一騎当千
巨大な闇の中で繰り広げられた酷烈な戦い。儀式を成功させた悪魔たちの歓喜。それらの余韻はいつの間にかすっかり消え失せている。夜子が放つ強烈な妖気は、この場に渦巻いていた感情や雰囲気の一切を飲み込んで戦場に新たな緊迫感をもたらした。
それでもブエルに臆した様子は無い。
「ベルゼブブの計画? さあな。オレには何の話だかまるで見当がつかん」
と、夜子の質問に応じる口調にも力強さがあった。
「そうか。君は何も知らないのか」
微笑を浮かべて夜子は表情を無くす。ブエルの言葉を疑ってもいなければ逆に信用もしていない風に能面のような顔をする。
「アイツ、一体誰なんだ?」
ベルは怪訝そうに少女の方を見やる。
同じ疑問を悪魔たちも抱いていた。
「あの女も天使の犬なのか?」
「多分そうだろう。他に考えられないもンな」
などと、囁き合っている者たちがいる。
彼らの疑問に樹流徒は答える事ができた。
「彼女がヨモツオオカミです」
「え。あの子が?」
南方が意外そうな反応を示す。
一方、ブエルは少女の素性について他の悪魔たちよりも多少正確に予想していた。
「お前、ニンゲンじゃないな?」
「……」
夜子は沈黙を以ってその問いかけを受け流す。彼女は、答える必要がなければ答えない。
その態度がブエルの怒りに触れたらしい。風も吹いていないのに赤金色の鬣がふわりと逆立った。
「まあいい。例えお前が何者でどれだけの力を持っていようと関係ない」
獅子の大きな口が、鼓膜を破るような蛮声を発する。
「何故なら、こちらには数の力がある。負けるはずが無いのだ!」
ブエルは息巻いた。周囲の悪魔たちを鼓舞するように、またブエル自身から恐怖を追い払うようにボルテージを上げる。
対照的に夜子の周囲は次第と温度が下がっているようだった。
「確かに戦いにおいて数の力は無視できない。私とて悪魔の大軍を一人で相手にするのは難しい。それは否定しない」
そう淡々と告げる。
ブエルは笑顔になった。その表情にはどこか安堵感が漂っている。「それはそうだ。幾らなんでもオレたち全員をたった一人で相手に出来るハズがない」という台詞が、今にも聞こえてきそうな笑みだった。
と、その時。夜子の斜め背後に立つ一体の悪魔が密かな動きを見せる。鳥の頭と人間に近い体を持った悪魔だった。背中からは一対の茶色い翼が生えている。手に弓を携え、腰には矢筒を装備していた。
鳥頭の悪魔は矢筒から矢を一本抜くと、弓を構えた。弦が緊張する。銀色の矢先は夜子の背中に向けられた。
微かに震える悪魔の指が開かれる。矢が放たれた。
風を切る音、そして皮膚を突き破る音を鳴らして、矢はいとも簡単に少女の背中を射た。数体の悪魔がおおっと声を漏らす。仕留めた、と判断した者もいるだろう。
悪魔たちの期待に反して夜子は倒れない。それどころか全く意に介していないようだった。彼女は眉一つ動かさず、おもむろに背中に手を回すと、自力で矢を引き抜いた。
その光景は悪魔たちから見ても不気味だったに違いない。証拠に、彼女に対して二の矢を射る者はいない。
矢先には人間と同じ赤い血が付着していた。夜子はそれを見つめながら口を開く。
「話の続きだが……。私にとって千や二千の兵など大軍と呼ぶに値しない。故に、この場にいる者全員を滅するくらいならば造作もない」
彼女はそう言うと、手に持った矢を人差し指と中指の間に挟み、指を内側に折る力だけで後方へ投げ飛ばした。
夜子の手から放たれた矢は目にも留まらぬ速さで悪魔の胸に突き刺さる。射抜かれたのは、夜子に向かって弓を引いた鳥頭の悪魔だった。
悪魔は膝から崩れ落ちるように倒れる。周囲にいる者たちは暗黙の内にあとずさった。
「アイツ、やっぱりニンゲンじゃないのかも……」
「天使の犬だとしても普通じゃない」
悪魔たちが騒がしくなる。彼らの中で、得体の知れない乱入者の存在は確実に威圧感を増していた。
「タダのこけおどしだ。敵の大言壮語に耳を貸すんじゃない」
ブエルは味方を一喝する。
「この状況って、俺たちにとって追い風と見て良いのかな?」
南方がベルに耳打ちをする。
「分からん。ただ、これ以上状況が悪化したところで何も変わらんだろう」
「確かに」
「もし、敵の包囲網が崩れるような展開になったら、すぐに動くぞ」
「了解」
南方は笑みを浮かべる。若干の希望を取り戻した証拠だろう。
「もういい。無駄話は終わりだ。さっさとコイツらを始末しろ」
ブエルは悪魔たちに命じる。それから瞼の位置を低くして少女を睨みつけた。襲い掛かろうとはしない。あくまで睨む。
対して、夜子は瞳を逸らした。いや、天井を仰いだ。ブエルの指図を受けた悪魔たちが一斉に動き出そうとした時、彼女の視線が天から地に落ちる。
樹流徒の全身に謎の悪寒が走った。何かが来る。
次の刹那、ホール全体が振動し、爆音が轟いた。白黒に点滅する巨大な雷が、夜子の視線をなぞるような軌道で落下する。それは天井と各階の屋根に穴を開け、悪魔たちの群れに飛び込み、彼らの強靭な肉体をあっという間に消滅させた。
群生するタンポポが揃って綿毛を散らしたかのように、無数の魔魂が花を咲かせた。何体の悪魔が雷光の中で溶けたのだろうか。少なくとも二桁には届いていた。
更には落雷地点の周辺にいた悪魔たちがドミノ倒しのようにバタバタと倒れる。
大ホールにいるほとんどの者が瞬きも忘れて目の前で起きた出来事を見ていた。樹流徒も、ブエルも、他の悪魔たちも皆、金縛りにあったみたく体の動きを止める。
夜子はもう次の動作に入っていた。彼女が人差し指を前に突き出すと、その前方に細長く黒い物体が出現して渦を巻く。それは瞬く間に数を増やし、長さを増し、肥大し、最後には竜巻と化した。
黒い竜巻は屋根を貫通して天井も突き抜ける。悪魔を巻き込み、床を抉ってコンクリートの破片を舞い上げながらブエルを襲う。
ブエルはぎょっとしたように両目を大きく見開くと、頭から生えた腕で地面を押して、自身を車輪のように転がした。切れ味の良い動きで竜巻を回避する。
途端、夜子の瞳が虹色に輝いた。漆黒の渦が方向転換をする。樹流徒たちの正面を横切って、悪魔の群れを襲撃した。床と天井を破壊しながら大ホールの中を縦横無尽に駆け回る。
悪魔たちは逃げ惑い、しかし次から次へと竜巻にさらわれてゆく。落下する天井や屋根の破片が、大ホール内部の者たちを無差別に打ちつけ、押し潰そうとする。
樹流徒たちを包囲していた悪魔の垣根はもうガタガタだった。「怯むな。反撃だ」というレオナールの命令も、絶叫と崩れる瓦礫の音にかき消される。魔界の住人たちは完全に浮き足立っていた。
樹流徒は今を好機と踏んだ。同時に今を逃すと危険だとも感じた。自分たちの足場もいつ崩壊してもおかしくない。安全な場所へ移動した方が良い。彼は、羽を広げて垂直に飛び出す。
南方とベルも動いた。彼らは、夜子の攻撃により敵の守りが手薄になった方へ駆け出すと、ナイフを駆使して悪魔を一体ずつ撃破する。南方のナイフは特殊な能力の影響を受けており、切りつけた悪魔の全身を炎で包んだ。聖なる炎の力を宿した刃物だ。
白黒に点滅する巨大な雷が再び大ホールを貫く。悪魔が最も多く固まっている場所を正確に直撃した。
ここでブエルが意を決したように動く。いかつい二本の腕が床を蹴った。人間の成人男性の身長にも匹敵する巨大な顔面が、雄叫びを上げながら標的めがけて飛び込む。耳の後ろから生えた腕が宙を走った。縦に並んだ四本の爪が、夜子の肩口から胸にかけて突き刺さる。
悪魔の爪に、少女の服に、そして地面に、鮮血が広がった。
だが、夜子は背中に矢を受けた時と同様、全く平然としていた。ブエルの腕を掴むと、己の体に刺さっている爪をいとも容易く引き抜く。そして相手に抵抗する暇を与えず、細い腕で悪魔の体を軽々と振り回した。ブエルがまるで人形扱いだった。
少女の玩具と化したブエルは何度も宙を往復し、その度に地面や客席に叩き付けられる。
夜子は最後に敵を投げ捨てると、両腕の表面から氷を発生させる。それはロンググローブのように少女の肘から指先までを包み込んで、先端を尖らせた。腕が氷の槍に変わったのである。
氷の槍がブエルの掌を刺す。獅子の喉奥からグオンと悲痛な叫びが飛び出した。
夜子は無表情を保ったまま、ブーツの底で敵の額を踏み躙る。それは、自尊心が強い悪魔にとって屈辱的な責めに違いなかった。
ブエルは動かなくなった。魔魂にならないところを見ると死んではいないようだが、戦意を喪失したか、或いは意識そのものを無くしたようだった。
「あの女……。すぐにベルゼブブかフルーレティに報告しなくては」
レオナールは独り呟くと、一階の出口に向かって走り出す。
その動きを樹流徒は見逃さなかった。スタジアムの時はレオナールの脱走を許してしまったが、今回はそうはさせない。彼は、天井の穴から外へ飛び出した。
夜子が視線を上から下へ滑らせると三発目の雷が落ちる。南方とベルに接近し始めていた悪魔の群れが光の粒に変わった。
「もう駄目だ」
誰かが叫ぶ。それは、悪魔たちの総意を代弁した一言に思われた。
異形の者たちは散り散りになって逃げ出す。戦いを続けようとしている者もいるが、ほとんどの悪魔が撤退を開始した。夜子の圧倒的な攻撃力もさることながら、ブエルが赤子の如く軽く捻り潰されたことが、彼らの闘志を著しく低下させたのだろう。
指揮官を失った末端の兵たちは出口の扉に殺到する。例の如く押し合い圧し合いをする。仲間同士で小競り合いを始める者が現れる。壁を壊して出口を作ろうとしている者もいる。空を飛べる者は天井の穴から次々と抜け出す。
その頃、レオナールは他の悪魔たちよりも一足早く外への脱出に成功していた。裾の長いローブを地面に引きずりながら、建物の正面玄関を通過する。この悪魔は引き際を知ることにかけては才能がありそうだった。
とはいえ、いつまでも逃げ切れるとは限らない。レオナールの足はすぐに止まった。遥か上空で待機していた樹流徒が急降下して、レオナールの行く手を塞いだのである。
「私を殺す気か? それは止めた方が良い。お互いのためにもっと良い選択を探すべきだ」
この期に及んでもレオナールの態度は冷静だった。
しかし、今回に限って樹流徒には相手の態度など関係無かった。
命乞いも弁明もしなくていい。樹流徒は、レオナールに対して心の中でそう言った。自分で自分が冷静でないと分かった。頭が熱くなっている。でも、それで良い。この怒りは、消してはいけない。
戦いは嫌いだが、儀式の実行犯である眼前の悪魔を倒すことに樹流徒は何の躊躇いも無かった。
「貴様……いや、お前は、フラロウスと戦っていた人間、首狩りキルトだな? 落ち着いて聞け。我々の仲間にならないか? お前ならば良い戦力になる。間違いなく主力級だ。私に任せれば、お前が今まで我々の仲間を倒してきた罪を帳消しにするよう取り計らってみせる。冷静になることだ。ここで私を殺せば、お前の気分は一時的に晴れるのかも知れない。だが、それが一体何になる? 死んだニンゲンは生き返りはしまい? 生贄に捧げられた者たちも戻りはしまい? 感情に振り回されるな」
この長たらしい台詞が、レオナールの辞世の句となった。
樹流徒は首狩りの異名に違わぬ一撃を繰り出し、敵にトドメを刺した。