囮(おとり)
振り抜かれた魔人の拳が銀色の鎧を粉々に破壊する。天使ドミニオンの体が後ろへ吹き飛んだ。
二つの魔法陣が描かれ、紅蓮の塊と青い閃光が同時に放たれる。体勢を崩しているドミニオンは回避できない。鎧を砕かれた天使の全身は激しい炎と雷に包まれ、灰色の煙を上げながら墜落していった。
柝雷との死闘を乗り越えてより強い力を手に入れた樹流徒は、元の戦場に復帰するなり最初の敵をあっさり討ち取った。彼は急いで次の標的に狙いを定める。敵の命を一つでも多く奪うことで、自分や仲間の命が守られる。その冷たい現実に対するもやもやとした気持ちは片時も心を離れないが、それでも今はやらなければいけない。樹流徒は敵を倒すことに躍起になっていた。
今のところ儀式が完了した気配は無い。メギドの火は市内全域を火の海に変えてしまうほどの威力を持つが故に、発射準備には相応の手間と時間を要するのだろう。人間の兵器も基本的に強力なものを使用するほど人(技術)、金、時間など様々なコストがかかる。それと同じだ。
だとすれば、ある意味樹流徒たちにとってはメギドの火の凄まじい破壊力が幸いしたことになる。発射されれば万事休すだが、その代わりに準備の段階で阻止できる時間がまだ残されている。
もっとも、樹流徒は時間切れが間近に迫っていることを予感していた。戦いを通して敵の必死さが伝わってくるのだ。つい先ほど倒したドミニオンもそうだが、天使たちの動きや攻撃のひとつひとつに、どこかまとわりつくようなしつこさを感じていた。「あと少し時間を稼げば儀式が完了する」「それまではなんとしても持ちこたえてみせる」という彼らの気持ちが行動に表れているようだった。
無論、死に物狂いで戦っているのは天使だけではない。樹流徒は言うまでもないが、悪魔たちも戦いの終結が近いと感じているのか、多くの者がやたらと猛り狂っていた。中には命を投げ捨てるように突撃して儚く散ってゆく者の姿もある。
悪魔たちは知能が高くて能力に個性がある分だけ、ネビトよりも多彩な動きをみせている。ただ、およそ死を恐れぬ者のように敵へ向かってゆく全体的な姿勢は根の国の兵と何ら変わらなかった。
目的達成のためには命を惜しまない兵士たち。彼らの覚悟や情念がせめぎ合い、死と狂気の坩堝と化した戦場を際限なく殺伐とさせる。
火が勢いを増せば、火中の紙が燃える勢いもまた然り。猛火の如く荒れ狂う戦場は兵士たちの命を怒涛の勢いで塵に変えた。根の国の軍に限って言えば既に壊滅状態に近い。三つの勢力全ての残存兵数を合わせても、開戦当時の天使たちの数には届かないだろう。
戦いの激しさに比例して、戦場の荒廃も急速に進んだ。緑の大地はすっかり焼け野原と化し、あちこちで燻る火種は数を増すばかり。池の水は完全に蒸発し、代わりにネビトと悪魔の血が戦場に濁った水気を漂わせていた。そこら辺に散乱した天使の武器にも赤青二色の液体がべっとりとこびり付いている。
戦いの傷跡は公園周辺の木々や道路、建物にまで及んでいた。巨大な氷塊が民家の屋根を押し潰し、天から降り注いだ雷が植樹の頭を焦がし、激しい竜巻が地上の全てを空へ巻き上げる。戦いが終わった頃には、辺りの景色は原型を失っているだろう。
樹流徒は敵と交戦しながら、ふと戦場の中心に目がいった。兵士の数が激減したことにより視界が開けている。お陰で儀式を行ってる天使たちの姿をようやく捉える事が出来た。
公園いっぱいに広がる魔法陣の中央に、直径五メートル前後の円とそれに内接する六芒星が描かれている。巨大魔法陣の中に別の小さな魔法陣が描かれているのだ。その小さな魔法陣の外縁に沿って計八体の天使が等間隔で立ち並び、口々に呪文を唱えていた。どうやら彼らが儀式の実行者らしい。
一方、小さな魔法陣の内側には女性の姿をした天使が三体いた。三角形を作って座り、胸の前で指を組んで祈りを捧げるような姿勢をしている。こちらは生贄と見て間違いないだろう。
彼女たちの表情は気味が悪いほど平静を保っており、恐怖を感じるどころか己の役目に誇りを抱いているようにすら見える。メギドの火を降らせる代償として己の命を捧げることに何の躊躇いもないのだろうか。
ともあれ、呪文を唱えている天使と、生贄の天使を確認できた。彼女らの内誰か一体でも倒せば儀式を中断できるはず。樹流徒は勝機を見出した。
問題は、標的への接近がかなり困難なこと。戦場の中心に近付けば近付くほど敵の守りが堅くなる。それは天使が必死に抵抗しているからという精神的な要因もさることながら、中央の魔法陣を守護している者たちの戦闘力が高いことが最大の原因だった。
光の盾を展開して遠距離攻撃を遮断している天使もいれば、悪魔たちの頭上に激しい雷を降らせている者もいる。美しい装飾が施された銀の槍を両手に携えてネビトの突進を迎え撃っている者もいた。巨大魔法陣の中心とその付近にいる天使たちは皆、強い能力や高い戦闘技術を駆使して守りを固めている。前線で戦っていた天使たちとは違い精鋭揃いだ。控え目に見ても全員がドミニオン級より遥か格上である。
彼ら精鋭天使の奮闘により、ネビトも悪魔もある場所から急に先へ進めなくなっていた。儀式の真っ只中へなだれ込もうとする者たちがいれば、天使は息を吹き返したかのように反撃し、即座に侵攻の波を止める。さながら難攻不落の要塞だった。
樹流徒も敵の精鋭集団から厳しい抵抗を受けて余り自由に動けない。強引な突破を試みるものの、次々と新しい敵に進路を妨害される。魔人の力を恐れて守勢に回る者はもういない。天使たちは先を競うように樹流徒へ襲い掛かっていった。
一方その頃、地上の渚もなかなか敵陣深くへ切り込めない様子だった。天使の攻撃が激しくなり周囲のネビトが急速に数を減らしてゆく中、少女は孤軍奮闘している。
「ああもう。敵の守り堅いなあ」
炎の刀を天使の腹に突き立てながら、渚は少し辟易したように言った。表情こそ普段通りだったが、彼女も儀式完了が間近に迫っていることを感じ取り少なからず焦りを感じているようだ。
そんな少女の心の隙を突くように、天使パワーの槍が音も無く襲い掛かる。
渚はあっと短い声を上げて身軽に跳ねた。真横から飛び出してきた凶刃を寸でのところで避ける。
が、彼女が着地した先には、偶然上空から飛来した炎の玉が待っていた。渚の背中で火の粉が爆ぜる。衝撃で少女の体がぐらりと揺れた。爆風によって髪がふわりと浮き上がる。
生身の人間だったら無事では済まなかっただろう。しかし少女は全くの無傷だった。彼女自身のみならず、彼女が身に着けている派手な着物にも小さな焦げ跡ひとつ残されいない。恐ろしく熱と衝撃に強い服だ。根の国の特殊な繊維で織られた物だろうか。
「危なかったあ」
ふうっと息を吐いて体勢を立て直し、渚はその場で刀を横になぎ払った。夕陽のように燃える刃が激しい火の粉を散らして虚空に真っ赤な一文字を引く。合わせるように、地表から黄金の炎が噴き上がった。それは勢い良く前方へ広がって敵の全身を覆う。
天使の肉体は数秒と持たずに黄金の光の中で崩壊を始めた。
その様子を最後まで見届けることなく、渚は次の標的へ向かって駆けてゆく。
その後も、死に急ぐ者たちの大集会は終結に向かって加速を続けた。天使の剣がネビトの体を切り裂き、悪魔の口から吐き出された炎が天使の翼を焼く。魔女の群れから一斉に放たれた雷が、彼女たちの前方にいるものを敵味方関係なく撃墜した。
樹流徒は敵の猛攻を凌ぎながら、少しずつではあるが着実に戦場の中心へ近付いてゆく。ただ、このままでは多分間に合わない。どこかで無理をしなければいけなかった。
四、五体の天使が一斉に樹流徒を襲撃する。ある者は剣を振りかざし、ある者は槍を構え、またある者は素手で魔人の体に掴みかかった。
樹流徒は魔法壁を展開して敵を弾き飛ばす。爪で天使を二体仕留めると、羽を動かしてまた少し戦場の中心へ近付いた。
すぐに新たな天使の影が二つ、壁となって樹流徒の行く手を塞ぐ。
樹流徒は力尽くで突破しようとした。が、すぐに思い留まる。見れば、新たに現れた敵は外見や雰囲気からして他の天使たちとは違う。初めて対峙する敵に、樹流徒の直感が「迂闊に飛び込むのは危険だ」と訴えた。
樹流徒の行く手を遮った二体の天使は、どちらも美しい少年の姿をしていた。しかも双子のように瓜二つだ。片方は金髪でもう片方は銀髪という特徴を覗けば、全く同じ顔をしている。外見の年齢は樹流徒よりも三つか四つくらい年下だが、表情にはあどけなさの欠片もなかった。世の中の全てを見下したような面差しをしている。
他方で、彼らの背丈は外見の年齢に相応しく樹流徒の肩くらいまでしかなかった。純白の衣を纏い、その上から全身に鎖を巻きつけている。金髪の天使が巻いている鎖は赤色で、銀髪の天使の鎖は黒い。鎖の先端には武器や飾りなどが一切ついておらず、その用途は不明だった。単なるアクセサリーかも知れない。
樹流徒の前に立ちはだかった二体の少年天使は、酷く好戦的な眼差しをしていた。そこからして他の天使たちとは雰囲気がまるで異なる。
「ねえ“アフ”。あのニンゲンと悪魔が混ざったみたいなヤツ、すごい邪魔だよね」
銀髪の少年がそう言って、樹流徒の顔を指差す。
「そうだね“ヘマー”。だから僕たちであの魔人を殺してしまうのがいいんじゃないかな?」
金髪の少年が無邪気さと冷酷さを兼ねた悪戯っぽい口調で答えた。
喋り終えた二体の少年天使は、即座に動き出す。金髪の天使アフが右手を、銀髪の天使ヘマーが左手を、それぞれ前に突き出した。彼らの前方に白銀の魔法陣が同時展開する。
直後、魔法陣から飛び出したのは数十本の鎖だった。彼らが身につけているのと同じ赤黒二色の鎖が炎を纏って宙を滑る。
樹流徒は急上昇して攻撃を回避した。が、数本の鎖が己の意思を持ったかのように軌道を変えて彼の後を追う。
残りの鎖は直進を続け、そのとき丁度樹流徒の背後まで迫っていた天使の体を捕縛した。炎の鎖は天使の四肢と胴体を蛇のように締め付け、そのまま焼き尽くす。少年天使たちの攻撃が味方を誤射する格好になった。
それでも少年たちは、悪びれる様子もなく静かに笑い合う。
「あの程度の攻撃を避けないヤツが悪いんだよ。ね、アフ?」
「そうだね、ヘマー」
などと残酷な言葉を楽しそうに交わした。
その間にも樹流徒は足下から追跡してくる炎の鎖を、悪魔の爪で全て断ち切る。千切れた鎖は重力に従って落下し、残った鎖は逃げ帰るように魔法陣の奥へ引っ込んだ。
少年天使たちは顔を見合わせる。お気に入りの玩具を発見したようににやりとした。
「ねえ、あの魔人、思った通り少しは遊べそうだよ」
銀髪のヘマーが魔法陣の中に手を突っ込んで、大きな鎌を取り出す。
「うん。せいぜい楽しませて貰おうよ」
続いて金髪のアフも魔法陣に手を突っ込む。こちらは槍を取り出した。
樹流徒は奥歯を噛む。ここへ来て強敵との遭遇。ますます儀式の中心に近付くのが困難になった。このままでは間に合わない。儀式阻止に黄色信号が灯り始める。
しかし――
しかし……であった。焦りと危機感を覚える樹流徒の全く預かり知らぬところで、今回の戦いは突然の決着を迎える。
戦場の中心でひときわ異質な声が鳴いた。それは、ある天使が発した断末魔の叫びだった。断末魔といってもおどろおどろしい悲鳴ではなく、まるで歌声のように美しく透き通った声だった。それは周囲の戦闘音によってアッサリと掻き消えるほど小さな歌声だったが、恐らく戦場にいる誰よりも深い絶望を内包している声だった。
美しい断末魔の叫びを発したのは、儀式を行っていた天使の一体。遠距離から放たれた黒い光線に上半身を射抜かれてあっけなく消滅した。それは同時に天使の計画が水泡に帰した瞬間でもあった。
天使たちに致命傷を与えた者。それは戦場に紛れていた一体の悪魔だった。
二メートル近い巨人の姿をしており、フード付きのローブを身に纏っている。顔は乾ききった大地のようにヒビ割れ、瞳の中で真っ赤な虹彩が燃えていた。手には異様に大きな弓を持っている。
その場に樹流徒がいればきっと目を丸くしていただろう。この戦いに決着を着けた巨人の悪魔。それは紛れもなく悪魔倶楽部の店主バルバトスだった。
何故かこの戦場にいた彼は、徐に魔法陣から矢を取り出して、それを弓の弦にあてがい、矢じりを戦場の中心に向けた。眉間にシワを寄せて力任せに弦を引くと、そのままの姿勢でじっと固まったまま何分間も動かなかった。
慎重に狙いを定めていたのか、それとも特別な力を込めていたのか、しばらく石像のように固まっていたバルバトスはやがて意を決したように動いた。
彼が弦を手放すと、勢い良く放たれた弓矢は一筋の黒い閃光に変わって戦場を貫いた。閃光は射線上にいた悪魔を透過して、天使の前方に張り巡らされた光の盾をも通り過ぎ、その背後で呪文を唱えていた天使の胸だけを見事に射抜いた。標的のみを貫く魔法の矢だった。
樹流徒はバルバトスの存在も、儀式が失敗したことにもまだ気付いていない。絶え間なく交互に襲い来る少年天使の攻撃を捌くことだけに意識を集中していた。そうしなければあっという間に致命傷を浴びてしまいそうなほど、敵の攻撃は速く鋭い。
樹流徒に波状攻撃を仕掛けるアフとヘマー両天使も地上の出来事に気付いていないようだった。彼らだけではなく、ネビトも、悪魔たちも、まだ殆どの者たちが戦いを続けている。
されども事実はすぐに戦場を駆け巡った。儀式を行なっていた天使たちが場を放棄して一斉に飛び散ったのを皮切りに、他の天使たちも蜘蛛の子を散らすように退却を始める。
「見てよ、ヘマー。いつの間にか儀式が失敗してるよ」
金髪のアフが戦場の中心を指差す。
「え」
ヘマーは、背中から掛けられた声に素早く振り返った。青い瞳がアフの指先が示す方向を追う。
「ああ、本当だ。失敗してるね」
と、さもつまらなそうに言った。
それにより樹流徒もようやく状況を掴む。今、少年天使たちは間違いなく「儀式が失敗した」と言った。
樹流徒は周囲を見回す。公園の地表に浮かんでいた魔法陣が消滅し、天使たちがあらゆる方角へ逃げてゆく。
実感と共に、樹流徒の胸にじわじわと安堵が広がった。誰かが儀式を阻止してくれた。一体誰が? いや、そんなことはどうでもいい。これでもうメギドの火が現世に降り注ぐ心配は無くなった。それだけで十分だった。
ところが、喜びも束の間。樹流徒の心に暗雲が立ち込める。
少年天使たちの様子がどこか妙なのに気付いたからだ。儀式を阻止されたというのに、彼らには気落ちしたり悔しがったりしている様子が全く無い。それどころか逆に愉快そうな笑みを浮かべていた。
「何がおかしい?」
不安を払いのけるように、樹流徒は少し強い口調で問う。
少年天使たちはニヤニヤと笑った。
「どうしようかな? この哀れな魔人に事実を教えてあげようか、アフ?」
「そうだねヘマー。僕たちは優しいから教えてあげようよ」
などとのたまう。
事実とは何だ? この天使たちは何を隠している? 樹流徒の胸中でますます嫌な予感が膨れる。
「お前、多分これでメギドの火を阻止できたと思ってるんだろう? でも、残念ながらそうじゃないんだよ」
と、ヘマー。
「そう。僕たちはただの囮なのさ。本物の儀式は、別の場所で密かに行われてる。残念だったね」
アフがふふっと息を漏らして笑った。
囮? 囮とはどういうことだ。樹流徒は天使たちが何を言っているのかすぐには分からなかった。相手の言葉が理解できないのではなく、心が理解するのを拒んだ。
しかし、すぐに現実を認識する。安堵が一瞬にして絶望の色に染まった。
やられた。僕たちは騙されたんだ。
樹流徒は拳を握り締める。必死の思いで阻止した儀式が所謂ダミーだった。本物の儀式はどこか別の場所で行われている。きっと目立たないように最低限の人数で。
樹流徒は閉口する。ショックだった。それ以上に虚しかった。この戦いで大量に死んでいった兵士たちの命は一体なんだったのか。彼らは何のために死んでいったのか……
「悪魔たちも見事に引っかかってくれたよね。もっとも、味方も大半の奴らが騙されてるんだけど」
「そういえば現世には“敵を欺くにはまず味方から”って言葉があるらしいよ。まさにその通りだったね」
アフとヘマーは無邪気に笑い合う。彼らの口ぶりからして、この戦場にいる天使たちも殆どの者が事実を知らされていなかったようだ。彼らは自分たちが偽の儀式を行なっているとも知らずに命懸けで魔法陣を防衛していたのだ。
「本当の儀式が行なわれている場所はどこだ?」
樹流徒は少年たちを睨む。
「あのさあ。そんなことまで教えてやると思うの?」
ヘマーが肩をすくめておどける。
「仮に知ったところでもう遅いよ。時間的に考えて儀式はもうすぐ終了する。今まで凌いだ僕たちの勝ちだね」
アフの白い指先が金色の髪を弄った。
ならばメギドの火はもう止められないのか?
樹流徒は呆然と空を見つめる。
「それじゃあ、役目も終わったことだし帰還しようか」
「うん、それがいい。魔人の相手をするのもなんか飽きちゃったし」
二人の天使は身を翻すと、樹流徒を無視して飛び去ってゆく。
樹流徒はただ何もせず敵の背中を見送った。何にせよ全ては終わったのだ。これ以上無益な殺し合いを続ける必要はない。それ以前にもう戦闘などしている場合ではなかった。