根の国を行く
渚の話が終わり、樹流徒たちは再び歩き出す。かつて根の国の入口を塞いでいた道反大神と呼ばれる巨大な岩には、ネビトが楽に通り抜けられるだけの大穴が開いている。そこを通って二人は先へ進んだ。いよいよ死者の国に足を踏み入れる。
まず樹流徒たちの前に現れたのは、石畳の長い上り坂だった。坂と言っても勾配は非常に緩やかで平地に近い。道幅はかなり広く、車道で例えるならば五車線くらいありそうだ。表面には三角形の板石が敷き詰められている。先の洞窟から流れ込む清水によって坂は水没しており、水と一緒に流されてきたと思しき魚たちの姿も何匹か見えた。
樹流徒は軽く周囲を見回す。道の両端を固める平らな岩壁は真っ直ぐにそびえ、高い位置で急なアーチを描き、繋がっていた。トンネルを縦に長くしたような構造をしている。
「ようこそ根の国へ。床が滑りやすくなってるから足元に気をつけてね」
渚はにっこり微笑むと、道案内をするために樹流徒よりも数歩前に出て歩き始めた。彼女は水を弾きながら軽快に進む。杉林の中を歩いていた時よりも足取りが軽い。ただ、気のせいだろうか、樹流徒の目には、渚がどこか無理に明るく振舞っているようにも見えた。
上り坂はずっと遠くまで続いており、辺りが薄暗いせいもあって道の果てが見えない。歩いている最中、二人は何体ものネビトとすれ違った。先刻渚が言っていたが、ネビトは夜子の命令さえ無ければ大人しいようだ。皆、樹流徒のほうを見向きもせずに過ぎ去ってゆく。
「ネビトたちは“現世で暴れろ”って夜子様から命令されてるんだよ。だから現世に到着した途端に豹変して乱暴になるの」
樹流徒たちが三体目のネビトとすれ違ったとき、渚が思い出したようにそう言った。
その後しばらくのあいだは口数少なく、二人は足を動かし続けた。やがて水没していた道が水面から頭を出す。そこが坂の終わりでもあった。先は完全に平坦な一本道が続いている。
「夜子がいる場所までどのくらいかかる?」
樹流徒は歩きながら、渚の背中に声を掛けた。渚も歩を止めることなく、前を向いたまま答える。
「根の国は百八階まであるからね。最下層にいる夜子様に謁見するためには、全力で走り続けても数日はかかるんじゃないかな」
「そんなに遠いのか」
「うん、でもちゃんと近道があるから安心して」
「だろうな」
樹流徒はそう答えたが、内心では幾らか安心した。
少しすると、道が大きく円形に広がり頭上の空間が不自然に開けた場所に出た。小さな広場と言って良いかも知れない。床には細い線が彫り込まれ、幾重もの同心円が美しく描かれている。天井は首を相当後ろに倒さなければ見上げることが出来ないほど高い。犬牙状の結晶らしきものが張り巡らされ、二人の真上で沢山の白い花を咲かせていた。
ただ、この場所にたどり着いた時、樹流徒の注意が真っ先に向かったのは床でも天井でもなく、壁面の一部だった。そこには岩石で作られた大きな扉がある。その横幅は樹流徒の背丈と同じくらいあり、高さはもっとあった。扉は隙間なく閉じられ、取っ手らしきものがどこにも見当たらない。
また、扉の前には四角錐を模った紫色の水晶が全部で六つ、謎の浮力によって宙に静止していた。いずれも同じ大きさで、人の顔よりも少し小さいくらいだろうか。
「あの扉が最下層までの近道だよ」
「手前にピラミッド型の水晶が浮いているけど、もしかすると扉を動かすための装置なのか?」
「うん正解。でも、あの装置は同時に罠でもある。適当に触ると大変な目に遭っちゃうよ。だから、ここは私に任せて」
二人は装置の前に立つ。間近で見ると、水晶の各面には謎の文字が一つずつ刻まれていた。円の中に縦の中心線を引いたものや、三角形の真ん中に点を書き足したものなど、描かれている文字はそれぞれ異なり、一つとして同じ形をしたものはない。魔法陣に使われている文字や、樹流徒と詩織の体に浮かび上がった謎の痣とは文字体系が違うようだ。
「『ホツマツタエ』っていう日本の古文書には“ホツマ文字”と呼ばれる四十八音の古代大和言葉が使われてるんだけど、この水晶に描かれている文字はそのホツマ文字と形状が良く似てるんだよ。何か関係があるのかも知れないね」
渚はそのような解説を加えてから、手馴れた様子で右端に浮いている水晶を回転させた。二人の正面に特定の文字が向くように角度を調整しているようだ。水晶は全部で六つあるから、恐らく六文字の合言葉を完成させれば扉が開く仕組みなのだろう。少女は右端の水晶を動かし終えると、今度は左から二番目の水晶で同じ作業を行う。装置を動かす順番も決まっているようだ。
程なくして、渚は全ての作業を終えた。二人の正面に文字列が完成する。
同時であった。全ての水晶が回転を始め、どこかでゴトッと重い物音がする。それを合図に、二人の正面で口を閉ざしていた扉が動き出した。ゴリゴリと硬い音を立てながら、中央から両側へとゆっくりと開いてゆく。
仰々しく開かれた扉の奥に現れたのは、血の如く赤黒い空間と、その中で咲く一輪の巨大な花だった。花は八枚の白い花びらを持ち、それ一枚だけでも大人が何人も寝転がれそうな大きさがある。
「じゃあ、行こうか」
渚は扉を通って、巨大な花びらの上に降り立った。樹流徒も後に続く。花びらは紙のように薄く表面は柔らかい。にもかかわらず二人の体重を支えてもびくともしなかった。
そのことに樹流徒が驚く間もなく、今度は八枚全ての花びらが内側に向かって閉じ始める。花が蕾になろうとしているようだ。
花びらはお互いに体の一部を重ね合いながら閉じた。二人の周囲から完全に光がなくなる。密閉された空間の中、花弁から漂う甘い香りが樹流徒の鼻をくすぐった。
「これから溶岩の海を潜るからね」
渚が信じられないことをさらりと言う。
「溶岩……。大丈夫なのか?」
「うん。この薄い花びらがマグマの高熱を吸収して私たちを守ってくれるよ。中の空気がちょっと蒸し暑くなるけど、それは我慢してね」
渚がそう言い終えるよりも早かっただろうか。樹流徒は巨大植物が降下を始めたのが分かった。
「この花に乗れば三分足らずで地下百七階に到着するんだよ」
「なるほど。植物のエレベーターというわけだな」
間もなく二人を包む空気が徐々に熱を帯び始めた。花の蕾がマグマの中を通過しているのだろう。
下降開始から二、三分が経過した。密室の熱気がようやく一定に保たれたばかりだったが、樹流徒は周囲の温度が急に下がり始めたのに気付く。間もなく植物の動きが停止した。
「着いたみたい」
渚の言葉と共に、花びらがゆっくり外側に開いた。途端、微かに鼻孔を突く硫黄臭の気体が立ち込める。
二人の眼前には一階で見たのと全く同じ大きな扉があった。それは、樹流徒たちを包んでいた花びらと動きを合わせるかのように、独りでに開く。扉の向こう側から冷気が吹き込んだ。
樹流徒は頭上を仰ぐ。真っ赤な空間の中に、たった今自分たちが通過してきたと思われる穴が開いていた。その空洞は高い位置にあるため、樹流徒の位置からだと十円玉程度の大きさにしか見えない。穴の奥は真っ暗で様子が分からなかった。
二人は花びらの上を渡り、扉を通り抜ける。そこには一階と変わらない光景があった。円形に広がった床と、異様に高い天井、そして扉の前で横並びになって浮かんでいる四角錐の水晶が六つ。どれも同じである。異なる点があるとすれば、上階と比べてヒトダマの数が若干減っていることくらいだろうか。それでも周囲の明るさは殆ど変わらない。
「ここが百七階。つまり、夜子様がいる最下層の真上だね」
「一体、何メートルくらい潜ったのか見当もつかないけど、本当に三分足らずで到着したな」
樹流徒は返事をしながら、遠くの景色を見渡した。
円形の広場を抜けた先は急な下り坂になっている。道幅は広く、しかも下へ降りるほど広がっているようだ。良く見れば地面は石畳ではなく、赤茶色の土が敷き詰められていた。一方、天井はほぼ水平に続いている。坂を下りればその分だけ地面と天井の距離が遠ざかるようになっていた。
二人は横並びになって坂を下ってゆく。摩蘇神社の裏手に広がる平坦な杉林とは違い、ある程度足腰に力を入れて踏ん張っていないと体のバランスを保っていられない。それくらい勾配が激しかった。走れば間違いなく転倒するだろう。転落すると言った方が正しいかもしれない。樹流徒は羽を広げて飛ぶこともできたが、ここは徒歩の渚に合わせた。
二人は滑るように坂を下る。気付けばいつの間にか頂上が見えなくなり、天井は空のように高い場所にあった。道幅も広がり続け、すでに辺りの景色は坂道ではなく山の急斜面みたくなっている。
すると、ある地点に差し掛かった時、樹流徒は前方に意外なものを見つけた。
竹林である。近くに水もなく太陽の光も届かないこのような場所に、立派な青竹が何百本も生えている。
「こんな所に竹?」
「うん。私も初めて見たときは驚いたよ」
渚は返事をしてから、前方に広がっている不思議な竹林について説明する。
「遥か遠い昔、夜子様の下から逃げ出したイザナキという神様が、この場所で角髪の爪櫛の歯を折って投げ捨てたの。そしたら櫛の歯がたちまち竹の子に変わったんだって。その竹の子が成長してあの竹林が生まれというわけ」
「イザナキがこの場所に竹の子を生やすことに何の意味があったんだ?」
「魔女たちを足止めするためだよ。魔女はイザナキを追うように夜子様から命令されてたんだけど、竹の子を引き抜いて食べることに夢中になってそれを忘れてしまったんだって」
「詳しいんだな」
「夜子様が話してくれたの。気が遠くなるくらい昔の話だって言ってたよ」
「そうなのか」
「あの竹林を抜けると山葡萄の木が生えてるの。それも元々はイザナキが身に着けていた黒い鬘だったみたい」
「鬘が葡萄の実になったのか。それも魔女を足止めするため?」
「うん。実際にイザナキは魔女たちが葡萄を拾って食べている間に逃げたみたい」
「面白い話だな」
そのようなやり取りをしながら、二人は竹林に入り、青竹の間を縫ってゆく。
途中、樹流徒は道幅が少しずつ狭くなってゆくのに気付いた。注意して見ると、確かにここから先は坂を下るほど道が先細りしていた。どうやら地下百七階の床はトランプのダイヤと似た形をしているようだ。
竹林を抜けると、渚が言っていた通り、前方には山葡萄の実が生った木々が何十本と立ち並んでいた。その木々を通り抜けると、あとは再び何も無い坂道だけが続いている。
坂を下りきると、姿を現したのは螺旋状の石段だった。段差の高さや横幅を見るからに、人間が使用するごく普通の階段だ。巨体のネビトでは降りるのが難しそうに見える。それにしても一体何段くらいあるのだろうか。下を覗いても底が見えない。
「さ。この階段を下った先に夜子様がいるよ。絶対失礼の無いようにね」
「ああ、別に彼女と戦いに来たわけじゃないからな」
渚の言葉に樹流徒は相槌を打った。
二人は螺旋階段を下り始める。戦闘でボロボロになった樹流徒の靴と、渚が履いているブーツが階段の表面を擦り、その音が石壁に反響した。
徐々に奈落へと沈んでゆく。階段はどこまで降りても同じ景色を繰り返す。樹流徒が完全に方向感覚を失うまで、それほど時間はかからなかった。
下へ下へとひたすら向かって、一体どのくらい階段を踏み続けただろうか。もうそろそろ底が見えてもいいのではないか。樹流徒がそう思い始めた、丁度その頃だった。
「あ、見えてきたよ」
という渚の声がして、2人の眼下に白い床が現れた。どうやら根の国の最下層に到着したらしい。
樹流徒たちは大地に降り立つ。目の前には美しい浜辺を連想させる白くさらさらした砂地が広がっていた。その光景は樹流徒が漠然とイメージしていた死者の国の光景とは大分違った。血の池が沸沸と泡立っていたり、針の山が連なっていたり、もっとおどろおどろしい光景が広がっているものだとばかり思っていた。
ところが実際の様子は樹流徒の想像と全く逆だった。三色に輝くヒトダマが宙を漂い、白い砂地の向こうには桃色に輝く水に満たされた湖が輝いている。どこか遠くから水の流れる音が聞こえた。湖には長い橋が架かり、それを八つの黒い鳥居が跨いでいる。死者の国らしくおどろおどろしい部分もあるが、全体的な光景は思わず息を飲むほどほど美しかった。
樹流徒たちは砂浜を踏みしめ、桃色の湖に架かった橋を渡り、黒い鳥居をくぐった。その先が根の国の果てである。最奥には異様に高い祭壇が設けられ、その中央を走る階段を上ると、玉座が設けられている。玉座にはこの国を統べる女王・黄泉津大神(夜子)が鎮座している。
それだけではない。この階層には夜子の他にも誰かの姿があった。祭壇の階段とその手前に二体の何かがいる。両者とも根の国の住人だろう。しかし、どう見てもネビトとは違った。
片方は人間とよく似た姿をしている。三十代半ばくらい男で、肌はやや土気色。精悍な顔つきをしており、口の周りと顎に真っ黒な髭を蓄えているため、それがなければもっと若く見えるだろう。額からは二本の小さな角が生えている。人間の背丈を超す巨漢で、野鹿の毛皮で作られたと思しき長い腰布を巻いていた。その下には半股引のような黒い履物を身につけている。
かたや、もう一方の者は頭から足下までを紫色の衣ですっぽりと覆い隠していた。そのため見た目の特徴は不明である。唯一分かることといえば、背の高さが百六十センチ前後ということくらい。
毛皮の腰布を巻いた巨人は階段の低い位置に腰を下ろし、大股を広げている。一方、紫色の衣に包まれた者は階段のすぐ手前で静かに佇んでいた。
樹流徒たちは彼らの眼前まで歩き、夜子がまっすぐ見下ろす位置で立ち止まった。