悪趣味な剣
空に浮かぶ数体の天使が、どこか訝しむような視線を遠くへ投げている。彼らが見つめる先には二つの影があった。片方は異形の羽を持った人間の影。もう片方は岩の塊みたくごつごつした体を持った巨人の影……。樹流徒と柝雷の両名だった。
つい先ほどまで圧倒的な戦闘力で天使の軍に驚異を与えていたはずの二人が、今は互いに睨み合って一触即発の雰囲気を漂わせている。
果たして彼らの間で何が起こったのか、きっと天使たちは状況が飲み込めていない。一刻を争うこの時にどうして味方同士で険悪になっているのか不可解に思っているはずである。それは当事者の樹流徒ですら同じだった。
樹流徒は柝雷に問う。
「僕たちが戦っている間に儀式が完了してしまったらどうする気だ?」
「心配せずともオマエを殺すのに大して時間はかからん」
柝雷は豪快に笑った。
「それにイザとなればこの俺が天使どもの儀式なぞあっという間に止めてくれるわ。俺に不可能なことなんて無ェんだよ」
このやりとりだけで、樹流徒が説得の無意味さを悟るには十分だった。
樹流徒は身構える。戦いが避けられないならば、これ以上話している時間が惜しい。
「ほれ、さっさとかかって来い」
柝雷は厚い胸板をどんと叩く。それが勝負開始の合図となった。
樹流徒は魔法陣を展開して火炎砲を放つ。魔界から召喚された巨大な炎の塊が周囲の空間を照らしながら標的を狙った。
対する柝雷は特に驚いた風でもなく、戦いの幕開けに顔を綻ばせる。彼は宙から弾き出された。まるでそこに壁や床でもあるかのように虚空を蹴り、反動で横へ飛んだのだ。
余裕を持って火炎砲をかわした巨人はもう一度足の裏で宙を蹴りつけて、今度は樹流徒めがけ突進する。体躯の大きさからは想像できないほど高い敏捷性だった。空中に限定すれば柝雷の機動力は樹流徒を上回っているかも知れない。
樹流徒は即座に羽の動きを止めて真下へ落下を始めた。相手の直線的な突進を回避しようと試みる。
が、それは柝雷に対して余り意味がなかった。巨人はまたも空気を蹴って急な方向転換にも対応する。しかも突進の勢いは衰えるどころか逆に増した。
柝雷は、落下している樹流徒の元へあっという間に追いつく。突進の勢いそのまま樹流徒のほぼ真上から足の裏を突き出した。
樹流徒は相手を十分に引き付けてからさっと後方へ下がり、寸でのところで攻撃を回避する。そのまま垂直上昇して相手とすれ違った。柝雷はすぐに空気を蹴って体を跳ね上げ標的を追跡する。
その動きを樹流徒は先読みしていた。彼はくるりと半円を描いて頭から落下すると、再び柝雷と交差する。両者の位置が目まぐるしく入れ替わった。この時、樹流徒は相手から逃れるだけでなく反撃を狙う。すれ違いざま悪魔の爪で巨人の腕に一撃を見舞った。指先に確かな手ごたえが伝わった。
うぬっと声を上げて宙に静止した柝雷は、血走った瞳で樹流徒の背中を睨む。巨人の右腕に四本の赤い線がじわりと浮かび上がった。
樹流徒は敵と交差した勢いのまま落下を続ける。最初の攻防こそ柝雷を出し抜くことができたが、同じような小細工は二度と通用しない。空中戦を続ければいずれ不利になる。そう踏んだ彼は、戦いの場を地上へ移そうと判断したのだ。
「いいだろう。俺も陸戦の方が得意だってことを教えてやる」
巨人は誘いに乗ってすぐに樹流徒の後を追った。
樹流徒が着地して、間もなく柝雷も同じ地平に立つ。両者が対峙した場所は公園の入口付近だった。そこは開戦当時にネビトと天使が衝突した位置だが、今は根の国の軍の後方となっている。悪魔の出現により天使が守勢に回り、その間にネビトが一気に前進したためだ。無人と化したこの場所ならばまず第三者の横槍は入らないし、流れ弾もほとんど飛んでこない。
もっとも、樹流徒と柝雷がたとえどこで戦おうと、それを邪魔する者はいないだろう。天使からしてみれば厄介な敵同士が潰し合おうとしているのだ。そんな都合の良い展開にわざわざ水を差す理由が、彼らには無いはずである。
戦いのフィールドを地上に移した二人は、互いに交わす言葉も無く衝突を再開する。
今度は柝雷が先に仕掛けた。地面を蹴って獲物へ飛び掛る。
迎え撃つ樹流徒は口から青い炎の球体を三連射で放った。巨人はおっと声を発しながら身軽な跳躍でかわす。炎の玉を飛び越えた巨体は樹流徒のすぐ頭上まで迫り、空中で豪腕を振り下ろした。
樹流徒は素早く後ろに跳ぶ。柝雷の拳は樹流徒の代わりに空気を切り裂き、勢い余って地面を殴りつけた。衝撃で芝生の下に隠れた土が吹き飛ぶ。恐ろしい威力だった。それだけの衝撃を受けながら無傷でいられる巨人の拳も恐ろしく頑丈である。
それでも樹流徒は臆さず立ち向かってゆく。柝雷に対して真正面から突っ込んだ。
巨人は回し蹴りを繰り出して樹流徒を迎撃する。樹流徒の目には巨木の幹が凄まじい勢いで飛んできたように見えた。
樹流徒は跳躍して上へ逃れる。柝雷の蹴りが空振りした時には宙でくるりと後方へ回転した。前方へ疾走しながらバック宙を繰り出したのである。更には回転の勢いを利用して空中で蹴りを放つ。電光石火の早技だった。
この高速かつ変則的な動きに、柝雷はついてこられなかった。樹流徒の足から伸びた爪が敵の肩を突き刺す。樹流徒の本当の狙いは相手の喉だったが、不安定な体制からの一撃だったため攻撃が逸れてしまった。
ただ、樹流徒は攻撃の狙いが外れたことよりも、足先に伝わってきた謎の違和感に意識を奪われた。攻撃を当てた瞬間、柝雷の皮膚が硬いように感じたのだ。
それは恐らく気のせいなどではなかった。樹流徒は相手の体を貫通するつもりで思い切り攻撃を放ったのだが、柝雷の肩に開いた傷の深さはせいぜい小指の長さ程度にしか達していない。
柝雷は少し仰け反ったが即座に反攻へ転じる。樹流徒が着地する前に、左フックを繰り出した。樹流徒は咄嗟に腕でガードしたが、巨人の硬い拳は彼の腕を押し潰し、脇腹にまで衝撃を伝えた。
樹流徒は派手に吹き飛ぶ。芝生の上を転がって、何メートルも進んだところでようやく止まった。
追い討ち攻撃を食らう前に素早く立ち上がる。腕とわき腹の両方に鈍痛を覚えたが、骨に異常は無さそうだった。
柝雷は大股でのしのしと芝草を踏みしめ、ゆっくりと獲物に接近する。
樹流徒はその場で身構えた。が、不意に新たな違和感を覚える。気のせいか、柝雷の外見的な雰囲気が変わっているように見える。具体的にどう変化したのかは分からないが、どことなく全身の重みが増したような印象を受けた。
柝雷は地面を蹴って飛び出し、瞬時に樹流徒との間合いを消す。すかさず二本の腕をぬっと伸ばした。相手を捕えようとしたのだろう。
樹流徒は姿勢を低くして横っ飛びをし、自ら芝生の上を転がって巨人の腕から逃れた。その後を追って柝雷が飛翔する。樹流徒は思い切り空気を吸い込むと、石化の息を吹いて敵を迎撃した。大量の白煙が壁となって両者の間を隔てる。
柝雷は構わず突っ込んだ。腕を引いて力を溜めながら、白煙の中へ飛び込む。そこから抜け出すと同時に拳を突き出した。
しかしそこにはもう誰もいない。樹流徒は、柝雷が煙の中に突っ込んだ瞬間を狙って後方へ跳ねていた。彼が石化の息を放ったのは相手の突進を止めるためだけではなく、自身の姿を隠すためでもあった。
柝雷の拳が虚しく空を切った時には樹流徒の両手に魔法陣が完成する二つの六芒星から放たれた火炎砲が柝雷の胸と腹に連続で直撃した。炎の塊が弾けて爆煙を巻き起こす。大きな火種が至る方向へ飛び散った。
柝雷は不快そうに顔を歪める。樹流徒の攻撃が多少なりとも効いたのだろうか。しかしトドメの一撃にはならなかった。石化攻撃も効果が無かったらしく、巨人の腰に巻かれた動物の毛皮だけがカチコチに固まっている。樹流徒は冷静な仮面の下で厳しい表情をした。
真っ赤に燃える炎が消える。柝雷の上半身から立ち上る煙が風に乗って流れてゆく。
樹流徒は目付きを鋭くさせた。煙の下から現れた柝雷の体を見て、先ほどからずっと相手に対して感じていた違和感の正体に気付いたのだ。
柝雷の体が変色している。最初は土気色をしていたはずの肌が、黒ずんた色に変わっていた。火炎砲を受けて皮膚が焼け爛れたのではない。良く見れば顔や足など、攻撃を受けていない部分も含めて全身が変色している。
この現象が一体何を意味しているのか、樹流徒には分からない。ただ、十分警戒する必要がありそうだった。
「遠くからチクチクと鬱陶しい攻撃しやがって」
べっと音を鳴らして柝雷は芝生に痰を吐き捨てる。
「そっちがそのつもりなら、俺にも考えがある」
続いて何を思ったか、大口を開けてその中に自分の手を突っ込んだ。
樹流徒は相手の動きを見極めようと見に回る。
ほとんど間をおかず、柝雷は喉の奥にまで押し込んだ手を外へ出した。
樹流徒は一驚を喫する。巨人の口内から、唾液にまみれた手と一緒に謎の物体が飛び出したのだ。
それは武器だった。人間の体ほどあろうかという巨大な剣である。刃先は刀みたく綺麗な曲線を描いているが、刀身の真ん中が鋸のようにギザギザしており、反対の刃はフックのように出っ張っていた。柄の裏は針のように尖っている。奇妙な形をした剣だった。
樹流徒は相手が体内に隠し持っていた武器を注視する。柝雷はにやりとした。
「どうだ、いい武器だろう? コイツ一本で獲物に対して様々な痛みを与えられるんだ。刃のどの部分で人間のどの部位を攻撃すれば、最も苦痛を与えられるのか。その時、人間はどんな顔でどんな叫び声を上げるのか。俺はずっと前からソイツを試してみたかったんだよ」
なんて悪趣味な武器だ。樹流徒の胸に不快感が広がった。
柝雷は数歩前に出ると、素早く背中を丸めて地を這うような姿勢になる。そして片手で軽々と操る巨大な剣を地面スレスレで横になぎ払った。剣先は到底樹流徒の元まで届かないかと思われたが、めいっぱい伸ばされた巨人の腕の長さもあって、樹流徒が思っていたよりもずっと遠くまで攻撃範囲を広げる。銀色の刃が芝草の首を跳ね飛ばしながら樹流徒の足首を刈ろうとした。
樹流徒は真上に跳躍して攻撃を回避する。ついでに空中で魔法陣を展開し、電撃を放った。巨人の全身に青い電流が走る。
しかし柝雷には全く効果が無かった。横に振り払われた剣は一度ぴたりと止まったが、すぐに引き返す。今度は上昇しながら、まるでメトロノームの針みたく反対方向へ振り払われた。
着地した樹流徒はすぐさま側宙を繰り出して、浮上しながら迫り来る刃を再び飛び越える。そのまま反撃に移った。咄嗟に空中で羽を出すと、全力で空気を弾いて前方への推進力を得る。今度は着地することなく柝雷に突っ込んで、強烈な蹴りを見舞った。柝雷がうおっと声を発したときにはもう、足の先に輝く爪が標的の額を捉えていた。
が、樹流徒の足に伝わってきたものは、敵の肉体を貫いた感触ではなく、まるで金属を蹴ったかのような硬い衝撃だった。見れば、悪魔の爪は柝雷の肌にかすり傷程度の傷しか付けていない。驚くのはそれだけではなかった。柝雷の肌がまたも変色し、真っ黒に染まっている。
まさか。樹流徒は心の中で呟いた。巨人の体に隠された秘密が分かったかも知れない。
もしかすると柝雷は体に傷を負うたび皮膚が黒く変色するのではないだろうか。そして変色すればするほど体が硬くなる。あくまで憶測の域を出ないが、柝雷と戦い始めてから今までに起きたこと振り返ってみると、そうとしか考えられなかった。
以前、メイジが見せた変身能力のひとつと良く似ている。メイジは令司との戦いの中で、紫色の斑模様が広がった漆黒の姿に変身した。その肉体は絶対的な防御力を持ち、令司の攻撃を全て受け止めたのである。
鋼の肉体に攻撃を防がれた樹流徒は、蹴りの反動を利用して後方へ跳ね返った。そして羽で後方上空へと逃れる。
それを追って漆黒の巨体が跳躍した。柝雷は樹流徒よりも速く、そして高く宙を舞い、悪趣味な剣を頭上に掲げる。天の光を反射して妖しく光る凶刃を勢いよく振り下ろした。
樹流徒はとっさに手の爪を重ねて防御の構えを取る。が、異形の巨剣は悪魔の爪を全て破壊して、鋸みたくキザキザに尖った部分を樹流徒の肩に突き刺した。
剣の勢いに押されて樹流徒は膝から墜落する。肩に強烈な痛みが走ったが、堪えて芝の上を転がった。僅かに遅れて巨人が再度振り下ろした剣が地面に突き刺さる。
樹流徒は片膝を起す。なんとか死を免れたと安堵する間もなく、新たな脅威に背筋を凍らせた。
柝雷が剣を振り下ろしたままの姿勢で、何かをしようとしている。巨岩の如き肉体が一層盛り上がり、激しく振動していた。
巨人は無言で苦しそうな顔をしている。が、樹流徒と目が合うと口元だけ笑みを浮かべた。
えもいわれぬ危機感を覚えた樹流徒は、何かが来ると動物的な直感で確信して迷わず魔法壁を展開した。
柝雷の咆哮が轟く。虹色の壁が樹流徒を囲うのが早かったか否か、巨人の全身から黒い砂が勢いよく噴出した。