黄金の蛹(さなぎ)
展望室を囲う窓の一枚が粉々に砕ける。飛散するガラスの破片と共に、樹流徒が室内へ飛び込んだ。
そこから少し離れた窓際に立つ砂原は、大きな体をゆっくりと樹流徒の方へ向ける。
「仁万とベルでは君を止められなかったようだな。それにしても、よく俺たちの居場所を突き止めたものだ」
男は感心した様子だった。
砂原の後ろには詩織が立っている。彼女は特に怪我をしたり拘束されたりしている様子は無い。
「相馬君……」
少女は心なしか緊張した面持ちで樹流徒を見つめた。
樹流徒は彼女に向かって小さく頷く。それから砂原を睨み、開口一番問い詰める。
「何故、伊佐木さんを……いや、僕たちを聖界へ連れて行こうとするんです?」
「ほう。我々が君たちを聖界へ送ろうとしていることまで知っているのか」
「質問に答えて下さい」
「残念だったな。俺とて天使の命令に従っているだけで、何も知らないのだ。もっとも、仮に知っていたとしても君に答える理由は無いがな」
砂原は落ち着き払った態度で答える。ただ、瞳の奥では敵意の炎が力強く揺れていた。
「伊佐木さんを解放して貰えませんか?」
「その要求には応じられない。君こそ大人しくイサキ君と共に聖界へ行く気はないか? 聖界の地を踏めるなど、我々組織の人間ですら味わえない名誉なことだぞ。それに考えてもみたまえ。聖界の天使たちが君たちに危害を加えるとは限らないだろう。大人しく従っていれば、すぐ現世に帰って来られるかも知れない」
「無理矢理連行しておいてすぐに帰してくれるとは思えません。どちらにせよ、理由も目的も知らされないまま異世界へ連れていかれるわけにはいきませんよ」
樹流徒は反論する。
砂原はもっともだ、とでも言いたげにニ、三回小さく頷いた。
「君の考えは分かった。では、もう我々に残された道は戦いしかあるまい。君もそれを覚悟の上でここまで来たのだろう?」
男は足を前に踏み出す。樹流徒は身構えた。
避けられない一戦が始まる。先に仕掛けたのは樹流徒だった。口から火炎弾を放ち相手の反応を窺う。
砂原は無駄のない動きで真正面より飛来する炎の塊を紙一重でかわした。火炎弾は砂原の肩をかすめ、詩織の横を通り過ぎ、最後は窓にぶつかって破裂する。透明な窓に深い亀裂が走った。ひび割れたガラスに生まれた僅かな隙間から、高所を吹き抜ける冷たい風が忍び込む。
「この戦いは俺が有利だな」
と砂原。
「俺には情報の利がある。相馬君の能力については既に組織のメンバーたちから詳しい報告を受けているよ。かたや君はどうだ? 俺の能力を一切知らないはずだ。この差は大きい」
彼は言い終えると、その場で両手を広げた。
一体、何をするつもりなのか? 樹流徒は相手の動向を注視する。
すると、砂原の背中から六枚の白い翼が広がった。天使から授かった力に違いない。その翼は、身構えた樹流徒が一瞬戦いの最中である事を忘れるほどに神々しい光を放っていた。
いっぱいに広がった翼から羽毛が三枚四枚と舞って、小さな光の粒を撒きながらはらはらと揺れた。そのまま床に落ちるかと思いきや、宙で静止する。その場で鋭く回転すると、樹流徒に向かって一斉に襲い掛かった。光る羽根の弾丸だ。
樹流徒は不意を突かれたが、素早く横にステップを踏んで余裕を持って回避する。光の羽根はそれほど速くなかった。
が、羽根は緩やかな弧を描いて標的を追尾する。樹流徒は気付いて更に回避しようとしたが遅かった。羽根の一発を腕に受ける。
途端、樹流徒の全身に激痛が駆け巡った。その痛みを一体どう表現したら良いのだろうか。刃物が体内で暴れ回ったのだとしたらこのような痛みになるのかも知れない。筆舌に尽くし難い衝撃だった。余りの痛みに樹流徒は体を硬直させる。
その間にも砂原は新たな動きを見せていた。音もなく体を浮揚させ、床上一メートルくらい高さで静止する。六枚の翼をゆっくり前方に畳み始めた。まるで何かの予備動作を行っているかのようだった。
前方へ折り畳まれた六枚の翼は、砂原の全身を隅々まで包み込む。その姿はまるで蝶の蛹だった。更に、翼の表面が黄金の炎を纏う。砂原は、黄金に輝く蛹と化した。
樹流徒はようやく全身を蝕む痛みから解放される。
黄金の蛹は宙に浮いたまま体を横たえた。樹流徒は迎撃に備える。次の刹那。砂原が弾丸のように宙から弾かれた。黄金の蛹が、標的めがけて突撃する。
樹流徒は目前に迫った敵を空気弾で迎撃した。だが、砂原は、速度、軌道共に全く修正をしない。正面から空気弾とぶつかった。
黄金の蛹は攻撃をかき消して突進する。そして樹流徒の体を勢い良く跳ね飛ばした。
樹流徒の目に映る世界が反転する。彼の体は真上に吹き飛ばされ、暴風に煽られた凧のようにぐるぐると回っていた。展望室の天井近くで頂点に達し、落下運動を開始する。
驚きと、全身を襲う鈍い痛みに樹流徒は意識を奪われた。そのせいで、床に着地する寸前に体を捻って受身を取るのがやっとだった。
砂原を包んでいた六枚の翼が展開する。彼は全くの無傷だった。樹流徒が落下を開始した時には次なる攻撃の発射態勢に入る。翼から四枚の羽毛が舞い落ち、それらは先程と同じように一旦宙で静止して、回転する。最後に標的を定めて一斉に発射された。
樹流徒は着地と同時に光の羽根を受けた。再び体内に言い表しようのない激痛が走り、体が硬直する。
砂原は宙に浮き、動けなくなった相手の姿を見下ろして、またも六枚の翼を前方に折り畳んだ。樹流徒が痛みから解放されて行動可能になった時、砂原は黄金の炎に包まれた蛹の姿となっていた。
砂原の突進攻撃が青年を強襲する。
樹流徒は即座に魔法壁を張った。これならば相手の攻撃を防げる。あわよくば魔法壁と衝突した砂原にダメージを与えられるかも知れない、と考えた。
ただ、この時、樹流徒は大切なこと失念していた。砂原は組織のメンバーを介して樹流徒の能力を把握しているのである。当然、樹流徒が魔法壁を使用することも承知済みだろう。
激しい衝突が起こった。瞬きする間もなく、樹流徒は宙を舞っていた。砂原の突進が魔法壁を貫通したのである。これまで絶対的な防御力を誇っていた虹色の壁は、まるで薄い紙切れを貫くかの如く、いとも簡単に破られた。
樹流徒は、一体何が起こったのか分からなかったが、舞い上がった体が床に叩き付けられた頃には全てを理解した。彼は素早く立ち上がる。初めて魔法壁を破られたことに少なからずショックを覚えたが、呆然としている暇は無い。それよりも早く体を起こさなければ、また光の羽根を食らってしまう。
樹流徒が思った通り、砂原は六枚の翼から羽毛を放出した。光の羽根には低性能ながらも追尾機能がある。緩やかな弧を描いて迫り来る攻撃を樹流徒は全力で回避した。
が、砂原の攻撃はまだ終わっていない。男は腕を伸ばして掌の前に光の線を走らせる。銀色の六芒星を描くと、魔法陣とほぼ同色の輝きを放つ砲弾を二発連続で放った。
銀色の砲弾は、ただ直進するだけの単純な軌道の攻撃だった。しかしながら光の羽根に比べて弾速が桁違いに速い。常人離れした反射神経を持つ樹流徒ですら、初見で回避するのは不可能だった。
砲弾の片方が青年の腹に着弾する。信じ難い重みが樹流徒の体に伝わった。光の羽根が敵の体内を掻き回すような痛みを与えるのに対し、銀色の砲弾は標的の一点に強烈な衝撃を見舞う攻撃だった。
樹流徒は数歩後退り、片膝を着く。砂原はその隙に六枚の翼を広げた。そしてすぐさま光の羽根を放つ。樹流徒は羽を回避できる状態に無い。攻撃を受け、体中を駆け巡る激痛に体を震わせ、蹲った。
当然ながらは砂原はこの隙を見逃さない。宙を浮き、六枚の翼を折り畳み始めた。樹流徒が痛みから解放されて体の自由を取り戻した時、男の体は翼の中に包まれ、黄金の炎を全身に纏っていた。
黄金の蛹が三度目の突進攻撃を仕掛ける。樹流徒は漆黒の羽を広げて真上に飛んだ。迎撃も防御も無理ならば、回避するしか選択はない。
ところが、砂原の攻撃に死角は無かった。黄金の蛹は全くスピードを落とすことなく急激な方向転換をして樹流徒を追尾する。両者の体が空中で激しくぶつかり合った。樹流徒は跳ね飛ばされ、天井にぶつかり、頭から落下して地面に叩き付けられた。
対する砂原はやはり無傷である。彼は樹流徒に突進した後、低空で停止した。そしてすぐさま翼を展開して光の羽根を射出する。全く容赦のない、そして微塵の油断も感じさせない攻撃の連続だった。
樹流徒は床を転がり、寸でのところで回避する。ここで光の羽根を食らってしまったら、同じ展開の繰り返しになってしまう。何としても避けなければいけなかった。
砂原は慌てた様子もなく、掌の前に魔法陣を出現させる。銀色に輝く砲弾をニ連射した。
樹流徒は先刻この攻撃を見ている。今度は体を捻って回避に成功した。砂原は次の攻撃を放たない。ようやく樹流徒に反撃の好機が舞い込んだ。
樹流徒はすかさず地面を蹴って敵に接近する。砂原は一瞬後方へ下がろうとする挙動を見せたが、相手の機動力が一枚上と感じたか、すぐに足を止めた。
両者の間合いが縮まる。樹流徒は砂原に対して初めての近接攻撃を仕掛けた。