだろう。本物の儀式を行っている場所は一ヶ所で、他の二つはダミーと考えたほうが良さそうだ」
「じゃあ、こちらも戦力を分散させて全部の儀式を止めるしかないですね」
「そう、天使の儀式を阻止したのと同じ要領だ。今回は八鬼も総動員する。幸いにも大雷と土雷の両名がつい先ほど現世から帰還してきたばかりだ。彼らにはもうひと働きしてもらうとしよう」
「相馬君はメイジ君に会いに行くんでしょ?」
「ああ。すぐに号刀城へ向かう。悪魔たちと戦うのは次で最後にしたい」
樹流徒は言い終えてから、不意に己自身の言葉に緊張した。
そう。もしかすると次が現世では最後の戦いになるかも知れない。メイジの暴走を止めることと、最後の儀式の阻止。とても重要な戦いが連続で待ち構えている。両方とも絶対に負けれない。
「今回、我々が君に与えられる情報は以上だ。満足してもらえたかな?」
「ああ、十分だ」
「結構。では、今後君が何か重要な情報を得たらまたここへ来るがいい。それが我々にとって有益な情報であれば、こちらも君に役立ちそうな情報を与える」
「分かった」
樹流徒はそれだけ答えると、さっと踵を返した。
「あっ、出口まで送るよ。相馬君、根の国のエレベーター動かせないでしょ」
渚がすぐあとに続く。
間もなく二人は姿を消し、根の国の最下層には夜子と火雷だけが残された。
それから束の間の静寂が訪れ、辺りを漂うヒトダマが何度か色を変えたとき
「樹流徒は……もしかすると次の戦いで死ぬかも知れんな」
夜子が急にぽつりと漏らした。
「彼の精神がいつになく乱れている。恐らく大一番を前に気負っているのだろう。あのような心理状態では実力を出し切る前に不覚を取る可能性も十分にある。案外、目的地に辿り着く前に果てるかも知れんな」
「……」
火雷は無言で夜子を見上げた。そのすぐそばを通りかかったヒトダマが、紫色の衣に隠された八鬼の素顔を照らす。夜子以上に深い闇を持った双眸が、その中心で黒ずんだ黄金の炎を音もなく揺らめかせていた。