聖魂
樹流徒は口を閉ざす。戦いを仕掛けてきたマルバスのほうから共闘の誘いを受けるとは予想していなかった。その申し出を受けるべきか否か、即答できなかった。
「どうするんだ? オレと組むのか、組まないのか。さっさと決めろ」
マルバスが返答を急かす。
樹流徒は相手から視線を外した。マルバスの問いに答えるよりも先に、天使たちに対して最後の説得を試みる。
「今からでも遅くない。この場は退いてくれないか?」
と、ドミニオンとパワーの両者に尋ねた。このような訴えが通るとは到底思えなかったが、万が一にも天使たちが戦闘を中断してくれるならば、樹流徒もこの戦場から離脱するにやぶさかではなかった。
しかし、やはりというべきか、天使たちにその気はさらさら無いようである。
「穢れた力を使うニンゲンよ。無意味な交渉は止めなさい」
ドミニオンがにべもなく答えた。
「我々が悪魔に背を向けて逃げ出すなどあってはならない。それに、汝のような邪悪な力を使う得体の知れない存在を野放しにはできない」
続いてパワーがまくし立てるような早口で答える。
天使との決着は避けられそうになかった。樹流徒はマルバスの提案を受けるかどうか、決めなければいけない。
短い逡巡の末、彼は答えを出した。
「分かった。一時的に協力しよう」
樹流徒は悪魔と共闘する道を選んだ。その選択に特別な狙いは無い。単にマルバスの誘いを断る理由が見付からなかった。仮にマルバスがベルゼブブの仲間だとしたら絶対に手を組んだりはしないが、その可能性については先ほどマルバス本人が否定している。ならば、樹流徒が悪魔を拒む理由は皆無だった。
「話がわかるじゃないか。そうこなくちゃな」
マルバスは黄金の鬣を揺らして笑う。
「悪魔の誘いに乗るとは……。なんと愚かな」
パワーが呟いた。
ドミニオンはどことなく蔑むような視線を樹流徒に投げると、戦闘再開の口火を切る。
彼は剣を天にかざした。刃の先端から白い光を放つ球体を放出する。1つだけではない。二つ……四つ……全部で六つ。大きさはどれも直径三十センチくらいだろうか。
六つの光の玉は、輪を作って剣の周囲を回り始めたが、ドミニオンが刃を振り下ろすと外側へ弾き出された。鋭く軌道を変え二手に分かれると、肉眼で追うのがやっとの速度で樹流徒とマルバスに向かって襲い掛かる。
樹流徒は垂直に跳んでなんとか回避した。そのまま地上には戻らず、羽を広げて上昇する。
かたやマルバスは大地に根を張った大木の如く不動の構えを取る。敵の攻撃を全て体で受け止めた。着弾した光の玉が小さな破裂音と共に次々爆ぜると、口をいっぱいに開いてうおっと吠える。ただ、その仰々しい反応とは裏腹に、大した痛みは感じていないようだ。悪魔は指先から伸びた鋭利な爪で、被弾した胸を引っ掻く。「痒い。痒い」と声が聞こえてきそうな仕草だった。
ドミニオンはもう次の攻撃に移っている。銀色の魔法陣を描き、光の弾丸を乱射した。コンクリートの壁面をも削り取る弾が豪雨となって悪魔の全身を飲み込む。
マルバスは今度も回避せずに攻撃を受け止めた。光の弾丸を浴びるたびに鈍い音を発する。
天使の攻撃が止んだ。マルバスは倒れない。ただ、今度は多少なりとも攻撃が効いているようだ。群青色に染まった毛皮の隙間から青い血が滴り落ちた。
一方、上空の樹流徒は、同じく空に浮遊しているパワーとの接近戦に突入していた。
先手を取ったのは天使。樹流徒の目を狙って、躊躇う様子もなく拳を繰り出した。
樹流徒はパワーの手首を掴んで攻撃を防ぐと、反対の腕で相手の顔面に肘打ちを食らわせた。更に怯んだ相手の体が地上に向かって沈んだと見るや、頭頂部に踵落としを見舞った。
パワーはあっけなく墜落し、コンクリートの地面に叩きつけられる。樹流徒と交戦する前から既に相当なダメージを負っていたのかも知れない。苦しそうに四肢を動かし、指先を震わせる。完全な無防備だった。地上のマルバスに対して「私を狙え」と言っているようなものである。
マルバスはそれを実行に移す。二本足で駆け出し、跳躍すると、足の裏からパワーの胴体に着地した。衝撃で天使の体が折れ曲る。更に悪魔は容赦なくパワーの体を数回踏みつけた。
ドミニオンが飛び出す。剣を構えてマルバスに突撃した。
それを樹流徒が妨害する格好になる。彼は空中から急降下して、足から伸びたフラロウスの爪でドミニオンの肩を狙った。まるで獲物を捉えようとする鷹のような動きだった。
ドミニオンは危険を察知したらしい。地面を蹴って横に飛んだ。素早く方向転換して上空からの襲撃を回避する。
攻撃を外した樹流徒は足の爪を引っ込めて着地した。ドミニオンと向かい合うと、後ろからパワーの悲鳴と肉が裂ける音がした。
樹流徒は振り返らない。自分の背後で何が起きているのか、敢えて確認しなくても理解できた。その光景を目視したくないという気持ちも少なからずある。
彼の想像通り、パワーはマルバスの餌食になっていた。獅子の牙がパワーの首筋や肩を次々と貫いている。残虐な光景だったが、どこか奇妙な光景でもあった。それは恐らく、パワーの体から血が流れていないからだろう。もしかすると、天使の体には血液が流れていないのかも知れない。
ドミニオンは七つの魔法陣を同時に描くと、そこから巨大な剣を一本ずつ召喚し樹流徒に向かって射出した。
樹流徒は魔法壁で全ての剣を受け止める。壁が消滅した時、もう背後からパワーの悲鳴は聞こえなかった。
「よう……キルト」
マルバスが樹流徒に声を掛ける。
樹流徒はドミニオンに注意を払ったまま横顔をマルバスへ向けた。そこにはもうパワーの姿は存在しない。代わりに、美しい白銀の光を放つ粒が、大量に空中を舞っていた。
その光の粒は、色を除けば魔魂と酷似していた。もしかすると、天使の魂なのかも知れない。悪魔の魂が魔魂ならば、さしずめ天使たちの魂は“聖魂”とでも呼称すれば良いだろうか。
聖魂は魔魂と違い、樹流徒に吸収されることなく空中を漂い、徐々に数を減らしてゆく。
その現象が起こっている最中だった。マルバスの口から耳を疑うような言葉が飛び出す。
「天使が一匹減ったことだしオレたちの協力関係もここまでにしようぜ」
それは言うまでもなく樹流徒に対する言葉だった。共闘関係を結んだばかりだというのに、その提案者であるマルバス自身が早くも関係解消を申し出たのである。それも一方的に。
樹流徒が有無を言う暇などなかった。
マルバスは樹流徒の返事を聞くよりも早く、獅子の咆哮と共に爪を振るう。そこから半月を描いた青い光が飛んだ。半月は地面と空気を切り裂きながら樹流徒めがけ直進する。戦いが再び三つ巴の攻防に戻った瞬間だった。
樹流徒は横に飛んでマルバスの攻撃をかわし、空中に移動する。その後をドミニオンが追った。
ドミニオンは剣を突き出して樹流徒の下から迫る。それに気付いた樹流徒は相手との間合いを慎重に測って蹴りを繰り出した。下方に向けたつま先から伸ばした爪で敵を迎撃する。
天使は剣で爪を防御した。が、蹴りの圧力に押されて短い距離を下降する。
次の刹那、樹流徒の背筋がにわかに冷たくなった。いつの間にかドミニオンの背後にマルバスが迫っていたからである。悪魔は恐るべき跳躍力で、砲弾の如く地上から飛び出していた。
そのことにドミニオンは気付いていないようだ。仮に気付いていたとしても回避は間に合わないだろう。マルバスがドミニオンにトドメを刺す好機だった。
ところが、巨大な砲弾と化したマルバスは、隙だらけのドミニオンを払い除けるように突き飛ばし、勢いを保ったまま樹流徒の元へ到達する。マルバスの狙いは最初からドミニオンではなかったのだ。
しまった、と思っている内に、樹流徒は悪魔の頭突きを体に受けていた。衝撃で呼吸が一時的に止まる。勢い良く後方へ吹き飛んだ。羽で減速する間もなく建物の外壁に衝突する。背中で壁を擦りながら地面に落下した。
同じくマルバスの追突を食らったドミニオンだが、こちらは翼を動かして空中で正常な姿勢を取り戻していた。彼は身を翻すと、剣を突き出して下降した。その先には建物の壁にもたれかかる樹流徒がいる。
樹流徒の体には激痛が駆け巡っていた。マルバスの攻撃は予想を遥かに上回る重さだった。骨の髄まで響く痛烈な一撃だった。その痛みから回復するまでは身動きが取れない。ドミニオンの接近に気付きながらも迎撃体勢が取れなかった。
ここは魔法壁で防御するしかない。樹流徒は防御能力発動させようとする。
その矢先だった。ドミニオンが宙で急停止する。樹流徒への攻撃を中断した。いや、中断せざるを得なかったのだろう。なぜなら、天使の進路に半月の光が割り込んだからである。マルバスの攻撃だった。
「惜しいな。もう少しだったのに」
天使を仕留め損なったマルバスは悔しそうな台詞とは裏腹に嬉しそうな口調で語る。
樹流徒は一つ理解した。この悪魔は戦いが好きなのだ。勝利という結果よりも戦闘の過程を楽しんでいる。相手を倒すことよりも、攻防の駆け引きであったり、敵の虚を突く戦い方に喜びを感じているのだろう。
樹流徒の体から痛みが引いた。行動不能状態から回復する。
彼は建物の外壁に預けていた背中をまっすぐに起こすと、すぐに攻撃を仕掛けた。羽を広げ、ドミニオンめがけ一直線に飛び出す。
ドミニオンは魔法陣を描いて光の弾丸を速射した。樹流徒は魔法壁を張って、攻撃を弾きながら敵に接近する。魔法壁が消えた時にはドミニオンの攻撃が途絶えた。
ドミニオンはその場で身構える。樹流徒から離れて間合いを広げるという選択肢もあったに違いないが、そうしなかった。人間相手に後退するのは天使としての矜持が許さなかったのかも知れない。
上昇する樹流徒はドミニオンと同じ高度に達し、真正面から勝負を仕掛ける。敵の剣が届くかどうかの際どい間合いまで接近すると、口から空気弾を放った。空中に放出されたほぼ無色透明の弾丸は一旦バスケットボールくらいの大きさまで膨張し、直進を始めると急激に萎む。貫通力はあるが射程距離が短いのが、この能力の弱点だ。
樹流徒の狙いは敵の腹だったが、実際はドミニオンが構えた剣の刃に命中した。美しい装飾を施された剣は天使の手元を離れ、落下し、そして地面で硬い音を鳴らした。
武器を失ったドミニオンは四本の指を揃えて樹流徒の胸元めがけ突く。手刀で樹流徒の体を貫こうとした。
そうはさせまいと、樹流徒は手を振り下ろして相手の腕を弾き落とす。反対の拳で天使の頬を殴りつけた。ドミニオンが仰け反ったところへ脇腹に蹴りを入れる。ただの蹴りではない。フラウロスの爪で突き刺した。
ドミニオンが落下する。その先には凶悪な獣が待ち構えていた。まるで天使パワーが絶命した時の再現だった。マルバスは地面に墜落したドミニオンを捕獲すると大口を開いて噛み付く。
ただ、パワーの時とは違い、ドミニオンは一切悲鳴を上げなかった。
「悪魔よ。不浄なるニンゲンよ。私の言葉を記憶に焼き付けておきなさい。お前たち罪深き存在は、その邪悪さゆえに、いつの日か必ず報いを受けるであろう」
最後にそう言い残し、ドミニオンは覚悟を決めたように瞳を閉じた。
マルバスの牙が容赦なくドミニオンの喉元に突き刺さる。樹流徒は瞼を閉じた。
彼が目を開けた時、天使の体は崩壊を始めていた。パワーと同じように、聖魂となって宙を浮遊する。
「よし。楽しい余興もこれで終わりだ。下りて来いよ」
天使との戦いは準備運動みたいなものだったのだろう。マルバスは本当の標的である樹流徒を地上に招く。
しかし樹流徒は宙に浮いたまま動かなかった。これ以上戦いを続ける必要性を感じないからだ。ドミニオンからは逃れられないため戦わざるを得なかったが、その天使がいなくなった今、この場から離脱するのが最善策に思われた。
するとそんな樹流徒の考えを見透かしたかのようにマルバスは言う。
「言っとくがオレから逃げようとしても無駄だぞ。オレの脚と嗅覚がどこまでもオマエを追いかけるからな。覚悟を決めて戦え」
ハッタリには聞こえなかった。樹流徒は早々に考えを改め、降下する。
彼の足が地面に着いたのを合図に、マルバスが走り出した。樹流徒の真正面から襲い掛かる。
樹流徒は跳躍して蹴りを繰り出した。足の爪を振り払い、鬣の下に隠れた獅子の首を切り落とそうとした。
その攻撃は空を切る。マルバスは四つ這いになって回避していた。しかも前足で反撃する。樹流徒の脇腹を爪で引っ掻いた。
樹流徒は着地してすぐに後退する。傷口を確認する暇も無かった。二足歩行に戻ったマルバスがもう迫ってくる。
マルバスは勢いそのまま大口を広げて獲物にとびかかった。樹流徒は後方に飛び退きながら石化の息を吹きかける。マルバスの首から下が忽ち白煙に覆われた。
しかし効果は薄い。悪魔の体表は急速に石化したが、それは砂のようにいとも容易くボロボロと崩れ落ちた。結果として石化攻撃は敵の前進を止めただけだった。
マルバスは改めて樹流徒めがけて飛び込む。鋭い爪が走った。樹流徒は再び後方へ逃れようとしたが、気付けば建物の壁を背負っていた。これ以上は下がれない。獣の爪が樹流徒の胸を浅く引き裂く。傷口から血が滲み出た。
接近戦では分が悪いかも知れない。樹流徒は苦戦の予感を覚えた。その一方で、空に退避しようとは考えなかった。これまでの戦闘経験から、マルバス相手に遠距離攻撃の撃ち合いを演じても決着がつかないと分かっているからだ。どの道、最後は接近戦になる。
次、相手が飛び込んで来たら勝負を決める。
樹流徒の瞳に覚悟の炎が宿った。
「オマエは良い獲物だ。何故ニンゲンがそれほどの力を持っているのか、そんな疑問がどうでも良くなるくらいオレを楽しませてくれる相手だ」
樹流徒の決意を感じ取ったのだろうか、マルバスはやや興奮気味に黒い煙を吐き、両手の指をゆっくり開閉する。
が、次に悪魔の口から漏れたのは、深い深いため息だった。
「止めだ」
マルバスは肩を落とす。全身から放たれていた殺気が消えてゆく。まるで破裂寸前まで膨らんだ風船から空気が抜けてゆくようだった。
一体何があったのか? 樹流徒は不思議に感じながら構えを解く。
その答えは空にあった。
「見ろ。オレたちの存在が天使どもにかぎつけられた」
マルバスは薄い霧の奥を指差す。
樹流徒はそちらを透かし見た。確かに空を飛ぶ影が確認できた。数は五つくらいだろうか。遠すぎて点々にしか見えないが、マルバスの目には天使の姿として映っているようだ。
「残念だがオレたちの勝負はここまでだ。こんなことになるくらいならもっと早くドミニオンを始末しておけばよかった」
マルバスは今度こそ本当に悔しそうに言う。
「じゃあなキルト。次会うのを楽しみにしてる」
続いて別れの言葉を残し、踵を返した。大股で走り去ってゆく。
その背中を少しの間見送ったあと、樹流徒は遠方の空に目をやった。
接近してくる影がおぼろげながら天使の姿だと分かる距離まで迫っていた。早くこの場を離れなければいけない。
樹流徒はアジトの方角を向くと、羽を広げた。