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悪魔倶楽部  作者: ぴらみっど
激動編
152/359

魔人



 闇、闇、闇……。

 まるで宇宙から全ての光が失われたかのように果てしなく続く暗黒の空間を、樹流徒の意識は漂っていた。


 そこは、気を失った樹流徒が見ている夢の世界に違いなかった。ただ、夢という言葉が持つ響きには似つかわしくない、とても味気ない、それどころか塵一つすら見当たらない、天地や方角すらも存在しない、完全なる無の世界だった。


 大半の人間が夢の中にいることを自覚できないように、樹流徒もまた自身が夢の住人となっていることに気付いていない。彼の精神は闇と静寂に包まれて、ほのかな孤独を感じる反面、大きな安堵を覚えていた。もしかすると胎内に守られている赤子はこのような心地なのかも知れない。このまましばらくの間、黒い海をたゆたうのも良いだろう。そんな気分に浸っていた。


 時の流れを感じることもできぬまま、どのくらい前に進んだだろうか。或いはずっと同じ場所に静止していたのかも知れない。孤独感と安堵が段々と希薄になって、樹流徒の心までが闇と同化しようとしていた頃だった。


 突として、空間の果てに赤い光が輝く。ずっと遠くに見える恒星の如きその光は、ともすれば今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。が、それは急速に数を増やし、闇の胎内に幾百の明かりを灯す。良く見れば、赤い光に混じって金色の光もいつくか浮かんでいた。

 綺麗だけど、おどろおどろしくて、どこか悲しい輝きを持つ光の粒だった。魔魂だろうか。夢の中の樹流徒はそんな風に思って、それ以上は特に意に介さなかった。


 しかし、闇の中に現れた赤い銀河の正体は、魔魂ではなかった。光の粒が段々と樹流徒に近づいて大きくなり、形を鮮明にさせる。


 それは瞳だった。異形の群れが目という目から怪しい輝きを放ち、樹流徒を見つめていたのである。

 マモンがいる。バフォメットとマルコシアスも……。ビフロンス、ベヒモス、レビヤタン、フラウロス、レオナール、アンドロアルフュス、オセ、ブエル、チョルト、デウムス、ラミア、エウリノーム、ガーゴイル、インキュバス……これまで樹流徒に魂を吸収された悪魔たちが並んでいる。彼らは闇の背景に朦朧(もうろう)たる全身の輪郭を浮かべていた。そして怒りの形相を浮かべるでもなく、吼えるでもなく、ただじっと樹流徒を見つめている。


 夢の中の樹流徒は、彼らに向かって何と言ったら良いか分からなかった。いや、仮に現実世界で同じことが起こったとしても、同じだっただろう。きっと言葉が出なかった。命を奪った悪魔たちに対して、一体何を言えば良いのか。樹流徒はただ黙して、異形の群れと見詰め合うしかない。


 ふと、瞳の一つが形を変えて笑った気がした。

 悪魔の群れが真ん中からゆっくりと割れ、樹流徒に道を開ける。その先に両開きの扉が現れた。髑髏(どくろ)や、コウモリの羽などの禍々しい装飾が施された、赤い扉だ。大きさは樹流徒の数倍ある。その巨大な扉は閉じられた状態で、誰かの来訪を心待ちにしているようだった。


 樹流徒は扉に呼ばれているような気がして、動き出した。両脇に並ぶ異形の群れに見守られながら道を進み、扉の前に立つ。取っ手を掴むと、言いようの無い強い不安を覚えたが、それでも静かに腕を引いた。

 音もなく扉が開く。その向こうには一面虹色の世界が広がっていた。眩暈(めまい)を起こしそうな虹の闇である。

 樹流徒は何も考えず、眼前の世界に誘われるように、扉の向こう側へと進む。背後から悪魔たちの笑い声が聞こえたような気がした。


 樹流徒が目を覚ましたのは直後だった。気付けば、彼は砂原の肩に担がれていた。

「ここは?」

「お。目が覚めたようだな」

「砂原さん……?」

 樹流徒は横目で男の顔を見上げてぼんやりしていたが、すぐに状況を察した。たった今まで夢を見ていたのだと気付く。これまでの経緯を思い出して、意気消沈した。

「そうか。僕は、アナタに負けて気絶していたんですね」

 樹流徒が言うと、砂原は「うむ」と頷いた。

「記憶がはっきりしているようで良かった。実は、これから君をどこか別の場所へ移そうとしていたところだったんだ」

「僕を、別の場所へ?」

 砂原の言っていることの意味が樹流徒には良く分からなかった。しかし

「イサキ君は自らの意思で聖界へ行くと決めた。その代わりに相馬君をこの場から逃がすという約束を俺と交わした。だから、聖界の使者が現れる前に、君の体をどこかに運んで隠そうとしていたのだ」

 と砂原から詳しい説明を聞いて、全てを理解した。


「砂原さん。お願いがあります。伊佐木さんの代わりに僕を聖界へ連れて行って下さい」

 樹流徒はかすれた声で乞う。

「いや、申し訳ないが君では駄目だ。俺の役目はイサキ君を聖界の使者に引き渡すことだからな。故に、俺は彼女の交渉に応じざるを得なかったのだし……」

「なら、僕も彼女と一緒に聖界へ行きます」

「それも不可能だ。君を無理矢理にでも逃がすよう、イサキ君に頼まれている。君が眠っている間にな」

「……」

 樹流徒は詩織の顔を見た。己を犠牲にしてまで助けてくれた彼女に対して礼を言うべきか、それ以外の言葉をかけるべきか、迷った。

 すると、少女は樹流徒の視線から逃れるように両目を閉じる。「もう覚悟は決まっている」と主張しているように見えた。


「悔しいだろうが、諦めてくれ。敗者は勝者の言うことに大人しく従うものだ。どの道、君に抵抗する力など残っていないだろうがな」

 砂原がなだめるように言う。

 樹流徒は反論できなかった。彼が気絶していた時間は多分十分と経っていない。そのような短時間では体内に蓄積されたダメージは殆ど抜けなかった。樹流徒の体は再戦可能な状態とは程遠い。砂原の言う通り、抵抗する力など残っていないし、例え抵抗したとしても、勝ち目など万に一つも無かった。


 樹流徒は、砂原と肩を組んだまま窓に歩み寄る。男が背中から六枚の翼を広げた。窓に開いた穴から外へ飛び出そうというのだろう。樹流徒は黙ってそれに従うしかない。心は悔しさと無力感で打ちのめされそうだった。すぐ傍に詩織がいるのに、彼女を置いて展望室から去らなければいけない。屈辱にも近い感情を樹流徒は奥歯で噛み締めた。


 ところが、異変は砂原が次の一歩を踏み出した刹那に起こった。


 予想だにしない衝動が樹流徒を襲う。一体、何が起こったというのか。樹流徒は自身が驚くほどの激しい怒りを覚えた。それは何の前触れもない怒りだった。何故、これほどまでに黒い感情が急に込み上げてくるのだろうか。何に対する怒りなのすらも定かではない。正体不明の熱が沸々と頭の中を駆け巡る。よもや、それが夜子から施された術の効果だとは想像できるはずもなかった。


 この怒りは一体どこから来るのか? 樹流徒は焦りすら覚えて、感情の出所を探す。

 砂原に対する怒りなのだろうか? 天使の命令とはいえ力ずくで詩織を聖界へ連行しようとする彼に対して、憤怒しているのか? それとも、砂原に命令を下した天使に対する憤りなのか? 或いは、砂原に敗北した己の無力を呪っているのだろうか。助けようと思った詩織に逆に守られた悔しさも相まって、怒りが倍増したのか?


 どれも違う気がした。それぞれの怒りを抱えているのは事実だが、それ以上に失望感と虚脱感の方が遥かに強かった。樹流徒には最早憤るだけの精神力は残っていないはずだった。

 だが、現実には逆のことが起こっている。樹流徒は激怒していた。その理由を考えても、彼にはまるで分からない。何故、自分がこれほどまでに熱くなっているのか、その理由が……


 ただ、ひとつ言えることは、樹流徒がこの正体不明の怒りを理性で押さえつけるのは不可能ということだった。感情の波は加速度的に激しさを増してゆく。樹流徒は生まれて初めて殺意にも似た情動を覚えた。冷たくて激しい、不快感を伴う恐ろしい感情だった。それに呼応するように、別の衝動が沸き起こる。何もかもを破壊したいという欲望が、胸の内側で湯水の如く溢れてきた。それらは樹流徒の絶望や戸惑いを瞬く間に飲み込むだけの勢いを持っていた。


「窓から外へ出るぞ。それとも自分で飛べるか?」

 砂原は、肩を組んだ樹流徒の体を引っ張ろうとする。

 相手の力に抵抗して、樹流徒はその場に足を踏みとどめた。


 砂原は少し驚いたような顔をする。

「どうした? 何か、イサキ君に言い残したことでもあるのか? もし君が望むなら、彼女と話す時間を与えても良い……」

 彼が全てを言い終える前だった。


 樹流徒は砂原の腕を強引に振り払い、更に掌で相手を突き飛ばしていた。

 男は数歩後退して、身構える。

「いきなり何の真似だ?」

「もう一度、戦って下さい」

「なに?」

 砂原は怪訝そうに眉を寄せた。

「僕と、もう一度戦って下さい」

 樹流徒は繰り返し答えた。その瞳には、彼がこれまで一度も見せたことのない暗色の光が宿っていた。

 心臓の鼓動が速くなる。ふと、左肩がジリジリと熱くなるのを感じた。砂原との戦闘で負わされた傷の痛みではない。随分前にどこかで感じたことがある、焼けるような痛みだった。


「急にどうしたというのだ? さっきまでとはまるで別人だな」

 と、砂原。

 樹流徒も同意見だった。まるで自分が別人になってしまったかのような、他人の意思に己の体を半分乗っ取られたかのような、不思議な感覚だった。本来の樹流徒であれば、砂原を突き飛ばしたりはしなかったし、無謀な再戦を挑んだりもしなかった。樹流徒自身、己の行為に驚いているのである。


 潔く敗北を認めなければいけないと思っていた。それに、砂原から指摘された通り、戦いたくても力が残っていない。完全に諦めていた。

 しかし今は違う。何故だか、己を邪魔する者全てを力でねじ伏せたくて仕方がなかった。そして、それができそうな気がした。悪魔の力さえ解放すれば全ての障害を取り除けるのではないかという全能感が、樹流徒の胸の内に生まれていた。


 夜子が施した術により、樹流徒の黒い感情は尚も肥大し続ける。その怒りに抗おうとしても、抗えない。樹流徒の理性は怒りに抵抗するが、さながら噴出した溶岩に水滴を垂らすかの如く無意味な行為だった。


 加えて、樹流徒には過去の後悔がある。市民ホールで悪魔の儀式を成功させてしまったことである。多くの市民が生贄に利用され、魔法陣が作り出した奈落の底へ消えていった。もし、悪魔の力を解放していれば、あの第三の儀式は止められたかも知れない。当時の後悔が、今、樹流徒の胸に去来していた。


 また、同じことを繰り返すのか? 前回は市民の遺体を生贄に利用され、今度は伊佐木さんを見捨ててしまうのか? それでいいのか? 樹流徒の葛藤が、彼の理性を壊してゆく。


「相馬君、無理はしないで。アナタはもう戦う必要はないの」

 詩織が樹流徒を説得するも、彼の心には全く届かなかない。


 そして……樹流徒の激情はついに彼の理性を完全に振り切る。青年の心は怒りに満たされ、それ以外のありとあらゆる感情が排除された。悪魔の力を使うことへの戸惑いも、それによって己の身に何が起こるのかという恐怖も、もう欠片も残っていない。


「どうやら、相馬君は本気で俺との再戦を希望しているようだ」

 砂原は再びニ体の分身を生み出す。分裂した男は翼を広げて素早く宙を滑り、三角形を描くように樹流徒を囲んだ。


 すると、その布陣が完成しようかという時だった。樹流徒の背中に走る焼けるような痛みが強さを増す。それは実際に熱を帯びているのかも知れなかった。樹流徒の上着がじりじりと焼かれ、消し炭と化してゆく。

 彼の背後に回った砂原が、あっと驚きの声を上げた。樹流徒の背中に謎の(あざ)が浮かび上がっているのである。それは何かの文字に見えた。現世で使用されている文字ではない。謎の痣は七色に光り輝いていた。


「あの文字は?」

「この光は何だ?」

 砂原たちは声を重ね、三人とも同じように唖然とした顔をする。一方、詩織はどこか苦しそうな、不安げな表情をして、胸の前で拳を握っていた。


 樹流徒の背中に浮かんだ文字は光度を増してゆく。眩い七色の光が徐々に空間を浸食し、青年の全身を包み込んでゆく。三人の砂原は手を出さない。樹流徒に攻撃を仕掛けるべきか、それとも様子を見るべきか迷っている風だった。


 そうしている内に、七色の光は展望室の中を隅々まで埋め尽くす。詩織は瞳を閉じた。余りの眩しさに目を開けていられなかったに違いない。砂原たちもそれぞれ瞼を半分くらいまで下ろして顔をしかめる。

 光は尚も激しさを増し輝き続けた。遂には三人の砂原も腕で顔を覆い隠した。


 悲鳴にも似た硬質な音が八方から響く。展望室のガラスが次々と割れた音だった。壁や天井が崩れる音もしている。光の中で、破壊が起こっている。

 次に竜巻が吹いた。強烈な風が、床に散ったガラスやコンクリートの塊や細い鉄柱をさらって展望室の内壁に沿って螺旋を描く。徐々に舞い上がり、最後には渦の中に飲み込んだ全てを外に向かって弾き飛ばした。


 七色の光が徐々に弱まってくる。遥か上空で真紅の光が輝いた。崩落した天井から降り注ぐ光の柱が、瞬きする間もなく樹流徒を飲み込んだ。


 間もなく展望室を埋め尽くしていた虹の光は完全に消え、詩織と砂原はほとんど同時に瞳を開く。

 砂原の一人がぎょっとしたような顔をした。

 真っ赤な光の柱の中央に青年が立っている。だが、その風貌は皆が知る相馬樹流徒ではなかった。


 彼の全身は宵の空を貼り付けたかのように変色していた。その上から光り輝く極小の文字が浮かび上がって線状に並び、樹流徒の顔に、腕に、胸に、背中に、そして脚に、電気回路の導線にも似た整然としたラインを引いている。手足の爪は黒く染まり、髪は不吉な風を浴びてゆらゆらと逆立っていた。赤い唇はかすかに紫色を帯びている。


 辺り一帯を漂う大気が、まるで樹流徒の存在を恐れ怯えるように震え始める。彼に降り注ぐ光の柱が消えた。

 樹流徒は不気味に穏やかな表情をしていた。凶兆の香りを孕む風が収まり、逆立っていた髪が垂れる。彼の全身に引かれた文字の線と、両目が短く明滅し、血のような色を沈着させた。


 その生物は果たして人か、魔か。樹流徒は、その身に美しさと醜さの双方を(たた)えた神秘的な何か(・・)に変わり果てていた。





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