襲撃
ナイフと弓で武装した巨人はひと言も発さず、フードの下に隠れた顔をまっすぐ樹流徒に向けている。
この不気味な巨人は一体何者なのだろうか。
アナタは誰だ?
樹流徒は相手の素性を尋ねようとする。
その刹那だった。
巨人はいきなり樹流徒めがけて右手のナイフを投げつけた。
樹流徒は咄嗟に体を捻る。白銀に輝く刃が彼の腕をかすめながら後方へ。すぐ背後にそびえる結界に跳ね返って、樹流徒の足下に落ちた。
幸いにも樹流徒に怪我は無い。制服の袖が切れただけで事なきを得た。
敵! コイツは敵だ。樹流徒は即座に、本能的にそう判断した。
問答無用で凶器を投げ飛ばしてくる相手が友好的な存在であるはずがない。それに、巨人の全身から静かな殺気が漲っているように感じた。通常、人間に他者の気配や殺気を感じ取る機能があるのかは疑問だが、樹流徒は確かに殺気のようなものを察知したのだ。このような体験は生まれて初めてだった。
殺気らしきものを放つ相手を前にして、樹流徒は総毛立つ。微かに震える手で足下のナイフを拾い上げた。ただしナイフと言うには少しばかり大きい。巨人の手に収まっていた時は小さく見えたが、自分が持ってみるとナイフというより包丁に近かった。
樹流徒がその巨大ナイフを拾っている隙に、巨人は背中の矢を一本抜いて発射態勢に入る。ギリギリと弦のしなる音がした。矢の先端が青年の額に向けられる。
樹流徒には喧嘩や格闘技の経験が殆ど無い。ましてや自分が凶器を向けられる状況など、経験どころか想像したことすらなかった。
この危機的かつ不慣れな状況に、青年の心音は高まる。
力を込められた弓矢は、巨人の手元からあっさり放たれた。それは目にも留まらぬ速さで空を切り、樹流徒の顔を擦る。彼の頬に赤い線が浮かび上がった。
樹流徒の全身に恐怖が駆け巡る。ただ、それ以上に強い闘争心が沸き起こった。
殺さなければ、殺されてしまう!
彼の、人間である以前に一生命としての本能がそう告げた。
人間という生き物は他者の命を尊重する心を学んでいるが、まず第一に優先するのは己の命だ。自分の命が危機に陥ったとき、その原因を排除しようとするのは動物として当然の行動である。
樹流徒はほとんど無意識の内に、目の前の敵を消そうと判断していた。
敵が次の矢を構える前に反撃しなければいけない。次の刹那、樹流徒は弾かれるように飛び出した。
野生の獣を彷彿とさせる瞬発力で敵の懐に飛び込む。それが火事場の馬鹿力なのか、或いは例の光を吸収した影響なのかは分からない。ただ、とにかく彼の動きは神懸かっていた。
樹流徒は巨人の懐に入り込むのに成功すると、躊躇い無く腕を伸ばした。ナイフを敵の腹に突き立てる。
キィンという金属同士のぶつかり合う音が鳴った。樹流徒の指に硬い手応えが伝わる。
ナイフの刃は巨人の生身に届いていなかった。巨人がフードの下に堅い防具を着込んでいるようには見えない。となれば、ナイフの刃が偶然矢筒の留金にでも当たってしまったのかも知れない。
しくじったと思った次の瞬間、樹流徒は、巨人が振り払った手に頬を弾かれる。首から上が消し飛んでしまったのではないかと錯覚するほど重い衝撃を受けた。
その拍子、樹流徒は手に持っていたナイフを放してしまう。彼が派手に地面を転がったときには、銀色の刃物がカランと硬い音を立てて巨人の傍らに落ちた。
凶器が持ち主の手に戻る。巨人はナイフを拾い上げ、代わりに弓と矢筒を投げ捨てる。少し身軽になった体で樹流徒の元へ歩み寄った。唇の隙間から青紫色の長い舌が伸びて、ナイフの刃を舐める。
樹流徒は急いで起き上がろうとした。地面に手を着いて上体を起こす。
途端、巨人が走り出した。二メートル近い巨体が青年に跳びかかり、暴れる彼を腕力でねじ伏せる。片手で素早く首根っこを掴むと、その動作とは対照的にゆっくりと凶器を振りかざした。
押さえ込まれた樹流徒は、巨人の腕を引き剥がそうとするが、両手を使ってもビクともしない。まるで子供と大人の喧嘩だった。力が違いすぎて全く抵抗できない。
自力での脱出は無理だ。何か武器さえあれば。そう思って祈るような気持ちで視線を左右に動かしても、手の届く範囲には武器の代わりになりそうな物どころか、石ころ一つさえ転がっていなかった。
絶望的な状況だ。打つ手が無い。
巨人はまだ凶器を振り下ろさない。丸太みたいに太い腕で樹流徒を押さえつけたまま、彼をジッと見下ろしている。
遊ばれている。
樹流徒は思った。相手は勝利を確信して自分の反応を見て楽しんでいる。
事実、この状況では誰の目から見ても青年に勝ち目は無かった。
樹流徒は諦めずに巨人の腕を退けようとする。だが暖簾に腕押しである。むしろ必死に抵抗すればするほど呼吸は苦しくなり、悲惨な状況に陥ってゆく。
死ぬ。こんなわけが分からない状況で死んでしまう。
樹流徒は焦りと共に意識が朦朧としてきた。
ところが、意識が途絶えかけそうになった瞬間。突然彼の左肩に焼けるような痛みが走った。
――グオオオオ
続いてけたたましい叫び声が轟く。何故かその悲鳴を上げたのは巨人だった。
樹流徒は全く状況を把握できなかったが、不意に自分の両手が視界に入ってぎょっとした。
指の先が尖っていた。人間のものとは思えぬ鋭利な爪が、樹流徒の指先から伸びて巨人の腕に深く食い込んでいたのである。貫かれた巨人の腕には青い血が滴っていた。
樹流徒は一驚を喫したが、相手はそれ以上に驚いた様子だった。巨人は素早く腕を引っ込める。そしてフードの奥から覗かせた歯を食いしばりナイフを振り下ろした。
だが既に樹流徒の動きを拘束するものは無い。彼は体を転がして寸でのところで脱出に成功した。空を切ったナイフが地面を突いて小さな火花を散らす。
樹流徒はすぐ反攻に転じた。自分の体に何が起きているのか分からないが、今は眼前の敵を倒す事が最優先だ。
彼は常人離れした素早さで跳ね起きると、間髪入れず敵に立ち向かってゆく。冷静に考えれば、ここで逃げるという選択肢もあったかもしれない。だが、樹流徒の本能は勝負を選択した。
巨人はナイフを突き出して迎撃する。
しかし樹流徒には敵の動作が驚くほど良く見えた。彼は凶刃をかいくぐり、鋭利な爪で巨人の脇腹をローブもろとも切り裂く。今度こそ攻撃が通った。
巨人がぐわっと大きな声を出して前屈姿勢になる。ローブに青い血が広がった。
樹流徒は攻撃の手を休めず、敵の胸を突き刺す。すると、巨人は咆哮を上げて滅茶苦茶にナイフを振り回し始めた。その姿には、捕らえた獲物の反応を楽しむ余裕はもう欠片も残って無い。
樹流徒は再び攻撃をかいくぐりまた一撃。次の攻撃もかいくぐりもう一撃。体がふた回りも大きい相手を圧倒する。
かといって敵をいたぶる余裕も無ければ、そのようなことをする趣味も無かった。樹流徒はあくまで自分の生命を守るためだけに、一刻も早く巨人の命を奪おうとする。
――待て! オレの負けだ。
が、樹流徒の手がぴたりと止まった。相手の声に反応して、思わず攻撃を中断した。
樹流徒は一瞬耳を疑う。巨人が喋った。確かに今、「待て」と言った。
巨人は恐らく人間ではない。ナイフを舐めた青い舌や、ローブに広がった青い血を見れば、それは明らかだ。にもかかわらず、巨人が人間の言葉を発した事が、青年にとっては余りにも意外だった。
「お前は何だ? 何者なんだ?」
樹流徒は振りかざした手を下ろし、敵に素性を尋ねる。
「オレの名は“バルバトス”」
巨人はまたも人間の言葉で答えると、フードに手をかけて、さっと捲った。
その下から現れた顔は人に近かった。だが肌は藍鼠色で、灼熱の太陽に照らされ乾ききった大地みたくひび割れている。虹彩は赤く燃えていた。こう見ると、やはり人間ではない。
バルバトスと名乗る巨人は、血色の悪い唇を開く。
「オレは悪魔。魔界の貪欲地獄から来た」
「悪魔!」
樹流徒は相手の正体に驚いたが、同時に頭の中で「やはり」と叫んだ。
この時、彼は、南方の話が概ね正しかったことを確信する。信じたくない気持ちも多少は残っているが、今まで見聞きしてきた情報を総合すると、全て認めざるを得ない。
悪魔は存在したのだ。悪魔が住む魔界という場所も、恐らく存在するのだろう。
ならばこの機を逃すわけにはいかない。目の前の悪魔から情報を引き出さなければ。樹流徒は巨人を睨む。
「お前たちは何が目的でこの世界に来た? 何故この地に結界を張る? 話せ!」
と、激しい口調で問い詰めた。
「知らん。オレはただ魔界と現世が繋がったという噂を聞いて遊びに来ただけだ」
バルバトスは落ち着いた口調で答える。一方で、力強い光を宿した燃えるような瞳が樹流徒の顔をじっと見つめたまま固まっていた。
その様子を見て、樹流徒には不思議とバルバトスが嘘をついているようには見えなかった。
「現世に来たのは遊ぶためだというのか?」
樹流徒は更に問う。
「そうだ」
「ならば何故僕を襲った?」
「オレは狩りを趣味にしている。獲物は別にオマエじゃなくても良かった。鳥でも動物でも魚でも良かった」
「この土地に住む生き物は皆死んでしまった。それも知らなかったのか?」
「いや。それは知っていた。知っていたというより、予想がついていた。現世と魔界が繋がった衝撃により、魔法陣の付近にいたニンゲンが死ぬのは当然だ。だからオレは生きた獲物がいる土地まで移動しようと考えていた。しかし、結界のせいで外に出られず困っていたのだ」
「じゃあ、結界が張られていることは……」
「ああ。現世に来るまで知らなかった」
「悪魔なのに何故それを知らないんだ?」
「オレは二つの世界が繋がったことと、それによってこの地に住まう多くの生物が死んだことしか知らない」
「それが誰の仕業かも知らないと言うのか?」
「そうだ」
「悪魔なのに?」
樹流徒はもう一度同じ疑問を繰り返す。
「当たり前だ」
と、バルバトス。本当にそれが当然であるかのような口ぶりをしている。
「分かった」
樹流徒は納得した。心から納得したわけではないが、相手の言葉を信用するしかなかった。
仮にバルバトスが嘘や隠し事をしていたとしてもこれ以上追求する手段は無い。拷問にかけて吐かせようという気もなかった。
すると戦意を失ったと同時に樹流徒の爪が瞬時に縮む。彼の指先が元の形を取り戻した。
樹流徒は怪訝な瞳で自分の手を観察する。戦いとバルバトスの尋問に夢中で、この爪のことをすっかり失念していたが、いよいよ己の体を不気味に感じた。
すると、バルバトスが徐に口を開く。
「オマエこそ一体何者なんだ?」
「え」
「一見普通の人間みたいだが不思議な力を使う」
「僕はただの人間だ」
樹流徒は半ば自分に言い聞かせるように答えた。