聖界の貴公子
詩織の喉元に出現した謎の痣は、樹流徒の精神状態が正常に戻った途端に七色の輝きを失い、役目を終えたかのように跡形もなく消失した。それに合わせて、樹流徒の背中でジリジリと疼いていた痛みもすっかり治まる。摩訶不思議な現象だった。展望室の中で起きた一連の出来事は、何もかもが樹流徒の理解を超えていた。
まだ夢の続きを見ているのかも知れない。先刻まで気絶していた樹流徒は、冷静になった頭でそう思った。本当に夢だったらどれだけ嬉しかっただろう。しかし、今もなお樹流徒の体内を駆け巡る魔人の力が、彼を辛い現実に引き戻す。
ふと、樹流徒の瞳に己の腕が映った。肌の色は青白さを通り越して紫色に近い。その上から真紅の光を放つ細い線が走っていた。人間の体ではなく、まるで機械人形のように見える。以前から恐れていたおぞましい事実がそこにあった。悪魔の力を解放すれば何か取り返しの付かない事が起こるのは分かっていた。根拠は無かったけれど、確信していた。その通りになってしまった。
詩織はやや足早に砂原の元へ歩み寄る。彼が生きているかどうかを確認するためだろう。
砂原は意識こそ失っているが息をしていた。それを見て、詩織は硬くなった表情を僅かに崩して静かな吐息を漏らした。
彼女の横で樹流徒は複雑な気分に襲われていた。砂原を殺してしまったのではないかという恐怖、異形となった自分の体は果たして元に戻るのかという不安、つい先ほどまで自分の心を支配していた怒りの正体は結局何だったのかという疑念。それらが頭の中で混ざり合い、渦巻いていた。指先には砂原の首を絞めた時の嫌な感触がまだはっきりと残っている。
「大丈夫?」
詩織が樹流徒に声を掛ける。それは、樹流徒の傷付いた体と心の、一体どちらを案じた言葉だったのだろうか。
「ああ……。僕は無事だ」
樹流徒は答えてから
「それより砂原さんは?」
恐る恐るねた。もし、砂原が死んでいたら、樹流徒の心は罪の意識により絶望の淵に沈んでいただろう。
そんな彼の心情を察したように、詩織はいつになく柔らかな表情で答える。
「安心して。ちゃんと息をしているから」
その言葉を聞いた瞬間、樹流徒は心がすっと軽くなるのを感じた。静かに瞳を閉じ、深い息を吐く。安堵したのと同時に全身が戦いの痛みを思い出して、僅かに表情を歪めた。
詩織は何も追及しない。樹流徒が制止を振り切って悪魔の力を解放した理由も、なぜ樹流徒が詩織の言葉に耳を貸さず危うく砂原を殺しかけたのかも。そして、魔人と化したまま元に戻らない樹流徒の姿についても。
「歩ける?」
彼女は樹流徒に手を差し伸べた。
「何とか」
樹流徒は答えて、詩織の肩を借りた。彼女にもたれかかったと言った方が正しいかも知れない。足下がおぼつかず、詩織が体を支えてくれなければ姿勢を保っていられなかった。
「相馬君。鍵を」
と、詩織。
「鍵?」
「悪魔倶楽部の鍵。タワーの中で魔界への扉を開くの。展望室の窓ガラスは全て割れてしまったから、階段を使って下の階へ移動しなければいけないけれど」
「そうか……。確かに、そうするのが良さそうだ」
特に反対する理由は無かった。樹流徒は石のように重くなった腕を必死にズボンのポケットへ伸ばす。心は未だ複雑な境地にあったが、ひとまず安全な場所へ逃れるのが先決だと考えた。
ところが、彼の指先がようやくポケットの中の鍵に辿り着いたのと同時だった。まるで機を見計らっていたかのように、新たな絶望が二人の前に顔を出す。
詩織があっと小さな声をあげた。外から三体の有翼人が飛び込んできたのである。詩織を迎えに来た聖界の使者だろうか。樹流徒たちにとっては最悪の展開だった。
展望室に着地した天使たちの先頭には、砂原と同じ三対の翼を持つ青年が立っている。外見の年齢は樹流徒たちと変わらない。背は百九十センチ弱。髪と瞳を黄金色に輝かせた美しい青年だった。白と青が入り混じった衣の上から銀色に輝く西洋風の甲冑を身につけ、右手には十字型の剣、左手には楕円形の盾を所持している。その佇まいには不思議な神々しさと威圧感があり、これまで樹流徒が出会った他の天使たちとは明らかに異質だった。
一方、その後ろに立つ残りニ体の天使は、人間でいえば二十歳前後の若い男女の姿をしていた。男の方は先頭の天使よりもやや背が高く、女の方は逆に少し低いがそれでも百七十センチ以上はあるだろう。彼らもまた黄金の髪を風に揺らしていた。ただ、身につけているものは簡素な作りの白い衣のみで、武器は所持していない。翼も六枚ではなく一対のみだった。全身から発する雰囲気からしても先頭の天使に比べれば格下なのは明白だ。
神々しい青年天使と、男女の天使。彼ら三体の天使は各々翼を折り畳む。そして人形のような無表情をぶら下げて樹流徒たちに接近した。
「僕が時間を稼ぐ。君は逃げろ」
樹流徒はかすれた声で詩織に言った。悪魔倶楽部へ通じる扉を開いている暇は無い。彼女には自力で逃げてもらう他なかった。
詩織は迫る天使たちから視線を外さず答える。
「ごめんなさい。アナタをこの場に置き去りにしろと言われても、それは無理」
彼女は一旦樹流徒から手を放して素早く屈み、足下に落ちている窓のフレームを一本拾い上げた。樹流徒が念動力で砂原の体を貫いた槍の一本である。詩織は片手で槍を握り締めて素早く立ち上がると、反対の手で樹流徒の体を支え直す。
三体の天使は顔色と歩調を変えることなく、二人のすぐ正面まで歩み寄り、そして立ち止まった。
間を置かず、六枚の羽を生やした天使が最初に口を開く。落ち着きと威厳に溢れた声で話し始める。
「私の名は“ミカエル”。ニンゲンたちよ。君たちを迎えに来た」
「ミカエル……」
元々天使や悪魔について全く詳しくない樹流徒でも、その名前にはどこか聞き覚えがあった。恐らく、現世ではかなり有名な天使なのだろう。そのような天使がわざわざ出迎えに来たともなれば、樹流徒が想像している以上に、聖界はNBW事件の被害者四人の身柄を必要としているのかも知れない。
「何故、私たちを連れてゆこうとするの?」
詩織が、ミカエルと名乗る天使に問う。
「それについては、君たちを無事に聖界へ送り届けてから話そう」
「じゃあ、これだけは教えて。私たちはいつ現世に戻って来られるの?」
少女は更に尋ねる。
「では、望み通りその質問にだけは答えよう。残念ながら君たちが現世に戻ることは二度と無い」
ミカエルはさらりと答えた。それを合図に、彼の背後に控えていた男女の天使が同時に一歩ずつ前進する。
「それ以上近付かないで」
詩織は手にした槍を持ち上げる。少女の腕力ではそれだけで精一杯だろう。先端を尖らせた窓のフレームは、指し示す方向が定まらず上下左右に細かく揺れる。
「勇ましい少女だ。しかし無駄な抵抗はやめた方が良い。そのような玩具では我々の体に傷一つ付けられない。下手をすれば逆に君の手が怪我を負うだけだ」
と、ミカエル。男女の天使は少女の警告を無視してまた一歩前進する。
「相馬君。まだ歩ける?」
詩織は樹流徒の耳元で囁いて尋ねた。
「ああ」
樹流徒はそれだけ答えて小さく頷いた。
詩織は頷き返すと、武器を捨てて、樹流徒の体を引きずるように引っ張って窓際へ歩いてゆく。
「何をする気だ?」
男の天使が尋ねた。樹流徒も同じ疑問を持った。詩織が何をするつもりなのか分からなかった。
少女は質問に答えず歩き続ける。窓際に到着すると立ち止まった。既にガラスを失っている窓から強い風が吹き込んでいる。
「まさか、そこから飛び降りて逃げるつもりではないだろうな?」
男の天使が初めて表情を見せる。「そんなことをしても無意味だ」と言いたげな、余裕を持った微笑だった。
詩織は再び天使の問いを無視し、樹流徒に尋ねる。
「空を飛ぶ力は残っている?」
「難しい。君を抱えて飛び出せば、多分ニ人とも墜落してしまう」
「アナタ一人だったら飛べるの?」
「無意味な質問だ。僕一人で飛び出してもしょうがない」
「いいから答えて」
「多分……大丈夫だ」
「信じていいのね?」
「ああ」
「そう。分かったわ。それで十分よ」
その詩織の言葉に、樹流徒はぎくりとした。彼女が何をしようとしているのか、気付いたからである。
だが、気付いたところで既に遅かった。詩織はもう樹流徒の体を窓から突き落としていた。
――さようなら。
少女の唇がそう動いたように見えた。
「伊佐木さん!」
樹流徒は叫ぶ。体はもう落下を始めていた。詩織が駆け出す姿が見えた気がした。タワー内の階段を使って逃げようというのか。だが、天使たちから逃げられるはずが無い。彼女もそんなことは分かっているだろう。多分、少女は自分を囮にして天使たちを引き付けようとしているのだ。
樹流徒は羽を広げた。すぐに引き返して彼女を助けに行こうとした。でも体が上手く動かない。苛立ちを覚えるほど、全身の骨と筋肉が言う事を聞いてくれなかった。これでは詩織を救出しに向かうどころではない。自身の落下速度をどれだけ軽減できるだろうかという話になってきた。
樹流徒は緩やかに羽を動かす。その度に両肩と胸の辺りが痛んだ。傍から見れば大きな鳥が悠々と羽ばたいているようにも見えるだろう。だが実際は空中で必死にもがいているのであった。
それでも段々と樹流徒の落下速度は低減し、彼が最終的に降り立った地点は、タワーから大分離れた十階建てビルの屋上だった。降り立つというよりは、体の側面を床に叩き付けられる不格好な着地だった。ほぼ墜落である。
着陸したあと、樹流徒は床を激しく転がった。近くには屋上の扉が設置されている壁がある。そこにぶつかって、跳ね返り、ようやく止まった。
着地と停止の衝撃が、樹流徒に残された僅かな力を根こそぎ奪い取ってゆく。意識こそ繋ぎ止めていられるが、身動きは取れない。樹流徒は観念して瞼を閉じた。
その頃、タワーの真下では、渡会が数体の天使に取り囲まれ、必死の形相で戦闘を行っていた。彼は、樹流徒と砂原が戦っている間に一体どれだけの天使を相手にしたのか、全身は傷にまみれ、こめかみの辺りから血が滴り落ちていた。服もボロボロだ。銃の弾は既に尽きたらしく、現在は怪力と周囲に落ちている物を利用して何とか耐え凌いでいる様子である。とてもではないが詩織を救出しに向かえそうな状況ではなかった。
そして……。樹流徒がタワーから脱出して何分くらいが経過しただろうか。彼はいつの間にか再び眠りに落ちていた。樹流徒の本能が、全身の傷を一刻も早く癒すべく体を睡眠状態に誘ったのかも知れない。今度は夢を見ることもなく泥のように眠り続ける。周囲には誰もいない。遠くから複数の戦闘音が聞こえるのみだった。
そんな状況に変化が起こったのは、床に横たわる樹流徒の全身を冷たい強風が襲うのも次で三度目という頃。
ギィと蝶番が鳴いて、屋上の鉄扉がゆっくりと開く。建物の中から人影がそっと姿を現した。
それは一人の少女だった。派手な着物を羽織った、明るい髪色の少女である。手には日本刀と思しき武器を携えていた。その刀は朱色と黄金色の豪華な装飾に彩られた鞘に納まっており、少女が身につけている服すらかすみそうなくらい目立っている。
派手な格好と、それよりも目立つ武器に身を固めた少女は、仙道渚に違いなかった。樹流徒を救出するためにここへやってきたのだろう。千里眼により市内の状況を全て見通すことができる彼女ならば、樹流徒の現在位置が分かったとしても不思議ではない。
「これ本当に相馬君なんだよね? まるで悪魔みたい」
渚は足下に倒れている樹流徒の姿をまじまじと眺めている。
「でも、相馬君には悪いけど、仲間ができたみたいでちょっと嬉しいかな。陰人の改造実験を受けた私としては親近感を覚えるっていうか……」
そこまで言って、視線をさっと頭上へ向けた。
彼女の視線が辿る先には、ニ体の天使がいた。タワーに現れた男女の天使である。樹流徒を探し追いかけてきたのだろう。彼らは凄まじい速さで風を切っていたが、樹流徒たちの真上で急停止する。そしてゆっくりとビルの屋上に舞い降りた。もう一体の天使、ミカエルの姿はない。
男女の天使は隣り合って立ち、渚の姿を確認すると互いに横目を使って視線を交わす。
「や。君たちが来るのを待ってたよ。思ってたより早かったね」
渚が不敵な笑みで天使たちに語りかける。
「待っていた? アナタは誰です? ニンゲンなのですか?」
女の天使が、少女の素性を尋ねる。
「私は渚。元・人間だよ」
「元?」
「そう。今は陰人やってます。ヨロシクね」
「カゲビト? 何を言っているのか理解できぬ……。それより、我々を待っていたと言ったな。まるで我々がここに来ることを予め分かっていたかのようだが?」
男の天使が問う。
「まるでっていうか、実際そうだし」
渚は返答すると刀の柄に手を伸ばす。交戦の意思を見せた。
一方、天使たちは慌てもしなければ身構えもしない。
「アナタは、そこに倒れている人間の仲間なのですか?」
女の天使が淡々と次の質問を行う。
「違うよ。相馬君はまだ仲間じゃない。この後すぐ私たちの仲間になって貰うけどさ」
言い終えたと同時に、渚は鞘から刀を抜いた。
その刀は新刀の如き美しい輝きを放っていた。どうやら普通の刀ではないようだ。刃は空気に触れるとすぐにチリチリと音を立て、夕陽の色に染まった炎を揺らめかせる。
「この刀、天叢雲剣っていうんだ。源平合戦の時に下関の海底に沈んじゃったんだけど、夜子様が現世で暮らしていた時に回収して修復したんだって。この刀なら君たち天使相手にも通用するんじゃないかなあ」
少女は誰に頼まれるでもなく刀の解説をしてから、炎に照らされた顔をより不敵な形に変える。
「もしや、この少女も聖界へ連れてゆくべき者なのでは?」
女の天使がはたと気付いたように言う。
「有り得る話だ。仮にそうだとすれば、何と都合の良いことか。ミカエル様もお喜びになるだろう」
男の天使は首肯した。
「ナギサと言ったな? そこに倒れている人間共々、大人しく我々と同行して頂こう」
天使たちが渚に接近する。
渚は無言で笑った。