結界
謎の化物と遭遇した場所から一体どのくらいの距離を歩いただろうか。辺りの景色はすっかり変わり、大通りで見た高い建物の群れはもうどこにもなかった。
現在の時刻は不明だが、恐らく深夜になっている。空の様子は引き続き変わらないものの、外の気温は確実に下がっていた。
吹き抜ける冷涼な風を背中に浴びながら、樹流徒は一人真剣な表情を浮かべる。一方、内心では困惑の顔を浮かべていた。
というのも、彼は先ほどからずっと自分の体に異変を感じていたからだ。異変と言っても、病気や怪我の類ではない。もっと別の奇妙な現象である。
それは決して勘違いなどではなかった。なにしろ、樹流徒は最後に目を覚ましてからずっと動き続けているにもかかわらず、微塵も疲れを感じていなかった。息も全く乱れていないし、足もまだまだ元気だった。それだけではない。眠気もなければ、飢えや渇きすら感じなかった。お陰でまだ一度も休憩を取っていない。この状態を「気のせい」の一言で済ましてしまうのは、余りにも無理があった。樹流徒の体には間違いなく異変が起きているのである。
だとすれば、その原因は一体何なのか?
考えるまでも無かった。心当たりはひとつしかない。化物から放出された不気味な光の粒を体内に取り込んでしまったせいだ。思い返せばあのときから既に体の状態はおかしかった。当時蓄積されていた疲労は嘘のように消えてしまったし、化物に傷つけられた頭部の傷も完全に塞がってしまった。
樹流徒は気分が悪かった。人間の死体を貪っていた化物が何らかの形で自分の体内に組み込まれているかも知れないと想像すると、軽い吐き気がした。
当然ながら恐怖もあった。もしかするとあの化物に体を乗っ取られるのではないか、遅効性の毒物を浴びせられたのかも知れない、今起きている体の異変はそれらの前兆現象なのでは? そんな根拠の無い不安が青年の脳裏を次々と過ぎった。
が、何はともあれ、樹流徒は図らずも手に入れてしまった疲労を知らぬ肉体により、とうとう一度も休憩を挟むことなく、目的の場所にたどり着くことができた。
そこは龍城寺市と隣の市との境目。周囲の景色はこれと言って特筆すべきところが無く、全国至る場所で見られる町並みが広がっていた。それでも敢えて特徴を述べるならば、一軒家の民家が多いことぐらいだろうか。本来であれば誰もが見過ごしてしまうくらい、新鮮味に欠けた景色だった。
しかし、そのありふれた景色も現在ではおどろおどろしい雰囲気を纏い、尋常ではない様相を呈していた。辺りには濃い霧が立ち込め、僅か数十メートル先の様子が見えない。樹流徒がもう少し先へ進めば、何も見えなくなって自分が歩いている方向すら分からなくなるかも知れない。
この空中を漂う毒々しい霧も、化物から放たれた光の粒と同様、体に悪影響がありそうで恐ろしかった。だが、仮にそうだとしても今更引き返したところで遅いかも知れない。樹流徒は既に大量の霧を全身に浴び、吸い込んでいる。
樹流徒は正面を横切る道路を見つめる。その片側一車線の車道は、二つの市を区切る境界線でもあった。
青年は境界線を渡る。これで一応龍城寺市から隣の市へと移ったことになる。南方という男は「市が封鎖されている」と言っていたが、一歩も外に出られないわけではないらしい。もっとも、地図に合わせてキッチリ龍城寺市だけが封鎖されていることの方がおかしな話だが……
ならば一体どこまで行く事ができるのか? 樹流徒はそれを確かめるべく、更に奥へと歩を進める。
すると、わずか三分足らずの後だった。
車道に沿って歩いていた樹流徒は、ふと立ち止まる。目を見開き、顔をゆっくりと持ち上げた。
立ち込める霧の奥、彼の前方に巨大な壁が出現していた。現在の空と同色の平面が青年の視界いっぱいに広がって、彼の行く手を遮っている。まるで何も無かったはずの場所にある日突然高層ビルが出現したかのような、奇怪な現象だった。壁が一体どこまで続いているのかは、霧に隠されて分からない。ただ、とにかく大きかった。
非現実的かつ巨大な光景に、青年は寸秒、我を忘れた。
が、すぐにはっとすると、壁の傍まで駆け寄る。見れば、謎の壁は地面を深々とえぐり民家を真っ二つにしながら延びていた。表面からは紫色の霧が緩やかな勢いで放出されている。信じ難いことだが、どうやらこの壁が霧を発生させているらしい。
もしかすると、南方が言っていた結界とはこれのことなのだろうか?
樹流徒は、今一度壁を見上げて、軽く息を飲んだ。
それからややあって、彼は思い切って結界(?)に接触してみることにした。慎重に手を伸ばして壁の表面に触れてみると、プラスチック製品とよく似た滑らかな感触が伝わってくる。握り拳を作って軽く叩くとコツコツと小気味良い音が返ってきた。壁の厚さは不明だが、強い衝撃を加えれば壊せそうな気がした。
そこで実際に思い切り蹴飛ばしてみる。
ビクともしなかった。一発蹴っただけでこれ以上やっても無駄だと分かった。ハンマーで叩いたり、車を激突させてみても、きっと同じ結果に終わるだろう。そう思えるほどに頑丈だった。壁が何の材質でできているのかは分らない。この世に存在する物質なのかすら怪しかった。
どうやら南方から聞いた情報は少なからず本当だった。結界が市内を完全包囲しているかどうかまでは調べてみないと分からないが、巨大な壁が存在していたことは事実だった。
また、魔都生誕と呼ばれる現象の発生から相当な時間が経っているにもかかわらず外部の人間と接触できないという現状も、南方の話に信憑性を持たせていた。
樹流徒はこの現実をを悲観することなく受け入れる。むしろ真相に一歩近づけたことに満足を感じた。折角、そのために行動を始めたのだから……
が、その余韻を味わう暇は殆どなかった。
樹流徒は突然、背後からただならぬ気配を感じる。
振り返ってみると、そこにはいつの間にか人間らしき者が立っていた。
ただし人間であると断言することはできない。その者は二メートル近い巨体で、フードがついた黒いローブを頭からすっぽりと被っていた。しかも右手には鋭利なナイフ、左手には巨大な弓を持ち、無数の矢を背負っていた。