白銀の魔法陣
「儀式の阻止には失敗してしまったが、収穫があったのは幸いだった」
そう言って、砂原は深く静かな吐息を漏らした。七尺豊かな大男の両肩が浅く沈む。
樹流徒たち三人が無事にアジトに帰還すると、程なくして一階の座敷に人が集まった。今回も渡会を除いた全員が顔を揃え、雑談もそこそこ、市民ホールなどで起こった出来事を南方が詳しく報告した。詩織を含めた待機組のメンバーたちは真剣な表情で南方の話に聞き入っていた。
そして全ての報告が終わったとき、砂原の口から出たのが「収穫があったのは幸いだった」という台詞だった。悪魔に儀式を成功させてしまったものの、オセ、レオナール、ブエルを撃破したこと、それ以上に敵の口から様々な情報が得られたことは、確かに大きな収穫だった。
命がけの激戦を潜り抜けたベルは心身ともに力を使い果たしたと見えて、座敷に入るなり壁を背にして座っていた。報告を終えた南方もすぐに床で横になる。両者とも相当気だるそうだった。
そんな彼らを、樹流徒は少しだけ羨ましく感じた。疲労という人間として当たり前の機能が自分には無い。食欲や睡眠欲などについても相変わらず全く感じなかった。
襖の近くには令司が立っている。しかめっ面をして、彼は酷く不機嫌そうだった。樹流徒たちがバーバ・ヤーガを召喚したと聞いてからずっとこの調子である。もう十分近く経っているが、機嫌が直らない。
仁万も恐らく令司と同じ理由によって、つい先ほどまで眉をひそめていた。組織の人間でありながら悪魔召喚を許した南方やベルに対して文句の一つでも言ってやりたそうな顔をしていた。しかし、彼は黙っていた。文句どころか、座敷に姿を現してからまだ一言も発していない。戦闘不能になってアジトに引き返してきた手前、他のメンバーに対して気まずさを感じているのだろうか。知的で爽やかだった表情にも今は陰が射していた。
「悪魔の儀式は次で最後か」
仏頂面を下げたまま、令司は誰にともなく言う。ただの独り言かも知れなかった。
「サタンを封じ込めているコキュートスは四つのエリアに分かれていて、その内三つが、これまで悪魔が行ってきた儀式によって破壊された……で、合ってるんですよね?」
早雪は自分の理解が正しいかどうかを尋ねる。
「それで合っていると思うよ」
樹流徒が答えた。
大ホールで行われた第三の儀式は、コキュートスの一部・トロメーアを破壊するためのものだった。第一、第二の儀式も同類の目的で行われたと考えられる。早雪の言葉通り、コキュートスを構成する四つのエリアの内、既に三つまでが破壊されてしまったことになる。
「最後に残されたエリアは、コキュートスの中心部である“ジュデッカ”だろう。そこが崩壊したらサタンは解放される。絶対に阻止しなければいけない。例えベルゼブブたちの目的が他にあったとしてもだ」
砂原は腕を組んで、人差し指で二の腕をトントンと叩く。その癖は、樹流徒の目にも馴染み深くなりつつあった。
「サタンが救出されたらどうなるんです?」
樹流徒は尋ねる。魔王の復活が深刻な問題であるという実感が、今ひとつ湧いてこなかった。サタンの存在が現世にどのような影響を及ぼすか、具体的に分からないのが原因だろう。
樹流徒の疑問に砂原が応じる。
「結論から言えば不明だ。自由の身となったサタンがどんな行動を取るのか、全く予想できない。ただ最悪の場合、人類に壊滅的な被害をもたらすかも知れん」
「どうかな。サタンが動くまでもないかも知れないぞ。既に魔都生誕の影響で人類の大半が死滅してるかも知れないんだからな」
ベルが縁起でもない事を口走る。有り得る話だけに、余計不吉だった。
「そういや最近忘れてたけど、結界の外って今頃どうなってるんだろうね?」
南方は畳の上に転がったまま、カーテンの隙間からガラス越しに外を覗く。
樹流徒も市外のことはすっかり意識の外だった。考えている暇など無かったのである。
「きっと大丈夫ですよ。みんな生きているし、結界だってその内に消えると思います」
と、早雪が根拠の無い希望を語れば
「その内では遅いな。一刻も早く結界が消滅してくれなければ困る。何せ、このアジトに残された水や食料はもう残り少ない。市外へ出られなければ俺たちの命はそう長く持たないだろう」
と、兄の令司が冷たい現実を口にする。結界の外よりもまずは自分たちの身を心配したほうが良い、と言いたいのだろう。確かに、世界の安否も大切だが、それを気にしてもどうにもならないし、自分たちが死んでしまっては元も子も無かった。
南方たちが結界の外について語る一方で、砂原は全く別の事を考えているようだった。
「ベルゼブブの真の目的とは何なのだろうな?」
彼は自問自答するように言って、天井を仰ぐ。
その話題にベルが食いついた。
「サタンを救出する以外にコキュートスを破壊する動機が見当たらない。だから、ベルゼブブの目的はサタンと間接的に繋がってるんじゃないか?」
「無意味な議論だな。俺たちが最後の儀式を阻止すれば良いだけの話だろう」
令司が横槍を入れる。
「確かにその通りだ。が、言うは易く行なうは難しって成句があるだろう。間違いなく今までで一番キツい闘いになるぞ」
ベルの意見は常に現実的だった。
「最後の儀式って、いつ、どこで行われるんですか?」
早雪が素朴な疑問を口にする。
「それがまだ分かってないんだよねえ」
南方は上半身を起こすと、肩をすくめておどけた。
「夜子がそれについてブエルに質問しなかったからな。単に聞くのを忘れたか、聞けない理由でもあったのか。それともヤツは聞く必要が無かったのか……」
言って、ベルはトレードマークのハードパーマを指先で弄り始める。
「今のところ分かっているのは、儀式に建物が利用されていることと、その建物が生贄を配置するだけの広さを持っていること。あとは一度儀式が行われると、次の儀式までに多少の時間が空くことくらいかな」
仁万が初めて会話に参加した。口調は至って自然だった。
「でも、生贄を配置できそうな建物なんて市内に沢山あるからね。次に儀式が行われる場所を特定するのはちょっと難しいかも知れない。時刻についてもそうだ。儀式実行のタイミングは予め決められてるってコトしか分かってない」
南方は天井に向かって両手を突き出し、背筋を伸ばす。
「残念ながらまた情報収集だな。しかし泣いても笑っても次で最後だ。全ての力を出し切るぞ」
隊長の砂原が全員の奮起を促した。
樹流徒は小さく頷く。儀式に関する情報が夜子から送られてくる可能性はありそうだが、それを期待して待ってなどいられなかった。
「最終手段として早雪君の力を借りることになるかも知れんな」
すると砂原がそのような事を言う。
「早雪ちゃんの力?」
しばらく無言だった詩織が反応を示した。彼女の視線が、隣に立つ早雪の顔に移る。
「早雪ちゃんも組織の一員だからね。天使の洗礼を受けてるんだよ。彼女の能力は、数十キロ圏内で行われている儀式の場所を感知できる。本来は悪魔召喚をする人間を見つけ出すための能力なんだけどね」
南方が解説をする。
樹流徒は納得した。が、同時に新たな疑問が生まれる。早雪にそのような力があるならば、何故、今まで使わなかったのか? その能力を使えば今までの儀式を阻止できたかもしれないのに……
その疑問はすぐに晴れた。
「ふざけるな。冗談じゃない」
出し抜けに、令司が怒りの声を上げた。
彼は刀の鞘を壁に打ち付ける。物騒な音が鳴って、室内の空気が一気に張り詰めた。
「早雪の能力は体力を激しく消耗する。それにより呪いの症状が悪化することを、よもや忘れたわけではないだろうな?」
令司の鋭い眼光が砂原の顔を射抜く。
なぜ今まで早雪の能力が使われなかったのか、樹流徒は理解した。彼女は能力を使いたくても、体調の面から使えないのだ。早雪にかかった呪いについて知っている詩織も瞬時に事情を察したはずである。
当事者の早雪は伏し目がちになって唇を結ぶ。何か言いたいのを我慢している様子だった。
「無論承知している。だからこれまで彼女の力には頼らないようにしてきた」
砂原はそう答えてから、二の句を継ぐ。
「が、今回ばかりはそうも言っていられない。次が最後の儀式なのだ。場合によっては一度だけ協力して欲しい」
男の真剣な眼差しが、早雪に向けられた。
「個人の感情で言わせて頂きますが、私は反対します」
詩織が異議を唱える。
仁万の眉間にしわが寄った。眼鏡の奥で瞳が鋭くなる。
「さっきの八坂の言葉じゃないですけど、不要な議論じゃないでしょうか? 儀式に関する情報を手に入れさえすれば良いんですから」
樹流徒はそれとなく詩織を援護する。
「全くもって賛成だね。こうして喋ってる間に情報収集へ出掛けた方が良さそうだ」
南方は体を左右に揺らしながら立ち上がった。足下がおぼつかない。
「くそ。悪魔どもめ。いつまで俺たちを苦しめるつもりだ」
令司は憎憎しそうに吐き捨てると、真っ先に部屋から飛び出していった。
廊下を駆ける足音が遠のいてゆく中、ベルは心なしか白けたような目で虚空を眺める。
「今回は俺も動く。アジトの守りを手薄にしたくはないが、背に腹は変えられんからな」
砂原が落ち着いた足取りで部屋を去った。その後を追うように、仁万も退出した。
「大丈夫だよ。次の儀式にはとんでもない数の悪魔が集まってくるハズさ。そうすれば物凄く目立つ。だから、敵の居場所なんてきっとすぐに見つけられるよ」
南方が早雪に微笑み掛ける。
「はい。ありがとうございます」
少女も笑顔を返した。但し、明らかに無理をして作った笑顔だと分かる。
樹流徒は踵を返した。当然、情報収集に出るために。
「相馬君。待って貰える?」
それを詩織が呼び止めた。
「どうした?」
樹流徒は振り返る。
「よければこれを使って。アナタが帰ってきたら多分ボロボロになっていると思ったから」
詩織はそう言って、足下に置いてある服や靴を拾い上げる。無地のカットソー、スキニーパンツ、靴下、ウイングチップシューズがまとめて樹流徒の手に渡された。
「ありがとう。これは誰の服なんだ?」
「近くのお店から借りてきた物。アナタが市民ホールに行っている間に取りに行ったの」
「一人で外を出歩いたのか?」
「いいえ。八坂さんが仁万さんと一緒にアジトに戻って来たから、護衛をお願いしたのよ」
「そうだったのか……」
樹流徒は、詩織から受け取った着替え一式に視線を落す。またすぐズタズタになってしまうだろうけれど、大切に使おうと思った。
アジトから徒歩圏内の場所に、一軒のアンティーク家具店がある。そこには樹流徒が悪魔倶楽部の入口として利用している巨大な鏡が置かれていた。
新しい服に身を包んだ樹流徒は、家具店を目指して移動する。現在、アジト周辺にはまだ組織のメンバーたちがいる。彼らに見つかるわけにはいかないので、空を飛ばずに地上を進むことにした。
注意深く辺りを警戒しながら足早に移動する。今のところ悪魔やネビトの姿はどこにも無い。
やがて、道路前方の突き当りに見晴らしの悪い曲がり角が見えてきた。大型のトラックが横転し、道路標識が恐ろしい怪力でへし折られている。
そこを曲って三件先にある建物がアンティーク家具店だった。魔界はもうすぐ目の前である。
ところが、樹流徒が曲がり角に差し掛かった丁度その時だった。
彼は遠くの空に違和感を覚える。そちらを注視して、一驚を喫した。
空中に魔法陣が出現していた。薄い霧がかかってはっきりとは見えないが、間違いない。
樹流徒が今までに見た事のない種類の魔法陣だった。控え目に見積もっても直径三十メートル以上はあるだろう。かなりの大きさだ。しかし樹流徒は魔法陣の大きさよりも、魔法陣を描く線の色に目を奪われた。この世のものとは思えないほど美しい白銀の光を放っている。霧の粒子に反射してぼやけているところが、却って幻想的に見えた。
束の間、美しい現象に見とれていた樹流徒だが、すぐ我に返る。
悪魔倶楽部へ向かいたいのはやまやまだったが、それよりも先に魔法陣の正体を確かめる必要があった。