黒い波
幾千の白い翼がまるで渦を巻くように動き回っている。戦場へ押し寄せてきた悪魔たちに対応すべく、天使たちが急遽陣形を立て直しているのだ。戦いの情勢が一気に変わろうとしていた。
令司との勝負を終えた樹流徒は、中央公園から数百メートル離れた上空に静止して戦況を遠望する。ひと目見て分かったのは、悪魔が乱入したことで開戦当時よりも遥かに多い異形の生物たちが暴れ狂っていることだった。
悪魔たちは根の国の軍の反対側から天使を攻めている。つまり、天使が二つの勢力から挟み撃ちを受けている格好だ。きっと悪魔もメギドの火を阻止するのが目的なのだろう。彼らの参戦により、今まで優位に立っていると思われた天使たちは一転苦しい戦いを強いられそうだった。逆に儀式を止めたい樹流徒たちにとっては悪い展開ではない。良い状況とも言い切れないが……
ただ、この事態に見舞われても天使たちの動きは統率が取れている。彼らに浮き足立った様子は全くなかった。その理由は恐らく、天使たちが最初から悪魔の出現を予見していたからだろう。そもそも天使たちが中央公園に兵を配置していたのは悪魔の襲撃に備えるためだったと考えるのが自然である。天使たちにとって想定外だったのは悪魔の出現でなく、むしろネビトたちの襲撃だったのではないだろうか。
戦況の確認を済ませた樹流徒は、すぐに動き出す。根の国の陣営へ帰還することにした。それよりも先に悪魔たちに接触を試みようという考えが浮かばなかったわけではない。もし悪魔たちから話を聞き出すことができれば、彼らがベルゼブブの一味なのか、そうでないのか。参戦した目的がメギドの火を阻止するためだけなのか。他にもあるのかなど、色々な情報が手に入るかも知れなかった。加えて、もしかするとメイジも悪魔に混じって戦場に来ているかも、という期待が樹流徒にはあった。
だが、悪魔と接触している間に天使が儀式を完了させしまったら元も子もない。今は魔界の軍勢の素性や思惑を探るよりも、メギドの火を止めることを優先しなければいけなかった。それに、よくよく考えてみれば、今メイジに会えたとしても一体何を話したら良いのか分からない。
樹流徒は風を切って矢のように飛ぶ。戦場に近付くたび、彼の目には、ところ狭しと乱れ舞う無数の影が段々と輪郭を鮮明にさせながら大きくなって映った。
影の姿がいよいよはっきり見えた頃には、熱気と狂気が充満した空間に取り込まれる。
早速、一体の天使が樹流徒に向かって弓矢を射た。矢じりは弓から弾き出されたと当時に炎を上げる。火の弓だ。それは先端を赤赤と輝かせながら樹流徒の心臓を正確に狙ったが、悪魔の爪によってあえなく叩き落とされた。
樹流徒は敵に二の矢を射る暇を与えまいとして、真っ直ぐ突進した。対して天使は後方へ下がりながら弓を投げ捨て、魔法陣を出現させる。銀色に輝く六芒星の中から美しい装飾が施された剣を取り出した。天使はその剣を弓の変わりに装備して接近戦に臨もうとしたのだろう。しかし彼が剣を掴んだ時にはもう樹流徒が目と鼻の先まで迫っていた。悪魔の爪が天使の胴体を貫く。
樹流徒は素早く爪を引き抜いた。落下してゆく天使の姿を見送っている暇などない。もう次の敵が頭上前方から迫っていた。
それは銀色の長い髪を風になびかせた女性だった。背には一対の翼があり、長方形の布を幾つも巻きつけたような形状の白い服に身を包んでいる。樹流徒の記憶が間違っていなければ、この天使は確かプリンシパリティという名前(ただし個人名ではなく階級の名前だが)の天使である。
プリンシパリティは胸の前で両手の指を組んで、祈りを捧げるようなポーズを取る。その祈念に応えたのか、銀色に輝く七つの魔法陣が同時に出現して、樹流徒を包囲した。
危険を感じた樹流徒はすぐに魔法陣がない方向へ飛ぶ。彼が退避するや否や、七つの魔法陣から一斉に光の刃が伸びて樹流徒が元いた空間を串刺しにした。もし樹流徒の反応が遅れていれば、今頃彼の全身は穴だらけになっていただろう。獲物を逃した光の刃は素早く頭を引っ込めて魔法陣の奥へと消えた。
難を逃れた樹流徒はプリンシパリティに右手を向ける。更に、たった今別方向から飛来するドミニオンの存在に気付いて、咄嗟にそちらへ左手を向けた。両手を使って二つの魔法陣を順番に展開する。
プリンシパリティに向かって火炎砲が、僅かに遅れてドミニオンに向かって電撃が放たれた。
プリンシパリティは翼で空気を叩きつけて素早く上昇し、火炎砲を回避する。一方、ドミニオンは回避が間に合わず電撃を受けた。彼の体がコントロールを失って落下する。
そこへすかさず襲い掛かったのが根の国の魔女だった。醜い姿をした白髪の老女は、空中で捕らえた天使の喉に尖った歯を突き立て、同時に鋭い爪で脚を貫く。ドミニオンが体の自由を取り戻したとき、彼の体にはもう抵抗する力が残っていないようだった。
しかし天使を仕留めた魔女の命運もほぼ同時に尽きていた。遠く離れた場所にいた天使の遠距離攻撃を受けたためである。狙い済ました一撃だったのか、はたまた偶然にも命中しただけなのか、天使パワーが放った光の柱がドミニオンの体ごと魔女を飲み込んで彼らを跡形もなく消滅させた。
またその頃、樹流徒の火炎砲をかわしたプリンシパリティは、回避した先でカラスの襲撃を受けていた。根の国に生息する漆黒の鳥たちは一体の天使に対して五、六羽で襲い掛かり、大きな嘴を使って獲物の全身をついばむ。
プリンシパリティは翼を広げて宙を飛び回り、まとわり付くカラスたちを振り切ろうとする。が、カラスたちは一度狙った獲物を逃さない。全身を貫かれたプリンシパリティは間もなく絶命した。崩壊する天使の体から放たれる白銀の光が漂う中、漆黒の鳥たちは次の獲物を目指して四方八方へ散ってゆく。
かと思えば、バラバラに飛び立ったカラスの内一羽が、天使の放った炎を浴びて叫びも上げず墜落した。
いつ、どこから、誰の攻撃が飛んでくるか分からない。戦場にいる間は一瞬たりとも気が抜けなかった。それは樹流徒とて例外ではない。魔人の体がどれだけ頑強だったとしても、無敵になったわけでもなければ不死になったのでもない。人体の急所に強烈な一撃を受ければ恐らく死に繋がる。
それは樹流徒自身が誰よりも良く分かっていた。分かった上で、リスクを犯して敵陣中央に切り込んでいかなければならない。
彼は少々強引に突っ込んだ。当然の如く数体の天使に囲まれ、一斉射撃を向けられる。樹流徒は素早い動きで空中を滑り、ひっきりなしに飛んでくる攻撃から逃げた。が、思わぬ方向から飛来した槍の先端に脚を削られる。恐らく流れ弾だろう。槍に引き裂かれたズボンの下からうっすらと赤い血が滲んだ。
しかし樹流徒は軽い怪我など気にせず、決して飛行速度を落とさなかった。羽の動きを少しでも緩めれば、忽ち天使の攻撃で蜂の巣にされてしまう。傍から見れば樹流徒は敵の攻撃を簡単に回避しているようだったが、本人にしてみればかろうじてやり過ごしているだけだった。ここまでほぼ無傷でいられたのも、単に運が良かったからに過ぎない。
樹流徒は敵の集中攻撃を浴びないように絶えず動き回りながら、魔法陣を展開して反撃の炎を繰り出す。その攻撃は回避されたが、彼は素早く方向転換して別の天使へ急接近し、爪で仕留めた。
敵の激しい攻撃をかわしつつ、樹流徒は遠近の攻撃を織り交ぜて天使を一体ずつ着実に撃墜してゆく。
やがて天使たちが樹流徒との積極的な勝負を避けてジリジリと距離を開け始めた。それにより樹流徒は少しだけ戦い易くなる。天使からの集中砲火が止むことはないが、敵との距離が開いたことで雀の涙程度の余裕が生まれた。この僅かな隙が樹流徒にとっては重要だった。たったコンマ一秒の差で、彼が次に行える動作の選択肢が幾つか増える。そういう次元の戦いをいつの間にかしていた。
樹流徒は多少自由に動けるようになり、より素早く、より確実に天使たちを仕留めてゆく。攻撃は最大の防御という言葉があるが、天使たちはそれを自ら放棄したと言って良いだろう。彼らが防戦の意識を高めるほどに樹流徒の攻撃は勢いを増す。
ただ、その最中で樹流徒は恐怖のようなもの感じていた。半ば機械的に効率よく敵の命を奪っていく自らの行為に対して、ふと名状しがたい感情を覚えたのである。敢えて例えるならば嫌悪感と恐ろしさを混ぜたような、暗い気持ちだった。
一時は魔人の力に感謝した。この力があれば天使の儀式を止められる。自分の命も、他の人の命も、街も、多くのもの救えると思った。だが、その守るための力が自分の戦闘行為により恐怖の対象に変わろうとしている。魔人の力は余りにも高性能で、敵の命を簡単に奪え過ぎる。一個人が有するには過ぎた力に感じられた。
けれど、結局はこの力に頼らなければいけない。敵の命をひとつでも多く刈り取ることで、大切な命が守られる可能性が高まるという、紛れも無い現実がある。樹流徒は心の片隅にもやもやしたモノを抱えながら、引き続き殺人マシーンの如く素早く正確に天使たちの存在を消し去ってゆく。
彼は敵の攻撃を避けると、今度は正面約三十メートルの位置にいるパワーを標的に選んだ。そのパワーは手に持っていた槍を既に投擲している。よって今は丸腰だ。その上、今彼の近くには仲間がいない。傍にいた別の天使が流れ弾を食らって消滅したため、彼だけ完全に孤立してしまったのだ。言い方は悪いが、樹流徒から見れば格好の的だった。
樹流徒は標的めがけて空を疾走する。パワーは掌の前に白銀の魔法陣を描こうとしているが、間に合わない。それが完成する頃には樹流徒の爪がパワーの胴体を切り裂く……
はずだった。
ところが、爪を振りかざそうとした樹流徒の全身が突として総毛立つ。パワーの顔面に貼り付いた大きな四つの目玉が、突然真っ黒に染まったのである。さらに背後から天使たちの虚を突かれたような声が次々と聞こえ、それらはあっという間に途絶えた。
謎の巨大な影が樹流徒の背後に忍び寄る。樹流徒は死の予感を覚えた。すぐに魔法壁を張り巡らせる。
寸秒も経たぬ内に、黒い砂の波が樹流徒の周囲を全て飲み込んで通り過ぎていった。樹流徒の正面にいたパワーも砂の波に飲まれる。彼が再び姿を現した時、全身は痙攣していた。天使は翼を動かすこともできぬまま墜落してゆく。黒い砂は雨となり風に吹かれて地上に降り注ぐ。
樹流徒は背後を振り返り、攻撃が飛んできた方を睨む。
彼が視線を送った先には、一人の巨人が立っていた。髪はボサボサで、口の周りに髭を生やし、上半身は裸、腰に動物の毛皮を巻いている。野性味溢れるというより、野生の森から飛び出してきたかのような男だった。
樹流徒は己の目を疑ったが、見間違いなどではなかった。背後にいた巨人の正体は、根の国の兵にして八鬼の一人、柝雷である。立場上は樹流徒の味方だ。黒い砂を飛散させたのも彼で間違いないだろう。近辺にいたはずの天使たちは全員消滅していた。魔法壁がなければ樹流徒も同じ目に遭っていたかも知れない。
柝雷の顔は表情としては笑っているが、目の奥に宿った黒い炎は別の感情を示していた。彼は、樹流徒もろとも天使を攻撃したわけではない。最初から樹流徒だけを狙っていたのだ。攻撃を向けられた樹流徒にはそれがはっきりと分かった。
「よく俺の攻撃を防いだな。褒めてやるよ」
悪びれる様子もなく、柝雷は大きな口から真っ白な歯を剥き出しにして笑う。しかし瞳に宿った憎しみの炎も未だ剥き出しのままだった。
樹流徒は、柝雷が自分を攻撃してきた理由を敢えて尋ねようとは思わなかった。柝雷が人間もしくは樹流徒個人を気に入らないという以外に、一体どんな理由があるというのか。
故に、樹流徒は相手への質問を省略して手短に答える。
「僕と戦いたいなら、せめて天使の儀式を阻止した後にしてくれ」
すると柝雷は「ん?」と少し意外そうに目を丸くした。それからすぐに肩を揺らして笑う。
「なかなか物分りが良いじゃねェか。そうだ、俺はオマエと戦いたくて仕方がねェ」
「……」
「そして俺は我慢するのと命令されるのが大嫌いなんだ。だからオマエの指図は受けねェ。この場で始末してやる」
柝雷は両手の指を開閉する。その度に関節の骨がゴキゴキと鈍い音を立てた。