起死回生
樹流徒の足を痛みが襲う。ズキズキと繰り返す、嫌な痛みだった。ただ、幸いにも機動力を奪われるほどの怪我ではない。
大丈夫。何も問題は無い。敵の能力が一つ判明した事と引き換えならば、寧ろこの程度の傷は安い代償。
そう樹流徒は考えた。そう思い込まなければ、強気を保てない。
弱気になれば不思議と勝利はおぼつない。逆に、強気は勢いを呼ぶ。勢いに乗ることと、窮地に追い込まれても決して混乱しないこと。樹流徒はそれらの重要性を、命がけの実戦から学んできた。それが無ければここまで生き延びられなかった。
樹流徒は果敢に敵へ挑む。強い気持ちが乗り移った両足は、いとも容易く彼を敵の懐へと導いた。狙いは悪魔の首。爪を突き上げる。
堅い音が空気を揺らした。オセが杖の腹で樹流徒の爪を受け止めた音だった。
「首狩りが相手なのだからな。首への攻撃を警戒するのは当然だ」
オセの口調は至極落ち着いていた。
爪と杖の鍔迫り合いになる。どちらも全く動かない。下から突き上げる樹流徒と、上から押さえ込むオセ。体勢ではオセの方が断然有利だったが、押し合う力は拮抗していた。
両者の腕はほぼ静止した状態を保ち続ける。
このままでは埒が明かない。樹流徒は空気弾を放とうと密かに息を吸った。
そのわずかな挙動を、黄金色の瞳は見逃さなかったようである。オセは鍔迫り合いをやめ、樹流徒が攻撃を放つよりも早く後方に跳躍した。空気弾の射程外に着地する。
鋭い洞察力と判断力で逃れた悪魔はふん、と鼻から軽い息を漏らす。それから間を置かずに反撃へと移った。杖を樹流徒に向ける。
杖の頭に輝く宝石が、白い光を放った。そのぼんやりとした光はすぐに球体の輪郭を作り、前方へと射出される。途端、周囲に雷を纏った。矢のような速さで標的に迫る。
樹流徒は真上に跳んだ。悪魔の杖から放たれた雷の玉を、かろうじて回避する。跳躍が頂点に達すると火炎弾で反撃した。小さな炎の塊が、敵めがけて正確に飛ぶ。
オセは避けない。杖をなぎ払って火炎弾を弾いた。
軌道を変えた炎の塊は、床にぶつかって細かな火花を散らす。
戦闘はまだ途切れない。樹流徒はたたみ掛ける。着地と同時に炎の玉を連射した。三発の青い球体が、敵を焼き尽くそうと直進する。
オセは回避運動に入った。見た目に違わぬ瞬発力で横に駆ける。攻撃をやり過ごす。
それは樹流徒の思惑通りだった。オセ相手に遠距離攻撃の直撃を奪うのは難しい。炎の玉はあくまで安全に敵の懐へ飛び込むための、いわば牽制に過ぎなかった。
樹流徒は再び接近戦に持ち込む。
オセはそれを受けて立った。
両者は、相手との間合いを細かく調整し、フェイントを交えながら攻撃を交換する。その速さは決して並の悪魔がついてこられるものではなかった。
樹流徒の爪がオセの脇腹を抉れば、オセの拳が樹流徒のこめかみを打つ。
樹流徒の下段蹴りがオセの脛を削れば、オセの踵が樹流徒の肩に突き刺さる。
互いに致命傷こそ許さないが、相手へのダメージを着実に蓄積させていった。手数の多さは全くの五分。激しい打ち合いを演じる。短時間での決着を望む樹流徒としては、半ば理想の展開だった。
この接近戦に決着がついたのは、互いの外傷が大分目立ち始めた頃。オセが、右手に携えた杖を樹流徒の頭頂部めがけて振り下ろした時だった。
樹流徒は前屈みの姿勢になりながら、左足を軸に全身を回転させる。杖が頭上を通過していった次の刹那、上半身を起こしながら地面を蹴った。回転の勢いを保ったまま、やや前方へ跳躍する。空中で体を捻り、敵の延髄に蹴りを叩き込んだ。体を一回転半させての空中蹴りである。回避から攻撃へと動きを連動させた、電光石火の一撃だった。
後頭部を強打されたオセは、前のめりに倒れる。床で四つ這いになった。
眼下の敵めがけて樹流徒は爪を振り下ろす。素早さ重視。攻撃を当てる部位はどこでもいい。兎に角もう一撃奪いたかった。
そうはさせまいと、オセは地に這ったまま右手を振り上げる。杖で爪を防御した。
樹流徒はすぐさま次の一手に出る。石化の息を吹きかけた。これならば杖で防げない。
オセも負けてはいない。次は防御不能の攻撃が来ると読んでいたのだろう。素早く床を転がって、石化攻撃を回避した。あっという間に安全圏まで逃れる。
樹流徒は炎の玉を連射して追撃をかけたが、全て外れた。
豹頭の悪魔は跳ね起きる。床の上でくすぶる青い火種に足下を照らされながら、口元を緩めた。そして、手に持った杖を、腕と脇腹の間に挟む。
「流石は首狩りキルト、と言っておこうか。バフォメットやマルコシアスを退けただけの事はある」
そう言って、相手に拍手を送った。
樹流徒は反応しない。敵の駄辯に付き合うつもりは無かった。それよりも、もう一度オセの懐へ飛び込む機を窺う。接近戦を仕掛け続ければ勝てるのではないか……という手応えを、これまでの攻防から感じていた。
しかし先手を打ったのはオセ。この悪魔は樹流徒たちに勝利するための狡猾な手段を用意していた。
オセは、標的に杖を向ける。但し、その標的は樹流徒ではなかった。
南方とベルである。今、二人は組み合ったまま動けない状態。もし敵から攻撃を受ければ、避けるどころか身を庇う事すら叶わない。
樹流徒は飛び出した。見え透いた敵の罠だと承知した上で、飛び込むしかなかった。オセと南方たちの間に割って入る。
杖の宝石が、赤い光を放った。それは、杖から離れると同時に炎の塊となる。人間の顔よりもひと回り大きい、火炎弾と火炎砲の中間サイズに当たる炎だった。
樹流徒の背中が、炎の塊を受け止める。火の粉が爆ぜた。服は半瞬と持たずに灰と化し、皮膚は焼き爛れる。爆発の衝撃もあった。樹流徒はその場に片膝を着く。忽ち窮地に陥った。
「相手の弱点を突くのは戦いの基本に過ぎない。だが、華麗だろう?」
オセは自画自賛して、足下に魔法陣を展開した。それを踏みつけると、樹流徒の真下にも同じ図形が広がる。
気付いて樹流徒は床を転がった。先刻彼の足を貫いた岩の針が、魔法陣の中から飛び出す。間一髪だった。樹流徒の反応があとわずかにでも遅れていたら、床の上には残酷な光景が広がっていただろう。
もっとも樹流徒に安堵は無かった。危機は去っていない。オセの杖は、南方とベルを指したまま固定されている。
「ほう。よくかわしたな」
オセがそう言った時にはもう、杖の頭に輝く宝石が白光を放っていた。
樹流徒はその場を動くわけにはいかない。動けば、南方とベルに被害が及ぶ。
オセの杖から雷の玉が発射された。確実に命中する事が約束された攻撃だった。
樹流徒は、再び南方とベルの盾になる。両腕を固めて雷の玉を防御した。
樹流徒の全身を電流が駆け巡る。眼前の光景がチカチカと点滅した。体がいう事をきかず、前のめりに倒れる。受身すら取れなかった。
直後、南方がベルを解放する。恐らく、樹流徒を自由に動けるようにするためだろう。
解放されたベルは、南方に襲い掛かる。男に向かってナイフを振り回し始めた。逆に南方からベルには攻撃が出来ない。
一方、電流で硬直した樹流徒の筋肉は、すぐには回復しなかった。いつ回復するかも分からない。一分後には動けるようになるかも知れないし、何時間も動けないかも知れない。
オセは、数歩後ろに下がる。杖を肩に担ぐような格好で構えた。そして駆け出す。短い助走のあと、標的めがけ、杖を槍投げの要領で投擲した。
杖は、樹流徒の額めがけて飛ぶ。
樹流徒は魔法壁で防御した。それしか方法が無かった。
虹色の壁に弾かれた杖は、床を転がる。
「これでしばらくは魔法壁を使えまい」
オセはじりじりと獲物に歩み寄る。
その最中、樹流徒の全身にわずかな感覚が戻った。筋肉の硬直が回復し始めたのだ。あと少し時間が経てば体を動かせるようになるだろう。
もっとも、オセが樹流徒の回復を大人しく待っている理由は無かった。
オセはうつ伏せで倒れている樹流徒の側頭部を強か蹴り飛ばす。
衝撃で、樹流徒の脳内に超音波のような高音が響いた。
オセは樹流徒の背中を片足で踏みつける。そして腕を掴むと、あらぬ方向へ引っ張った。
ゴキンと嫌な音がする。直後、樹流徒の腕に走る鈍痛。腕を折られた。
オセは、樹流徒に残されたもう片方の腕にも同じ事をする。
2度目の嫌な音。筆舌に尽くし難い痛みに襲われ、樹流徒は悶絶した。
「これで両手は封じた。爪も使えないというわけだな」
樹流徒の背中を踏みつけたまま、オセは自身の腰に片手を添える。その態度はいよいよ悠々としていた。勝利を確信したのだろうか。少なくともそれに近い心境である事は間違いない。
「さて。このままなぶり殺しにするのは簡単だ。しかし、それでは畜生同士の喧嘩と何も変わらぬ。華麗に勝つと宣言した以上、もっと別の方法でトドメを刺さねば……」
豹頭の悪魔はつらつらと述べて、ふと気付いたようにベルの方へと視線を流した。
今、ベルの蹴りが南方の首筋を捉える。
南方は短い声を発して後退した。彼はひたすら逃げ回るしかない状態だ。
それを見て、オセはなにやら悪巧みを思い付いたらしい。「そうだ」と声を弾ませ、腰を下ろす。樹流徒の耳元に口を近づけた。
「良い事を考えた。君のトドメを彼女に刺して貰おうではないか」
と、囁く。ベルの手で樹流徒を殺させるつもりらしい。
豹頭の悪魔は腰を上げる。樹流徒の両足首を掴むと、軽々持ち上げた。彼を逆さ吊りにしたまま、ベルの元へ近付いて行く。
樹流徒は下手に逆らわない。無闇に暴れても却って状況が悪くなる。それよりも、今は、反撃もしくは脱出の方法を必死に探すしかなかった。
両腕は折られて使えない。足も掴まれているから使えない。更には、敵に背を向けた状態なので石化の息などを吹きかけるのも不可能。
思いつく限り全ての攻撃が封じられていた。魔法壁も時間が経過しないと使えない。
樹流徒は奥歯を噛む。痛みと焦り、両方と戦いながら、頭を捻る。最後まで諦めてはいけない。
背中の羽を展開して、その衝撃でオセを吹き飛ばせないだろうか……。いや。駄目だ。
思い付いたそばから、樹流徒は即座に却下した。相手が小人型悪魔のチョルトならまだしも、オセには効果が無い。羽を展開したところで相手を吹き飛ばすどころか、指一本動かせないだろう。
「君。こちらを向きたまえ。君の獲物はここだ」
オセが、ベルの背中に声を掛ける。
ベルが振り返った。未だ狂気じみた表情のまま、宙吊りになった樹流徒と視線を合わせる。そして彼に向かって歩み寄った。ベルの両手にはナイフが一本ずつ握られている。
「自らの手は汚さず、敵にトドメを刺す。なかなか美しい勝ち方だとは思わないかね?」
オセの口角が持ち上がった。
南方が走り出す。ベルを止めようと彼女の背後から近付いた。
「邪魔をしないで貰おうか」
オセは足下に魔法陣を広げる。それは、いわば攻撃を発射するための巨大なスイッチだ。
オセは足の裏でスイッチを踏んだ。南方の足下に同じ魔法陣が出現し、そこから鋭利な形の岩が突き出る。
南方は飛び退いた。床を転がって、岩の針を回避した。
が、その先に待っていたのはベルのナイフ。女が振り向きざま投げた銀色の刃が、南方の大腿を捉えていた。
南方は、渋い呻き声を漏らす。
ベルは二本のナイフを所持している。片方は南方の足に刺さったが、もう一本はまだ彼女の手中にあった。それを握り締めたまま、ベルは改めて樹流徒に近付いてゆく。
「さあ。首狩りキルトに死を」
オセは、樹流徒の体を更に高く持ち上げる。樹流徒の心臓を、ベルの目線の高さに合わせた。
ベルはナイフを逆手に持ち替えて、頭上に掲げた。彼女の手が振り下ろされた時、樹流徒の命は無いだろう。
「もう駄目か……」
南方は負傷した足を押さえ、いつになく弱気な台詞を吐く。観念したような表情をしていた。
ベルの手が躊躇いもなく宙を滑る。銀色の凶刃が、樹流徒の心臓を狙って空気を裂きながら走った。
とても小さな、異様に生々しい音が鳴った。床に、血が垂れ落ちる。
続いて悲鳴が轟いた。断末魔の叫びとも思える絶叫が、建物の内壁に反響しながら天井まで駆け上る。
但し、それは樹流徒の悲鳴ではなかった。オセの叫び声である。
また、床に滴る血は、赤ではなく、青。悪魔の血だった。オセの右目にナイフが深々と突き刺さっている。
「ウオオッ!」
オセは樹流徒を地面に放り捨て、両手で目を押さえる。己の身に一体何が起きたのか、理解出来ていない様子だ。かなり狼狽している。
樹流徒は両腕に走る激痛に意識を奪われぬように堪えながら、地面を転がった。敵から離れる。
「上手くいったな。樹流徒君」
南方が若干興奮気味に言う。
樹流徒は無言で相槌を打った。
樹流徒が窮地を脱した方法。それは、念動力だった。念動力は黒アールヴから入手した能力で、手を触れずに離れた物体を動かす事が出来る。樹流徒はその能力を使って、ベルのナイフを操り、オセに奇襲を仕掛けたのだ。
念動力を使っている間、樹流徒の瞳は紫色に変色していた。しかし、オセはそれに気付かなかった。何故なら、樹流徒は敵に対して背中を向けていたから。悪魔に顔を見られない状況だからこそ決まった、起死回生の一撃だった。
ちなみに、南方は樹流徒の顔が見える位置にいた。当然、樹流徒の目が変色しているのにも気付いていただろう。南方がいつになく弱気な台詞を吐いたのは、オセを欺くための演技だったのだ。
オセは度肝を抜かれただろう。このような逆転劇があるとは想像していなかった筈である。
しかも、彼にとって都合の悪い事態はまだ続く。
ベルが、オセに向かって襲い掛かったのだ。彼女が正気に戻ったわけではない。女は狂ったように悪魔の全身を蹴り、殴る。
どうやら、オセの能力はあくまで人を狂わせる効果を持つのであって、人を意のままに操る効果は無いようだ。よって、ベルは無差別に他者へ襲い掛かる。その他者にはオセも含まれている。
反撃の狼煙が上がった。
両腕が使えない樹流徒はネックスプリングで体を跳ねる。何とか起き上がることができた。
かたや、南方は足を引きずりながらどこかへ向かって走り出す。
オセはようやく概ねの事態を把握したらしい。「どきたまえ」と叫びながら、腕を振り払う。ベルの頬を叩いた。
ベルは床に倒れ、更に転がる。壁際で止まった。
オセは目に突き刺さったナイフを抜くと、樹流徒を睨む。
同時、南方が銃を構えていた。ベルが投げ捨てた銃である。男はそれを回収しに向かっていた。
銃に残された弾は一発のみ。南方は戸惑う素振りもなく引き金を引く。
銃口から飛び出した弾は、真紅に輝き火の粉を散らしながらオセに迫った。
オセは虹色の壁を張った。銃弾を弾き返す。
たまらず使用した魔法壁である事は、傍から見て明らかだった。
「貴様」
悪魔がはじめて苛立ちを見せた。荒荒しい動作で男にナイフを投げつける。
南方は、頭を抱えて背中を丸くした。刃物は彼の背中を掠めて後方の壁に跳ね返る。
勝機は今しかない。樹流徒はそう判断して駆け出した。
オセは瀕死の重傷を負ったわけではない。逆に、樹流徒は満身創痍。南方も負傷しているし、ベルも正気を失ったままである。それを考えると、これ以上戦いを引き延ばせば敗色は濃厚だった。次の一手で必ずオセを仕留めなければいけない。
樹流徒は敵の側面から突っ込む。気付いたオセがそちらに体の正面を向けた。
互いの間合いが縮まる。オセの長い足をいっぱいに伸ばせばかろうじて樹流徒まで届きそうな距離まで接近した。
ここで、樹流徒は体を捻り跳躍する。彼が、最後の一手に選択した攻撃は、俗にいう旋風脚。回し蹴りの一種だった。
樹流徒が宙を舞った瞬間、南方が「えっ」と驚声を発した。
無理もない。幾ら樹流徒の両腕が使えないとはいえ、最後の攻撃に蹴りという選択は、普通に考えれば有り得なかった。理由はこの上なく単純で、仮に渾身の回し蹴りが敵の急所に当たったとしても、オセを倒すだけの威力は無いからだ。石化の息や火炎砲などを選択した方が、余程望みはありそうだった。
オセは上体を反らす。樹流徒の攻撃を回避しようとする。
樹流徒の足は、どう見ても敵まで届きそうになかった。まるで遠近感を失ったかのような蹴りである。片目が潰れたオセならばまだしも、両目をしっかりと見開いた樹流徒が繰り出したとは思えないような一撃だった。
オセは笑った。誰が見ても笑ったとはっきり分かるくらい口の両端を持ち上げた。相手の反撃をやり過ごしたと確信したのだろう。
ドサッ、と、重い荷物を床に落としたような音がする。
樹流徒が墜落した音だった。着地の衝撃が彼の両腕に痛みを与える。全身の毛が一斉に逆立ちそうな痛みだった。
数秒遅れて、ゴトリという鈍い音。樹流徒が着地した時よりも大分控え目な音だった。
それは……頭部が落下した音だった。オセの首と胴体が分離している。
豹頭が床を転がっていた。
樹流徒のつま先から、長く鋭利な爪が飛び出している。それは、オセが勝利の笑みを浮かべた瞬間、青年の靴を貫いて外に飛び出し、悪魔の首を刎ねていた。
フラウロスの爪である。あの悪魔は手からだけではなく、足からも長い爪が生えていた。樹流徒は宙吊りにされている最中、それを思い出していた。
胴体から分離した豹頭は、青い液体の中心でどこか虚ろな瞳をしていた。
「何故、私が?」
黄金色に輝く虚ろな月が、樹流徒を見つめる。己の敗因を知りたいと訴えている。
「油断だと思う……。多分」
樹流徒は床に倒れたまま、それだけ答えた。
オセは、人間の力を侮ってはいなかった。相手はニンゲンなのだから負けるはずがない、という油断は無かったのだろう。証拠に、豹頭の口から人間を見下す類の発言は一つも無かった。
ただ、オセは戦いそのものを甘く見ている節があった。相手を確実に倒すことよりも、いかにして勝つかを優先してしまった。樹流徒の両腕を折って圧倒的な優位を得た時点で、勝利を確信してしまった。どちらも油断と言う以外ない。
それが、樹流徒の個人的な見解である。
「この私が油断……。私が……」
オセは表情を変えぬまま呟く。
やがて、赤黒い光の粒になって辺りを漂い始めた。