剥がれた仮面
「放せ。この化物め」
仁万は恐怖を押し殺したような声で叫び、全身でもがく。触手の拘束から逃れようとしているのだろうが無意味な抵抗だった。メイジの背中から生えた六本の蔓は、男の体にしっかりと巻きついている。
メイジは触手を手足の如く自由に操り、仁万をアジトの屋根近くまで持ち上げた。彼を逆さまにひっくり返すと、下に叩きつけるように投げ捨てる。仁万は頭から地面に激突してあっと短い声を発した。
「望み通り放してやったんだ。喜べよ」
メイジは憎らしいほど不敵な笑みを浮かべて前進する。その悠然とした歩き方には自分が苦戦する可能性を微塵も想像していない強者の余裕が漂っていた。
仁万は、地面に強打した頭を押さえながら立ち上がると、顔を強張らせてあとずさる。ベルの隣で立ち止まった。
「しっかりしろ。なにをそんなに怯えている?」
ベルが仁万を叱責すると
「アイツだ。アイツが僕たちを襲い、渡会君に重傷を負わせたんだ」
仁万は答えて、メイジを指差した。
「なに? じゃあアイツは、相馬や伊佐木と同じNBW事件の被害者か」
女の表情が少し険しくなった。
メイジは、樹流徒の傍で足を止める。
樹流徒はまだ地面に倒れていた。仰向けになったまま親友の顔を見上げる。
「どうしてメイジがここに?」
「決まってるだろ。オマエを助けに来てやったンだよ………………なんて言うとでも思ったのかよ? ンなワケねェだろ」
黒衣の青年は肩を揺らしてく、く、くと笑った。
天使が翼を広げて地面を蹴る。金色の髪を逆立て地表スレスレを滑空した。樹流徒の蹴りや火炎砲をものともしなかった強靭な体がメイジに向かって突進する。
「避けろ」
と樹流徒が警告した時、天使とメイジの間合いは既に衝突を免れない距離まで縮まっていた。
天使は肩からメイジにぶつかる。しかしメイジは微動だにしなかった。彼の全身は攻撃を受ける直前に黒く変色し、紫色の斑模様が広がっていた。
メイジは複数の姿に変身する能力を持っている。変身した姿によって能力も異なり、八坂との戦いでは幾つかの姿を使い分けていた。例えば緑の体に変身すれば背中から生えた六本の触手を自在に操る上、肉体の損傷を徐々に再生することもできる。一方、黒い姿に変身した場合は鉄壁の防御力を得られるらしく、八坂の攻撃をことごとく跳ね返し、今また天使の突進を真正面から防いだ。
メイジは反撃の拳を繰り出す。天使は後方へ跳ねて回避すると、そのまま翼を広げてメイジとの間合いを広げた。安全圏まで逃れると、穏やかな口調で仁万とベルに向かって指示を出す。
「アナタたち。あの者も一緒に捕らえなさい」
天使は、樹流徒だけでなくメイジも捕獲するよう命じた。
「はい。天使様」
仁万は迅速に返答する。が、それとは裏腹に体は固まっていた。メイジを恐れているのだろう。
それでも仁万にとって天使の命令は、敵への恐怖心を押さえ込むだけの重みを持っているようだ。男は意を決したように動き出した。震える指先をメイジに向け、黄色い閃光を放つ。
メイジは面倒臭そうに光線を回避すると、別の姿に変身する。全身から赤茶色の毛を生やし、口の犬歯と指先の爪を鋭く伸ばした。瞬く間に獣の体となる。
赤茶色の獣は圧倒的な瞬発力を武器に、天使に向かって高速接近した。
天使は地面を蹴り上空に離脱する。ベルも後方へ跳躍した。それによりメイジは標的を仁万に変更する。いとも容易く男の懐に飛び込むと、腹に爪を突き刺した。
仁万の瞳孔が開く。メイジが爪を抜くと、男の服に真っ赤な血が広がった。
続いてメイジは仁万の首根っこを掴むと、爪の先端を心臓に向ける。その手を突き出せば、恐らく男の命は無かった。
「殺すな!」
樹流徒がメイジの背中に向かって叫ぶ。
メイジはふんと鼻を鳴らして笑い、爪を下ろした。代わりに仁万の顔面へ頭突きを見舞う。男の眼鏡にヒビが入った。仁万は顔を抑えながら蹲る。その様子を、メイジは恍惚とした表情で見下ろした。
樹流徒はゆっくりと立ち上がる。頭がくらくらしたが、何とか動けそうだった。
「どうしたのですか? 敵と戦いなさい」
天使は上空からベルに指示を送る。その声は間違いなく女の耳に届いたはずだが、ベルは動かなかった。彼女は眉根を寄せてその場に留まる。
メイジの体が再び緑色に変色した。背から伸びた六本の触手が、仁万の四肢と首と胴体に絡みつく。地面に蹲る男を無理矢理立たせた。
その時。天使が急降下を開始する。今が好機と見たか、彼女はメイジに向かって恐ろしい速度で突っ込んだ。
だが、その動きに合わせて樹流徒が跳躍していた。彼は全力の飛び蹴りを放って天使を迎撃する。彼の蹴りは先ほど一度跳ね返されているが、その時の攻撃とは威力が違った。樹流徒の足は敵の脇腹に入る。天使は後ろへ吹き飛んで地面を滑り、道路脇の標識に追突した。樹流徒も同じように後方へ弾かれたが空中で体を捻って着地を決めた。
メイジは触手で捉えた仁万を放り投げ、天使の上に叩き落す。体勢を立て直そうとしていた天使は、落下してきた仁万の下敷きになった。
「大丈夫か?」
ベルが仁万たちに駆け寄る。
「構うな。僕のことよりも天使様を」
仁万は素早く立ち上がる。
続いて天使も何事も無かったかのように体を起こした。
仁万は安堵の表情を浮かべる。それから一転、怒りに満ちた顔でメイジを睨んだ。
「一体、何をしに来た? 相馬君を助けに来たのか?」
「だから違うって言ってンだろ」
「ならどうして? 相馬君を助けに来たんじゃないとすれば、何故ここに来た?」
仁万は更に問う。樹流徒もその答えを聞きたかった。
すると、メイジは隠し立てすることなく、この場に現れた目的を明かす。
「オレはただベルゼブブの言葉を伝えにきただけだ」
「なに?」
天使の表情が微動した。
「ベルゼブブの言葉? 一体、誰に何を伝えるつもりだ?」
仁万が敵意に満ちた口調で詰問する。
「ウルセーよ。今から奴のメッセージをそのまま伝えてやるから良く聞いとけ。そうすれば全て分かる」
と、メイジ。
成り行きで戦いが中断される。樹流徒たちの視線は黒衣の青年に集まった。
そして……メイジの口からベルゼブブのメッセージが伝えられる。
「“潮時だ。そろそろ天使の犬に潜入する役目を終え、こちらに帰って来い”だとよ」
「潜入」
樹流徒はぎくりとした。
「一体、何の話だ? 潜入?」
仁万はそう言って目を瞬かせる。
その時――
生々しく不快な音がした。僅かに遅れて天使がうっと驚いたような悲鳴を漏らす。
仁万の表情がみるみる青ざめていった。天使の腹から手が飛び出している。天使の無防備な背中を突き刺し体内を貫通した女の手だった。
ベルが笑っていた。彼女は天使の体を貫いた手を静止させたまま、未だかつて樹流徒に見せたことのない妖しい笑みを浮かべている。
天使は首から上だけをゆっくりと背後へ回し「アナタは一体?」と、女に問う。
ベルは答えない。笑顔を崩さず、天使の体から腕を引き抜いた。途端、天使の体内から紫色の炎が上がる。爆発といってもよい激しい炎が有翼人の体を完全に破壊し、焼き尽くした。天使は白銀に輝く光の粒……聖魂となって空中に放出される。
「これは……。これは何なんだ? どういうことだ?」
仁万はうろたえる。完全に混乱しているようだ。
「慌てるな。見ての通りだ」
ベルが淡々と答える。
「ベルさん。アナタが、いや、お前が裏切り者だったのか」
樹流徒は女を睨む。
「裏切り者というのは少し違うな」
「どういう意味だ?」
「私は初めからベルゼブブの依頼で天使の犬に潜入していたんだ。その手段として、このベルというニンゲンの体を乗っ取っていたに過ぎない」
女はそう答えると、目を赤く輝かせた。かと思えば、彼女の体の輪郭が二重になる。樹流徒が目の錯角を起こしたのではない。ベルの体から何かが抜け出したのだ。
それは、若い女の姿をした悪魔だった。全身の肌は青白く、強いウェーブがかかった紫色の髪を腰の辺りまで垂らしている。背中から生えた二枚の羽は灰色で、蛇の皮膚みたいな模様が広がっていた。指先からは赤紫色の爪を伸ばしている。やや露出度の高い漆黒のコスチュームを身に纏っていた。
ベルの体が地面に倒れる。
樹流徒は、ベルの体から抜け出した悪魔を睨んだ。
「お前は誰だ?」
「私は“リリス”」
「お前が今までベルさんの体を乗っ取り、操っていたというのか?」
「理解が早くて何より。そういうことだ」
リリスと名乗る女の悪魔は紫色の唇で悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「一体、いつからベルさんに取り憑いていた?」
「相馬とベルが初めて出会った、その少し後から」
「そんな前から……」
樹流徒は過去の記憶を探る。確か、ベルと最初に出会ったのは、太之上荘(前のアジト)に初めて足を踏み入れた時だった。その直後から今までずっと、リリスという悪魔はベルの体に乗り移り、彼女を操っていたらしい。
「太之上荘が悪魔の襲撃を受けたのは覚えているか?」
リリスが問う。樹流徒は首肯した。
「ああ。覚えている。僕と南方さん、八坂の三人で敵を迎撃した、あの時だな」
「そうだ。あの戦闘にベルは参加していなかった。何故なら当時彼女は一人で川辺にいたからな。お陰で私は誰にも見付からず彼女の体に乗り移ることができた」
「僕たちが悪魔を迎撃している間に、ベルさんは体を乗っ取られていたのか」
樹流徒はそう言ってから、はたと気付く。
「まさか、アジトを襲撃した悪魔たちは、オマエの差し金か?」
「察しがいいな。そうだ。私がアジトを襲わせた。あたかも南方を尾行してアジトを発見したかのように悪魔たちに演技までさせてな」
リリスは樹流徒の憶測を肯定した。
横で話を聞いていた仁万が頭を抱える。
「なんてことだ。じゃあ僕は……今までずっと悪魔と行動を共にしていたというのか?」
そう呟いて、髪を掻き毟る。
「よく、今まで正体を隠し通せたな」
樹流徒は疑問を覚えた。元々ベルという人間について良く知らない自分ならばまだしも、組織のメンバーたちですら今までずっとリリスに騙され続けていたのである。彼にはそれが信じられなかった。何故、リリスは周囲の目を欺いてベルを演じ切ることが出来たのか。
その疑問にはメイジが答える。
「リリスは乗っ取った体の全てを支配する。脳から過去の記憶を覗き見ることも可能だ。憑依した人間になりすますくらい造作もねェんだよ。潜入にはうってつけの能力ってワケだ」
その説明に、樹流徒は納得した。
「嘘だ。こんなのは嘘だ!」
仁万は頭を左右に振って叫び、それが止んだと同時に走り出した。
が、すぐにメイジの触手が伸びて男を捉える。
「逃げ出すとは無様な野郎だ。こんなヤツにやられそうになってたオマエも無様だがな」
メイジは樹流徒を笑う。
樹流徒は返す言葉が見付からなかった。
「まあいい。ソレより丁度良かった。次、樹流徒に会ったら言いたいことがあったンだよ」
「言いたいこと?」
「ああ。オマエと最後の交渉がしたい」
「何の交渉だ」
「前にも言った話だ。オレと一緒に来ねェか? ベルゼブブの仲間になって一緒に大暴れしようぜ? 絶対楽しいからよ」
「その話なら断る。何度誘われても答えは変わらない」
樹流徒は即答する。
「ふうん。ま、いいか。オマエがそう答えるのは分かってたからな」
メイジはアッサリと引き下がった。
「逆に僕ももう一度お前に言いたい。僕と一緒に戦ってくれ。二人でベルゼブブの計画を阻止しよう」
「無理な相談だな。どうやら互いに交渉の余地無しみてェだ」
メイジは笑うと、触手で捉えた仁万の方へ視線を移した。
「なあ樹流徒。コイツどうやって殺す?」
「なに?」
「この男の殺し方だよ。撲殺、絞殺、圧殺、刺殺、斬殺、焼殺、轢殺……どれでも好きなの選べよ。手足の骨へし折って悪魔の群れン中放り込むってのもアリだよなあ」
「本気で言っているのか? その人は生きた人間だぞ?」
「別にいいじゃねエか。お前、コイツに散々いたぶられてたじゃん? オレが仇を取ってやろうって話だよ」
「そんなことは望んでいない」
樹流徒は瞳を尖らせる。
「なんだよ。相変わらずつまんねえヤツだな、オマエ」
メイジは言葉通りつまらなそうな顔をして仁万を地面に投げ捨てた。
「戯れはそこまでにしておけ。ベルゼブブたちと合流する」
リリスがメイジに声を掛ける。
「ああ。分かったよ」
黒衣の青年は返事をしてから、樹流徒に別れの挨拶をする。
「じゃあな相棒。次会う時までにオレを殺す覚悟をしとけよ」
「僕が、メイジを殺す?」
思わぬ言葉に、樹流徒の心臓が軽く締め付けられた。
「当然だろ? 交渉が決裂した今、オレたちは完全に敵同士だ。言っとくが、オレはいつだってオマエを殺せるからな」
「……」
樹流徒は絶句した。親友と命の奪い合いをするなど、想像できない。
敵同士だからといって、何故殺し合う必要がある?
樹流徒ははっとして声に出したつもりだったが、実際は言葉になっていなかった。結局何も言えぬまま、どんどん遠くに離れてゆくメイジの背中を見送った。