宣戦布告
樹流徒にとってフルーレティという悪魔は、ベルゼブブと同等かそれ以上に忘れられない存在だった。
なぜならフルーレティはベルゼブブの仲間というだけでなく、メイジを魔界へと誘った悪魔としても樹流徒の記憶の中に深く刻み込まれていたからだ。メイジがたった一度だけ口にしたフルーレティの外見的特長を樹流徒がはっきりと覚えていたのもそのためだった。
メイジが悪魔と手を組んだのは、他ならぬ彼自身がそうすると決めたからである。誰かがメイジを無理矢理ベルゼブブの元へ連れていったのではない。それは樹流徒も分かっている。
けれど、もしフルーレティがいなければ……この悪魔がメイジを仲間に誘わなければ、今頃メイジは樹流徒と共に行動していたかもしれない。それを想像すると、樹流徒はどうしてもフルーレティに対して強い敵意を抱かざるを得なかった。
魔人の瞳は空から舞い降りた悪魔を睨む。
「これは恐ろしい。どうやら私は相当憎まれているようだな」
フルーレティは唇を動かして、蒼白の顔面に小さな三日月を浮かべた。台詞とは裏腹に表情にはかなりの余裕がある。
挑発とも取れるその態度に、樹流徒は怒りの衝動を覚えて身構えた。もし止める者がいなければ感情に突き動かされて戦闘に突入していただろう。
阻止したのはマルバスの大声だった。
「おい、オマエ、今“その必要は無い”って言ったよな? どういう意味だ?」
それはフルーレティに対する質問だったが、冷静さを失った樹流徒への一喝にもなった。
樹流徒は我に返って、そっと構えを解く。
かたやフルーレティは顔の角度をややマルバスの方へ寄せて、口を開いた。
「額面通り受け取ってくれれば良い。我々が魔界に避難する必要は無い、と言ったのだ」
「逃げなくてもいいだと? メギドの火は降らねえとでも言うのか?」
「まさしくその通り」
フルーレティは首肯した。
メギドの火が降らない? フルーレティの口から飛び出した意外な言葉に、樹流徒は内心で驚く。
「どういうこと?」
と、横顔を見上げてくる渚に対しても「分からない」と返すしかなかった。
「オマエ、あの儀式が囮だったことは分かってるんだろうな?」
「無論だ。知った上で憂惧する必要は無いと言っている。なぜなら本物の儀式も今頃は阻止されているはずなのだから」
「ほう……。詳しい話を聞かせて貰おうか」
「いいだろう」
フルーレティはマルバスの要望に応じて語り始める。
「ベルゼブブは聡明だ。あの方は、天使の目論見をかなり早い段階で見抜いていた。奴らがメギドの火を降らせようとすることも、複数の儀式を行ない我々をかく乱することも、全て予想していたよ」
「なんだと? じゃあ、オレたちは最初からニセ儀式を阻止するために雇われたってのか?」
「いや、あくまで予想は予想だ。あの儀式が囮だという確証は無かった。いかに我々とて、本物と偽物の儀式を見分ける術は持ち合わせていないからな」
「言われてみればそうか……」
「だから我々は天使の儀式を一つ残らず潰すことにしたのだ。それしか方法が無かったと言っても良い」
「なるほどな。道理でベルゼブブの配下を余り戦場で見かけなかったワケだ。奴らは別の儀式を妨害しに向かってたってワケだな」
「理解が得られたようで何よりだ。だが、そもそもマルバスは勝手に参戦しただけで、ベルゼブブに雇われていないだろう」
「うるせえな。細かいことはどうでもいいんだよ。それよりオマエ、天使どもが数箇所で儀式をやるって予想してたなら最初から教えろよ」
「情報はどこから漏れるか分からない。我々が天使の目論見に気付いていることを相手に知られては厄介だろう。それを防ぐためにも、お前たちには黙っておく必要があった。しかし、それでもなお許せないというのであれば、この場で謝ろう」
フルーレティは淀みなく答える。
マルバスはふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ、メギドの火が降る心配はもうないのか」
樹流徒が改めて問う。
「そうだ。結果的にとはいえ、お前たちの命も我々が救ったのだ。感謝して欲しいものだな」
フルーレティは口角を緩やかに持ち上げた。
ここで、渚がひとつの疑問を差し挟む。
「ね。本物の儀式を阻止したのはいいとして、天使がまたすぐに同じ儀式をしちゃうんじゃないの?」
「ああ、それだったら心配要らねえよ」
答えたのはマルバスだった。
「大掛かりな儀式ってのはどれも実行できる時間や場所が非常に限られている。特に現世で儀式を行なう場合は星の配置とかも重要になるからな。今回の機を逃したことで、天使どもは当分のあいだ同じ儀式を開けねえってワケだ」
「へえ、そうなんだ」
渚は頭を前後に揺らす。
樹流徒はマルバスの説明がすんなり府に落ちた。これは以前ブエルという悪魔が吐いた情報だが、ベルゼブブの一味が現世で行っている儀式も一度機を逃してしまうと全てが無駄に終わってしまうらしい。メギドの火もそれと同じなのだろう。
ともかく、天使の目論見は阻止された。或いはフルーレティーの罠とも考えられるが、彼がわざわざこのような虚を吐く理由や利点が考えられない。マルバスもフルーレティの話を微塵も疑っていないようだし、罠の危険性は低いだろう。
それ以上疑問を口する者はいなかった。
ここで、機を見計らったようにフルーレティの注意が渚へ向く。
「ところで、お前は何者だ?」
悪魔は少女に対して直球で疑問をぶつける。
「ああ、こいつはキルトの仲間らしいぜ」
渚の代わりにマルバスが答えた。
「では、あの巨人たちは一体何だ? ニンゲンの生体兵器か? 何故、我々や天使を襲う?」
フルーレティは追求を続ける。“巨人たち”というのは、きっとネビトのことを指しているのだろう。
「詳しいことは教えられない。でも、儀式について教えてくれたから、お礼に少しだけ話してあげる」
と、渚。
「あの巨人はネビト。現世とは異なる世界の住人だよ。それ以外のことは秘密ね」
「ネビトか……。ニンゲンの手先ではないと分かっただけでも収穫だな」
少女の答えに満足したらしく、フルーレティは初めて微かに嬉しそうな顔をした。
「魔界と聖界以外にも現世と接点を持つ別世界があるのか。あり得ない話じゃねえな」
マルバスも渚の言葉を疑わず、逆に納得した様子だった。
間髪入れず、今度は樹流徒がフルーレティに問う。
「話は変わるが、お前がここにいるということは、もしかするとメイジもあの戦場に来ていたのか?」
「いや。彼はベルゼブブの指示で別の場所へ向かった」
「そうか……」
樹流徒は目を落とす。メギドの火が阻止されたことで心に余裕が生まれたのか、今になって少しだけ親友の顔が見たくなった。
そんな樹流徒の様子を見て、フルーレティが微笑する。
「ただ、その代わりというわけではないが、メイジからお前への言伝を預かっている」
「伝言?」
樹流徒は顔を上げた。
「実を言えば、私が現世に来たのはそれをお前に伝えるためだ。私も儀式の妨害は手伝ったが、そちらはついでに過ぎない」
「じゃあ、お前はメイジの言葉を僕に伝えるためだけにここへ来たのか?」
「そうだ。言っておくが、私は最初メイジの頼みを断ろうとした。なぜ、この私が彼の使い魔みたいな真似をしなければいけないのか、些か憤慨したよ。しかし、今やメイジは我々にとって貴重な戦力だ。下手に機嫌を損ねられても困る。そう考えた私は不本意ながら彼の要望に応えることにしたのだ」
「話は分かった。でも、よく僕の居場所が分かったな」
「ただの勘だ。私ではなく、メイジの勘だがな。彼は、お前が必ずあの戦場に現れると断言していたよ。もし現れなければキルトとは縁が無いから伝言は忘れて良い、とまで言っていた」
「五年以上親友をやってきたのに縁が無いか……。アイツらしいといえばらしいな」
樹流徒は少しぎこちない笑みを浮かべた
「では尋ねるとしよう。メイジの伝言を受け取るか? 拒否するか? もし伝言を聞くならば、ついでにお前の返事を貰ってくるように頼まれているのだが……」
「もちろん聞く」
「分かった。ではこれからメイジの言葉を一語一句違わず話す。たった一度しか言わないから聞き逃さないようにして頂きたい」
フルーレティはそう前置きしてから、メイジの言葉を樹流徒に伝える。
「“よう。元気か樹流徒? 突然だがお前に宣戦布告をさせて貰う。このメッセージを聞いてから十二時間以内に号刀城まで来い。そこで最後の儀式が行われる。俺たちが戦うには最高の舞台だとは思わないか? もしお前がこの誘いを蹴るようならば、俺は天使の犬の連中を探して片っ端から殺していく。くれぐれも遅刻するなよ”」
言い終えて、フルーレティは不敵な笑みを浮かべた。言葉遣いだけでなく表情までメイジの真似をしているようだった。
樹流徒の胸に暗い感情が込み上げてくる。
「この伝言内容が本物かどうか、直接メイジに会って貰えば分かるだろう。もっとも、彼に会わなくても同じだ。天使の犬が死体になって現れれば、お前は否応なしに彼の言葉が嘘や偽りではなかっと知ることになる」
フルーレティは真顔に戻って淡々と言った。
樹流徒は敵を睨む。同時に、相手の背後に浮かぶメイジの幻影を睨んだ。
「今から十二時間以内に号刀城だな? 必ず行くとメイジに伝えておけ」
「承知した」
フルーレティは華麗な動きでお辞儀をする。バレエやミュージカルで出演者が観客に向かって送るようなお辞儀だった。その仕草がどこかおどけているようにも見えて、樹流徒の心をますます逆撫でした。
「おいテメーら! さっきからオレを無視して話を進めるんじゃねえよ」
マルバスの怒鳴り声が割って入る。
「耳元で大きな声を出すな。話ならば今終わった」
フルーレティは涼しい顔で答える。
「ああ、そうかよ」
マルバスは不機嫌そうに返した。
が、一転真面目な口調になって
「ところで、オレには少し引っかかっていることがあるんだが」
などと、前触れも無くそのようなことを言い出す。
「何が引っかかってるの?」
渚は早くもマルバスと友達になったかのような軽い口調で尋ねた。
マルバスはううむと短く唸ってから、答える。
「実は、戦場に到着したときから妙だと思ってたんだが……天使の数が余りにも少ない」
「え」
渚は若干間の抜けた声を出す。
「そうか。やはりお前は気付いていたか」
続いてフルーレティがマルバスの指摘を肯定する発言をした。
一方、樹流徒は無言だったが、マルバスの言葉が甚だ意外だった。天使の数が少ないとは、一体どういう意味なのだろうか。開戦当時、天使の数は圧倒的だった。根の国の軍と、乱入してきた悪魔たちの数を合わせてようやく互角くらいだったはず。天使たちの数が多いとは感じたが、少ないとは全く思わなかった。
そんな樹流徒の疑問を見抜いたかのように、マルバスが説明を加える。
「キルトは知らねェだろうが、天使どもの数はオレたち悪魔よりもずっと多い。今現世に来ている奴らは聖界の先遣隊に過ぎないが、それでも数十万規模の天使が現れてもおかしくないはずだ」
「しかし、我々があの戦場に到着したとき、天使の数は万にすら届いていなかったな」
と、フルーレティ。
「そう。だから妙なんだよ。開戦から俺たちが到着するまでの間に天使の数が急激に減ったとも考えられないしな。やっぱり奴らの数が少なすぎる」
「何か裏があるのか?」
樹流徒が尋ねる。
「分からねェ」
マルバスは口だけ動かして返事をした。
「あの儀式が囮だから天使の数が少なかったのか? いや、逆だな。囮だからこそ中途半端な数を揃えるのは不自然だ。そもそも囮なんて手段を使うこと自体らしくねえ。天使どもが先遣隊を総動員すれば数の力でオレたちを圧倒できたはずだ。でもそれをしなかったってことは……」
続いて自問自答する。
それを隣で聞いていたフルーレティが、失笑するように唇の隙間からふっと息をこぼした。
「おいテメエ、今笑っただろ? まさか何か知ってンじゃねェだろうな? 知ってるなら教えろよ」
マルバスは瞳を尖らせて凄む。
「いや、別に何も知らんよ」
フルーレティは物怖じせず平然としていた。それがマルバスの癇に障ったらしい。
「そういや前々からオマエとは一度戦ってみたかったんだ。魔界に避難する必要もなくなったことだし、今からどうだ?」
獅子の爪がフルーレティの喉元に押し付けられる。
「遠慮しておこう。私は多忙な身でね。特にこれから先はとても忙しくなる」
「ふん。オマエらベルゼブブの指示で色々動き回ってるみてェだな。どうせ現世に結界を出現させたのもオマエらの仕業だろ? 一体何を企んでるのか教えろよ」
「今は答えられない。だが、近い内に誰もが知ることになる。楽しみに待っているといい」
フルーレティは答える。しかし彼の視線はマルバスにではなく樹流徒に向かっていた。
今の言葉はマルバスに対する返事ではなく、樹流徒に対する宣戦布告だったのだろう。「最後の儀式は必ず成功させる」というフルーレティの決意表明である。
「では用事も済ませたことだし、私は失礼させて貰う」
中性的な青年の姿をした悪魔は静かに地面を蹴り、軽やかに宙を舞った。
「あの野郎……」
マルバスは飛び去るフルーレティの姿を睨み上げた。それが霧の向こうへ消えると、獣の瞳で樹流徒を見下ろす。
「アイツのせいでなんだか毒気を抜かれちまった。オレも帰ることにする」
そう言って、僅かに肩を下げた。
「できれば今度会った時も戦いたくないな」
「冗談だろ? 次会ったらオレたちの勝負に決着つけようぜ。たとえお前が望まなくても、オレはお前の命を狙うからな」
マルバスは豪快に笑う。
樹流徒は「そうか」とだけ答えた。
そのとき、三人より遠く離れた場所から複数の笑い声が飛んでくる。
樹流徒たちが振り返ってみると、道の先から悪魔たちの集団が歩いてきた。数は七か八。頭に王冠を載せた巨人の悪魔デウムスや、コウモリの羽を生やした竜人の悪魔ガーゴイル、それに樹流徒がまだ見たことのない、鳥類の頭を持った悪魔もいた。
恐らく偶然この場所を通りかかったのであろう異形の群れは、樹流徒たちの近くまできたところで揃って足を止める。
「よう、マルバス。いつの間にか戦場から消えてると思ったら、こんなとこにいたのか」
デウムスが挨拶をする。遅れて隣に立つガーゴイルもギャアと鳴いた。
「お前らもあの戦場から抜けてきたのか?」
マルバスが挨拶を返す代わりに問うと
「まあな。儀式は阻止したんだから、もう戦う必要なんてないさ。天使を沢山倒せばベルゼブブから貰える金も増えるけど、死んだら元も子もないからな」
鳥類の頭部を持った悪魔が気だるそうな声を出した。
「それより、戦闘狂のお前が戦場から消えるなんて、どういう風の吹き回しだ?」
小人型の夢魔インキュバスが背中の羽を動かしながら言う。
「ちょっと事情があったんだよ」
マルバスは如何にも適当な感じで答えた。
そのとき、デウムスの目玉が急に大きくなる。
「おい、マルバス。そいつ、まさか首狩りキルトじゃねえのか?」
人差し指から伸びた鋭い爪が樹流徒を指差した。
「首狩りキルト? 何だそれ?」
鳥頭の悪魔が首を傾げる。
「知らないのか? アイツを倒せばベルゼブブから紫硬貨八千枚貰えるらしい」
「八千? 嘘だろ?」
「それだけあれば数年間は遊び放題じゃないか」
「お前ら落ち着けよ。それだけの高値が付くってことは、かなり強いってことだろ?」
「そういや普通のニンゲンには見えないな」
「なんでも噂によればアイツ、俺たち悪魔の力を奪うらしいぞ」
「そうなのか? マルバス」
「マルバス!」
異形の瞳が一斉に獅子の悪魔を見つめる。
「オレも詳しいことは知らねえ。でも、これだけは言っておく。キルトはオレの獲物だ。もしオレの目の前で手を出すつもりなら……その先は言わなくても分かるよな?」
マルバスは口内から黒い煙を吐き出して、深く落ち着いた声色で答えた。それが却って異様な迫力を醸し出す。
悪魔たちは、マルバスの獲物を横取りするのが恐ろしいのか、樹流徒に向かって明確な殺意を放ちながらも攻撃を仕掛けようとはしなかった。
間もなく、彼らは誰からともなく踵を返し、無言でその場から立ち去ってゆく。
「今後オマエを狙う連中が増えるかもな。次にオレと会うまで殺されないようにせいぜい気をつけろよ」
マルバスは樹流徒に忠告を与えると、悪魔の集団が去っていった方角とは反対に向かって歩き出した。