有利か不利か
「そう……。我が名はオセ」
豹頭の悪魔は、南方の独り言に返答する。その声は深く落ち着いていた。
豪胆な悪魔だ。そう樹流徒は思った。
たった三人の侵入者が、千を超えるかも知れない数の悪魔を突破してきた。にもかかわらず、オセの態度は落ち着いている。驚きや焦りといった感情をおくびにも出さない。平静を装っている風にも見えなかった。
「この空間はお前が作ったのか?」
樹流徒はオセに尋ねる。
「そうだ。気に入って頂けたかな?」
オセは隠さず答えた。心なしか得意そうだ。
次、南方が口を開く。
「こんなに広い魔空間は初めて見たよ。大軍を配備したり時間稼ぎをするにはおあつらえ向きだね」
「お褒めに預かり光栄だ」
「いやいや。お陰でここに辿り着くまでに物凄く時間が掛かっちゃったよ。俺たちが必死に走っているあいだ、儀式の方は大分進んだんじゃないの?」
「どうかな。それは私にも分からない」
「おや? 儀式が行われてる事自体は否定しないんだね」
南方が指摘すると、オセは無言でにやりとする。人間の顔とは違うので判断しづらいが、多分笑っていた。開いた口の中には上下二本ずつ立派な犬歯が生えている。
「さて……」
オセは腕を突き出した。手に持った杖の先端が三人の背後にある扉を指す。
「勇敢なニンゲンたちよ。悪い事は言わない。早々に立ち去りたまえ」
と言った。「今すぐそのドアから出て行け」という意味だろう。
「立ち去れって……。もしかして、俺たちを見逃してくれるつもりかい?」
「いかにも」
オセはふ、ふ、ふと上品に笑う。
「正直なところ、私は、天使の犬たちがここまで辿り着けるとは思っていなかった。故に、その健闘を讃え、君たちに選択肢を与えよう」
「へえ。選択肢ねえ」
「そう。無謀にも私に立ち向かって死に絶えるか、もしくは二度と我々の前に姿を見せぬと誓い大人しく帰るか……どちらでも好きな方を選びたまえ」
「話にならないな」
ベルの不愉快そうな声を横で聞きながら、樹流徒は拳を軽く握り込んだ。
「どうする? すぐに結論が出ないのであれば、じっくり相談して頂いても構わないが……」
「熟考してる間に儀式が終わっちゃったら元も子も無いでしょ。大丈夫だよ。俺たち最初から答えは決まってるから」
南方がナイフを構えて交戦の意思を示す。
ベルも敵に銃口を突きつけた。
オセはやれやれと言いたげに首を左右に振る。
「それが君たちの選択か。折角助かる命を拾い損ねたな」
言って、ふんと鼻を鳴らした。
オセの様子が割と穏やかだったのは、そこまで。
「ならば、望み通りここを諸君らの墓標にして差し上げよう」
豹頭の悪魔は目つきを鋭くさせる。全身に禍々しい殺気を充満させると、腕が振り上げ、杖が高々と掲げた。
途端、樹流徒たちの背後で異変が起こる。
扉が消えたのだ。この建物に一つしかない出入口が、跡形も無く消えてしまった。それにより完全な密室が出来上がる。扉があったはずの場所は、周囲と同じ壁に変わっていた。瞬きする間も無い内に起きた出来事だった。
南方が後ろを見返り「あっ」と、少々間の抜けた声を発する。
それで樹流徒も異変に気付いた。背後の扉が消えているの見て、自分たちが閉じ込められた事を知る。
「これで君たちに逃げ場は無い」
オセは黒ずんだ唇の下に舌を這わせる。
樹流徒にさして動揺は無い。確かに脱出は不可能になってしまったが、元々逃げるつもりが無い以上、状況は大して変わっていない。それどころか建物への出入りが不可能になったことで、悪魔の増援も現れなくなる。却って有利になったとすら感じた。
しかし南方が、樹流徒の心を読んだかのような忠告をする。
「樹流徒君。一応念のために言っとくけど、敵の増援はなくならないからね」
「どういう事です?」
図星を指されて樹流徒は多少驚く。それ以上に疑問を覚えた。何故、密室となった空間に敵が入り込んでくるのか。
南方は、その理由を語る。
「不思議なことにね。魔空間ってのは内部からの脱出は防げたとしても外部からの侵入は防げない構造になっているんだ。必ず、魔空間の発生源である悪魔の元に辿り着けるようになっている」
この話が事実ならば、樹流徒たちは石の塔から脱出不可能なのに対し、外の悪魔は塔の中に入って来られる……という現象が起こる。
「ほう。詳しいではないか」
感心したようにオセが言う。南方の話が正しい何よりの証拠だった。
樹流徒は認識を改める。状況は何も有利になっていなかった。もうじき悪魔の増援が現れるのは必至である。石の塔から出られない三人はまさに袋のネズミ。厳しい戦いになりそうだった。
が、ここでオセの口から耳を疑うような台詞が飛び出す。
「安心したまえ。万が一侵入者が現れたとしてもこの建物には誰も近付かぬよう、他の悪魔たちには命じてある」
「なに?」
ベルの表情に不審の念が浮かぶ。
樹流徒は我知らず南方と顔を見合わせた。オセの言葉はそれだけ意外だった。
「なぜだ?」
樹流徒は理由を問う。どうして味方の増援を頼らないのか。
「まさか、正々堂々と戦おうって心積もりじゃないよね?」
南方が続いた。
オセは「当然だ」と答える。それから
「首狩り……というのは君だな?」
黄金色の瞳を樹流徒に向けた。
「首狩り? 何だい、それ?」
南方はベルの顔を見る。
「さあな」
ベルはそっけなく答えた。
一方、樹流徒には心当たりがあった。
メイジから聞いた話によると、樹流徒はベルゼブブ一味の間で“首狩りキルト”と呼ばれ、多少名が売れているらしい。いずれは賞金首として魔界全土に知れ渡る予定だという。
「首狩りよ。君は、悪魔の魂を奪うらしいな? それにより、ニンゲンでありながら悪魔の能力を使う。傷付いた体を癒す力もあると聞いている」
「それがどうしたというんだ?」
「君の能力は非常に厄介だ。いくら追い詰めても、悪魔を倒せばより強くなって復活する。認めたくはないが、我々の天敵と言っても良い」
「なるほど。オマエが味方の増援を嫌う理由はそれか」
ベルが確信したように言うと、オセは笑った。多分、笑った顔をしている。
「ご明察だ。例え私が首狩りを追い詰めたとしても、低級悪魔が一人飛び込んでくれば全てが台無しだ。首狩りはその悪魔を倒し、復活してくる」
言い終えた時、オセは元の表情を取り戻していた。
樹流徒は不気味さを覚える。確かに、悪魔の増援が現れなければオセ以外から魔魂を吸収する事は出来ない。だが、その代わりにオセは単身勝負を挑まなければいけない。三対一だ。それでも尚、オセは増援を不要としている。樹流徒にはそれが不気味でならなかった。きっと、オセには確たる勝算があるのだ。樹流徒たち三人をまとめて相手にしても勝てる自信が……。
「では始めようか。これが君たちの、最期の戦いだ」
不敵な悪魔は目を大きく見開いた。赤い光が瞳孔の輪郭をなぞって走る。その光が一周した時、黄金色の瞳が妖しげな輝きを放った。
得体の知れない、悪魔の先制攻撃。樹流徒は咄嗟に身を固めた。上体を屈め、顔の前で腕を交差させる。直後「あの光を見るな!」という南方の声が耳に飛び込んできた。
妖しい光はすぐに止んだ。樹流徒の体には特に痛みや違和感が無い。
一体、今の攻撃は何だったのか。警戒を強めると……
突如、一室に絶叫が響き渡る。恐らく、ベルの声だった。悲鳴というよりは獣の雄叫びに近い。本当に彼女の声なのか、樹流徒が耳を疑う程の、身震いするような叫びだった。
ベルは銃を投げ捨てる。頭を抱えて叫び続けるその姿は、とても苦しそうだった。
「大丈夫ですか?」
ベルの身を案じた樹流徒は急いで彼女に駆け寄る。
南方が「近付くな!」と大声を発してそれを制した。
反応して樹流徒は足を急停止させる。
が、ベルはもうすぐ目の前にいた。
彼女はふうっと荒く力強い息を吐き出して、腰を回転させる。ハイキック一閃。ベルの足が樹流徒の頬を弾いた。
完全に虚を突かれた樹流徒だったが、頭を引っこ抜かれそうな激しい衝撃を覚えながらも何とかその場に踏みとどまる。瞬間的に揺れる視界の中、ベルの手元が見えた。握り締めたナイフが次の一撃を繰り出そうとしている。
樹流徒は急いで手刀を振り下ろしてベルの手を弾いた。
ベルの手からナイフがこぼれ落ちる。樹流徒はすぐに後方へ跳躍して、相手との間合いを広げた。
「ベルさん。どうしたんですか?」
言いながら女の顔を見て、樹流徒の背筋に軽い悪寒が走る。
ベルの目付きは明らかに尋常ではなかった。長年探していた親の仇でも見つけたかのような形相をしている。
「オセには人を狂わせる能力がある。今の彼女は正気じゃない」
南方が状況を説明する。
お陰で樹流徒はようやく理解できた。ベルは今、催眠術をかけられたような状態なのだ。恐らくオセの瞳から放たれた光を見てしまったのが原因だろう。
これがオセの勝算だったのだ。人間を狂わせ、同士討ちをさせる。数的不利を跳ね返す能力を、オセは持っていたのだ。
「効果があったのは一人だけか。残念だ。三人全員で殺し合えば良かったものを」
オセは、言葉とは裏腹に嬉しそうな声を発する。
「ベルさんを元に戻す方法は?」
樹流徒は南方に尋ねる。
「ゴメン。そこまでは分からない。多分、オセを倒せば……」
そこまで言って、南方は急に口を閉ざした。
ベルがナイフを拾い上げ、南方に向かって突っ込んできたからだ。
ベルは凶器を突き出す。南方は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
するとベルは間髪入れずに反対の手で予備ナイフを抜き、南方の心臓辺りを狙う。
南方が体を捩ると、銀色に輝く凶器が彼の脇下をかすめながら通過していった。南方は脇を使ってベルの腕を挟んでロックする。お互いに両手が塞がった状態になった。
「俺はこのまま彼女を押さえている。樹流徒君はオセを倒してくれ」
南方は苦しい体勢のまま、顎を天井に向けて言い放つ。
「分かりました。敵を倒すまで何とか耐えて下さい」
答えて、樹流徒はオセを睨んだ。
焦りは禁物だが、慎重に戦っている暇は無い。南方が耐えている内に勝負を決めてしまわなければいけない。
樹流徒は力強く地面を蹴った。常人離れした瞬発力で敵との距離を詰める。すっと息を吸って肺に空気を溜めると、それを白煙と共に勢い良く前方に放った。石化効果がある息を敵に吹きかける。
オセは回避する素振りすら見せなかった。悪魔の全身があっという間に白煙に包まれる。
おかしい。こんな簡単に敵が倒せる筈はない。
樹流徒は油断しなかった。
実際、オセは無事だった。虹色の壁がオセの体を囲い、白煙を遮断している。魔法壁だ。
光の壁が消えると、オセは初めてその場から動いた。軽く跳躍して樹流徒の眼前まで迫ると、高身長を生かして鋭い角度で杖を振り下ろした。杖の柄は先端が尖っており、槍のようになっている。それを樹流徒の頭部に突き立てようとした。
今度は樹流徒が魔法壁を張る。頭上から降ってくる杖を弾いた。
オセの「ムっ」という声と共に宙を舞った杖が、カラカラと音を立てて床を転がる。その音が鳴り止んだ時、樹流徒の周囲に張り巡らされた光の壁が消滅した。
今、オセの手に武器は無い。そして魔法壁は一度使用するとしばらくは発動出来ない。オセは魔法壁を使ったばかりで、まだ使用出来ないはずだ。
好機と踏んだ樹流徒は迷わず反撃に出る。リーチの長い爪を敵の胸めがけて放り込んだ。
爪が、オセの厚手のローブと堅い皮膚を貫通する。樹流徒の指に確かな手応えが伝わった。
だが、やや浅い。オセは攻撃を受ける瞬間に後方へ跳んでいた。その分だけダメージが軽減されたようだ。
豹頭の悪魔は俯く。純白のローブに広がる青い血を見つめる。その視線を樹流徒の手元辺りに移して
「その爪はフラウロスのものかね?」
と尋ねた。
樹流徒は答えない。即座に次の行動へ移った。片手を前に出して、空中に魔法陣を描く。
わずかに遅れてオセも魔法陣を展開した。ただし空中ではなく足下に。右足の裏と地面の接点を中心に円を描いた。双方の魔法陣が黒ずんだ紫色の光を放つ。
樹流徒の手元から巨大な炎の塊が放たれた。
直後、オセは右足で地面の魔法陣を踏みつける。ついでにその反動を利用して横っ飛び一発、火炎砲を回避した。手から着地すると、柔軟な体を丸めて床を転がる。
オセが回避行動を取っているあいだ、樹流徒の足下に魔法陣が出現した。オセが描いた魔法陣と同じものだ。そこから鋭利な形をした岩が三本突き出る。足下からの奇襲だった。
初めてこの攻撃を目にする樹流徒に回避する術は無い。足下に出現した魔法陣に気付いた時にはもう、巨大な岩の針に足の裏を貫かれていた。
しまった、と樹流徒が思った時には、岩の針山が魔法陣の中に引っ込んで、魔法陣も消える。一瞬の出来事だった。
「これはあくまで私の憶測なのだが……」
先制の一撃を奪ったオセは静かに立ち上がり、ローブの裾を叩く。
「今まで首狩りと戦ってきた者たちには少なからず油断があったのではないだろうか? “我々悪魔がニンゲン如きに負けるはずがない”。そんな、驕りが……」
「……」
「中にはその驕りが敗因となった者もいるだろう。しかし私は違う」
オセは、床に寝転がっている杖の元へ歩み寄った。
「私は、ニンゲン相手でも決して容赦はしない。全力で戦い、そして華麗にトドメを刺してみせる」
そう言って、つま先で杖の柄を跳ね上げる。
杖は空中で三回転を披露したところで、オセの手中に戻った。