第3の手
突き、蹴り、肘打ち、膝蹴り、頭突き、それに噛み付き。柝雷の全身を駆使した攻撃がことごとく空振りする。しかしそのどれもが樹流徒をひやりとさせるほどの鋭さを持っていた。まともに食らえば魔人の肉体でもどこまで耐え切れるか分からない。
樹流徒と柝雷、佳境を迎えた両者の戦いは、それに相応しい凄絶な攻防から始まった。
柝雷の動きは衰えを知らない。八鬼という生物に疲労や痛覚はないのか。激しい動きを続けているにもかかわらず巨人は息一つ乱さず、全身は傷だらけだというのに痛がる素振りすら見せない。樹流徒は相手のスタミナ切れに多少は期待していたが、全く意味がなさそうだと認識を改めた。
柝雷の攻撃をかわしながら、樹流徒はこの戦いの幕引きとなる一撃を狙う。単発で柝雷を倒せる遠距離攻撃は無かった。一撃必殺を狙うならば近接攻撃、敵の急所を爪で貫く以外にない。
そのことを多分柝雷は察している。これまで樹流徒が柝雷にダメージを与えた場面ほぼ全て接近戦で起こった。攻撃を受けた当の本人がそれに気付いていないはずがない。
だからなのか柝雷は怒りに任せて無闇に攻撃を繰り返し、敢えて隙だらけの動きをしているようにも見えた。まるで相手の攻撃を誘っているかのようだ。何か秘策や奥の手でもあるのだろうか。
柝雷が樹流徒の事情を察しているように、樹流徒もまた敵の露骨な思惑には気付いていた。気付いているからこそ迂闊には仕掛けられない。敵の懐へ飛び込めば罠が待ち受けているかも知れないのだ。最終的には罠だと知った上で仕掛けなければいけないが、今すぐ実行には移せない。さっきはそれで失敗した。一刻も早く勝負を決めることに執着し過ぎたせいで、危うく毒の砂に命を奪われるところだった。
樹流徒としては、できれば敵の思惑を突き止めてから勝負に出たい。今、柝雷は怒りと殺意に満ちている。一秒でも早く樹流徒を殺したいという欲求に駆られている。そんな怒れる巨人がいつまでも罠を張り続け気長に戦っていられるわけがない。そこに樹流徒はつけ込みたかった。もしかすると相手を焦らせば柝雷自ら奥の手を晒してくれるかも知れない。
とはいえ、悠長に戦っていられないのは樹流徒も同じ。彼は判断を迫られていた。早まって迂闊な行動を取ってもいけないし、じっくり慎重に勝負というわけにもいかない。どのタイミングで敵に仕掛けるのが最良なのか、見極めなければいけなかった。
すると、樹流徒がなかなか勝負に出ないことに業を煮やしたのか、柝雷の動きに変化が起こり始める。力任せに突っ込んだり振り回すだけの雑な攻撃が、徐々に隙の少ない細やかな動きになってきた。
柝雷の強烈な回し蹴りが低いスウィング音を鳴らす。樹流徒は後ろに下がってかわした。続いて巨人の豪腕が唸る。樹流徒はそれもかわした。
一方が攻め続け、もう一方がひたすら回避する。もしこの戦いを見ている者がいれば、二人が先刻までと同じ単調な戦いを続けているように見えるだろう。しかし当の本人たちは高次な駆け引きをしていた。
樹流徒は想像する。もし柝雷の懐に飛び込んだら、相手は一体どう動くだろうか。回避か? 防御か? それとも反撃か? 反撃だとすればどんな手が隠されているのか? それは近接攻撃なのか? 遠距離攻撃なのか? 範囲攻撃なのか? その攻撃をどこから放つのか? 目から? 口から?
考えば考えるほど、敵の姿が強大かつ不気味に見えた。このまま敵を焦らし続けるよりもいっそ何も考えずこちらから飛び込んだ方が良いかもしれない。たとえそれでまた危険な目に遭ったとしても。そのような思考が樹流徒の脳裏を過ぎる。
戦況が動いたのは実にその矢先だった。
柝雷の体が身軽に低空を跳躍して樹流徒に掴みかかる。樹流徒の心臓が軽く跳ねた。敵の行動そのものに対して驚いたのではない。相手のスピードが予想より遥かに速くて一驚を喫した。柝雷は基本的な能力を全て出し切っていたのかと思いきや、とんでもない瞬発力を隠していた。
樹流徒は真横に飛んで逃れようとする。果たしてその動きを読み切っていたのか、それとも怒りと執念が成せる技なのか、柝雷は空を蹴って急に方向転換をし、樹流徒の動きに反応した。
逃げ切れない。樹流徒がそう悟ったとき、大きな腕が伸びて彼の手を掴んだ。樹流徒はすぐに抵抗するが巨人の万力の如き凄まじい握力を振りほどけない。
柝雷は片手で樹流徒の体を軽々持ち上げると、彼を人形のように振り回してから地面に叩きつけた。続いて樹流徒の腹を踏みつけ、振りかぶった拳を突き下ろす。
樹流徒は魔法壁を発動した。七色に光る壁が柝雷の拳を防ぎ、巨体を押しのける。柝雷は体のバランスを崩して後ろに転びそうになったが、上手く持ちこたえた。
樹流徒は素早く立ち上がる。柝雷が隠していた瞬発力には驚かされたが、それが相手の奥の手だったとすれば、もう何も恐れることはない。厄介なスピードだが十分に対応できる。
仕掛けよう、と樹流徒は判断した。敵が他にも奥の手を隠しているという懸念はあるが、そんなことを考えていたらいつまで経ってもきりがない。少なくとも柝雷が隠していた能力は一つ露見した。それで相手は全てを出し尽くしたのだと信じるしかない。
一方、樹流徒を仕留め損なった柝雷は、特に悔しがったりショックを受けたりしている様子は無い。引き続き笑顔とも怒りの形相ともつかぬ表情をしている。いかにもまだ何か隠していそうであり、あたかもそうであるように装っている風でもある、判断のつきにくい面構えだ。
どの道、樹流徒の決断は変わらない。
彼は地面がめり込むほど脚に力を加えて飛び出した。敵の正面から突っ込む。
柝雷はうっと短い声を上げて、樹流徒に向かって前蹴りを繰り出した。
樹流徒は跳躍して相手の攻撃をかわす。巨人の頭部ががら空きなのを確認すると、脚を思い切り斜め下へ突き出して、最速かつ最大威力の蹴りを放った。
樹流徒の瞳に、柝雷の口元が不敵に歪むのがはっきりと映る。
が、それに気付いてもう遅かった。判瞬後には樹流徒の体が宙でピタリと止まって、動かなくなる。まるで空中で金縛りにかかってしまったみたいに、体がいうことを聞かない。
一体何故? 樹流徒は反射的に下を見た。
するとそこにあったのは、謎の腕だった。鰐の皮膚を連想させるゴワゴワした肌の太い腕が、樹流徒の体をしっかりと掴んでいる。
柝雷の両腕が変質した姿なのか? いや違う。樹流徒を捕まえた謎の腕が伸びた先を辿ってみると、巨人の胴体があった。柝雷の腹が縦に割れて、そこから大きな腕が飛び出しているのだ。
柝雷の体内から飛び出した“第三の手”は、柝雷の両手とは比較にならないほど大きかった。一本一本の指が電柱のように太く、分厚い掌は樹流徒の肩から大腿部までを完全に包み込んでいる。
また、大きさ以上に恐ろしいのが速さだ。樹流徒が跳躍した瞬間、まだ巨人の体には何も異変は起きていなかった。なのに、そこから樹流徒が蹴りを繰り出すまでの過少な時間の中で、第三の手は柝雷の腹から現れて標的の体を正確に捕獲したのだ。
「奥の手ってヤツはなにも一つとは限らねえんだよ」
今度こそ勝ちを確信したように、柝雷は白い歯をいっぱいに剥いて笑った。
樹流徒は自身を拘束している指から逃れようと試みる。しかし第三の手が彼を締め付ける力は尋常ではなかった。脱出できない。
樹流徒が身動きを封じられたのに対して、柝雷は両手が空いている。巨人の片手が樹流徒の首に回され、彼の首をじわじわと締めてゆく。じわじわといっても通常の人間であればあっけなく首の骨が砕けてしまう力だ。
柝雷はもう片方の手で樹流徒の口を塞いだ。相手の呼吸を塞ぐためか、それともレビヤタンの炎を警戒しての判断だろうか。
全ての動きと反撃手段を封じられ、樹流徒はあっという間に窮地に陥った。念動力を使って地面に落ちている武器を遠隔操作するという方法は残されているが、きっと敵の体には通じない。
柝雷は指の先が赤くうっ血するほど力を込める。
樹流徒の眼前が暗くなってきた。耳に届く敵の笑い声も段々と遠のいてゆく。
「どうだ? この俺に一生服従すると誓えば、命だけは助けてやってもいいぞ」
柝雷は薄い笑みを浮かべた。
樹流徒は答えない。いや、言葉を発しようとしてもできない。
「まあ、それは冗談だけどな。テメエは八鬼である俺の体に傷をつけたんだ。今さらどんな命乞いをしても絶対に許さねえ」
巨人の口調が表情に比例して狂気を帯びる。
樹流徒の頭がぼんやりして、苦しさが心地よさに変わり始めた。人間の脳は死に直面したときドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質を大量に出して強烈な快楽を覚えるという。樹流徒は今まさに死の入口に立っていた。これも通常の人間であれば既に死んでいるも同然の状態だろうが、魔人の脳はまだかろうじて意識を繋ぎ止めていた。
もう虫の息となった樹流徒に対し、第三の手が握力を強めて更なる苦しみを与える。
「しぶとい野郎だ。早く楽になってしまえばいいものを」
柝雷は狂気と余裕の笑みの中に僅かな苛立ちを覗かせる。
ミシミシと妙な音が鳴った。樹流徒の骨が軋む音だろうか。巨人はそのような音など気にも留めない様子で三本全ての手に更なる圧を加える。パキッと何かが折れた。
不意に自身から漏れた小さな音によって樹流徒は多少意識を持ち直す。ただ正確には、今の妙な音は彼の体内から発せられたものではなかった。それは樹流徒のズボンのポケットから聞こえてきたものだった。
音の正体は携帯電話だった。樹流徒の物ではない、詩織の所有物だ。渚がカラスに命じて回収させ、樹流徒が預かっていた。それが今第三の手の握力に負けて圧壊したのである。
微かに聞こえた音の正体に気付いたとき、樹流徒の脳裏に詩織の顔が浮かんだ。最後の別れ際、彼女が「さようなら」といった時の少しだけ悲しそうな表情が記憶となって蘇る。
諦めと共に半分まで閉じられた樹流徒の瞼が静かに持ち上がった。こんな場所では死ねない。彼女を助けるまでは。魔都生誕に関する秘密を全て暴くという本来の目的も、ベルゼブブを討伐して皆の仇をとることも、まだ全て道半ばだ。死ぬなら全てを終えてから。
樹流徒は悪魔の力を引き出す。砂原と戦ったときは夜子の術に半ば感情を操られていた状態だったから、樹流徒が自らの意思で悪魔の力を解放するのは、ある意味今回が初めてである。
魔人の全身に走る複数のラインが一定のリズムでゆっくりと明滅する。それだけではない。樹流徒の体に微妙な変化が起こった。犬歯の形状が鋭さを増し、傷口に浮かんでいた赤い血が微かに変色して紫色に近付く。
樹流徒の視界がゆっくりと回復していった。快楽に溺れていた脳が酸素を供給され、再び苦痛を訴え始める。魔人の腕に力がこもった。第三の手を開いてゆく。
柝雷の顔色が変わった。樹流徒の首に回した手に更なる力が込められる。樹流徒の視界に再び影が差し始める。魔人の力を以ってしても脱出は叶わないのか、それとも……
樹流徒の脱出が先か、柝雷が相手を絞め殺すのが先か。力と力の勝負の末、その際どい攻防に決着をつけたのは、樹流徒にとってはまるで予期していなかった展開だった。
突如、柝雷の全身から力が抜ける。それも急激に。
柝雷は樹流徒の体を雑に投げ捨てると、両手で口元を押さえて激しく咳き込んだ。指の隙間から真っ赤な液体が大量にあふれ出す。
「おのれ! こんなときに」
忌々しげに吐き出した声はかすれていた。
恐らく柝雷は現世の空気に侵されのだろう。柝雷ら八鬼にとって現世の空気は猛毒。それが今、彼の体を蝕んだのだ。
その事実を知らない樹流徒だが、何やら好機が舞い込んだらしいことだけは理解できた。彼は急激に息を吸い込むと、軽い眩暈を覚えたが意識をしっかりと保った。そして立ち上がり、悪魔の爪を構える。
「クソッ。こうなったら仕方ねえ」
柝雷は指先の爪を揃えて立てると、自らの腹に深々と突き刺した。
傷口から血が滲む。それにより土気色の肌が一気に黒ずんだ。柝雷は己の体を傷つけることで、自ら肉体を強化したのだ。
「言っただろ……。奥の手は……ひとつとは……限らねえんだよ」
柝雷は激しく息切れをしながら、途切れ途切れに喋る。
樹流徒は静かに相手を見据えた。柝雷を倒すにはもっと犠牲を払わなければいけない。もっと何かを失わなければ勝てない。
彼は再び悪魔の力を引き出す。その影響で己の体が一層人間から離れてゆくことは本来耐え難い恐怖であり、不安でもあったが、しかしやらなければいけない。自らを犠牲にして助けてくれた詩織のことを考えると、自分だけが怖いだとか不安だなどとは言っていられなかった。
魔人の四肢の先端に伸びる黒い爪がより鋭利に尖る。赤い瞳の中で細い黄金の線が輪を描いた。
その変貌を目の当たりにして、柝雷は嫌な予感或いは恐怖を覚えたのか、後退する。たった一歩とはいえ、この戦いで初めて巨人が自ら後ろへ下がった。
樹流徒は走り出す。自分でも信じられないくらいの素早さで敵との間合いを潰した。脚だけでなく全身の力が暴れる。今にも体内に収まりきらず爆発しそうだった。
柝雷は二本の腕でガードを固め、腹から伸びた第三の手を突き出す。それは目にも止まらぬ速さで繰り出された攻撃だったが、樹流徒はそれを上回る速さで敵の手をすり抜けた。
魔人の爪が敵の喉めがけて突き上げられる。その先には巨人の分厚い腕があった。が、構わず突き刺す。爪は柝雷の防御を貫通し、さらに狙っていた場所をも容易に貫いた。
樹流徒の顔に真紅の返り血が飛び散る。
柝雷がにやりとした。彼が己の意思で動いたのは多分それが最後だった。
樹流徒は爪を戻して小さく後ろへ飛ぶ。深い傷を負った巨人の体は一気に漆黒まで染まったが、直後には全ての力を失ったように土気色に戻った。巨岩の如き体が膝から崩れ落ち、大地に横たわる。
八鬼の肉体が溶けてゆく。ネビトと同じように泥のような物質となって、土の中に染み込む。
その様子を見つめながら、樹流徒はポケット越しに粉々に砕けた携帯電話を触った。
「伊佐木さん……。また君に助けられた」
つぶやいて、漆黒の羽を広げた。
戦いはまだ終わっていない。天使の儀式を阻止すべく、樹流徒は戦場の空へと飛び立った。