潜入
美しい獣が躍動する。建物の屋根から屋根へと飛び移り、ビルの壁面を垂直に駆け下りた。着地の衝撃で黒い蹄がアスファルトを削る。市民の持ち物が散乱した悪路をものともせずに疾走し、踏み切りで止まっている列車を軽やかな跳躍で跨いだ。看板、標識、ガードレール……進路を塞ぐものは吹き飛ばし、または回避し、直進する。
魔法の馬は、市民ホールまでのおよそ最短距離を走っていた。この獣は、手綱を掴んだ者を望みの場所へと導いてくれる。南方の言った通りだった。
しかし、樹流徒たちの行く手にはベルゼブブの仲間と思しき悪魔たちが待ち受けている。彼らは空と地上の両面に厳戒態勢を敷き、天使の犬をホールに近付けさせまいと殺気立っていた。人間を乗せた馬が通りかかろうものならば容赦なく襲い掛かってくるはずである。
ところが、現実には全く反対の事が起きていた。樹流徒たちは敵の襲撃を一切受けずに街中をひた走っている。悪魔の眼前をことごとく素通りしていた。
何故、このような現象が起こるのか。考えられる理由は一つしかなかった。恐らく悪魔の目には樹流徒たちの姿が見えていないのだ。それが、魔法の馬が持つ能力なのだろう。自身と騎乗者の姿を敵の視界から隠す力。不可視化の能力、とでも呼べば良いだろうか。
更に、この馬は風のように速かった。悪魔たちが物音に気付いて振り返った時、そこにはもう誰もいない。遠ざかる蹄の足音と破壊された障害物だけが残された。
「や。これは爽快だ」
南方はすっかりご機嫌な様子である。
樹流徒も同じだった。南方ほど大っぴらに喜びはしないものの、敵の巣窟を自由に駆け回るのは痛快だった。何より、無駄な戦闘ひいては無益な殺生をせずに済むのが良かった。
市民ホールは、四階建ての大きな建物だった。上空から見ると円形がニつくっついたユニークな形をしており、その姿は瓢箪か雪だるまに見える。丸みを帯びた外壁には一面真っ白なタイルが貼られており、間近で見るとそのタイルも円形がくっついた形をしていた。
建物の出入り口は、非常口を除けば正面玄関と裏口の二ヶ所が存在した。
正面玄関は多くの人が一斉に出入りするため幅が広く、五メートル近くある。扉の前には、やはりと言うべきか異形の生物たちがひしめいていた。その数は五百体をゆうに超える。スタジアム潜入作戦の時とは比較にならない、圧倒的な戦力だった。
一方、裏口や非常口の前にもそれぞれ百体くらいの悪魔が大挙している。こちらも守りが堅い。
樹流徒たちは、正面玄関をやや遠巻きに眺められる道路の真ん中で立ち止まっていた。
周辺の地面は自動車によって殆ど埋め尽くされているため、敵の数は少ない。見張りらしき悪魔がニ、三体うろついているだけだった。但し、上空を仰げば、監視の目を光らせた異形の生物が常に見える。魔法の馬に乗っていなければ、樹流徒たちの姿はすぐに発見されてしまうだろう。
「悪魔がうじゃうじゃと……流石にあれだけ多いと吐き気がするな」
ベルが強い嫌悪感を示す。
南方は「壮観だね」と、皮肉っぽい台詞を吐いて笑っていた。
彼らニ人は、スタジアム潜入作戦には参加していない。三桁を超える悪魔の集結を目の当たりにするのは、初体験かもしれなかった。
正面玄関を守る異形の生物たちは、どこか窮屈そうに蠢いている。彼らは、文字通り足の踏み場も無いくらいに固まっていた。まるで絨毯……。そう、悪魔の絨毯である。
悪魔の絨毯は一見して強固な守りを誇っており、切り崩すのは容易ではない。たとえ令司や(戦闘可能状態の)仁万がいたとしても、強行突破を仕掛けるのは無謀だった。陽動作戦を駆使しても、建物に侵入出来る可能性は極めて低いだろう。
しかし、それはあくまで樹流徒たちが自力で敵陣を突破しなければいけない場合の話である。
今、彼らは敵の守りを崩す術を持っていた。
樹流徒が手綱を握り締める。魔法の馬は臆さずに走り出した。悪魔の壁めがけて驀進する。荒れ狂う一頭の猛牛が、鶏の群れに突っ込んだ瞬間だった。
その先にあるのは一種の地獄絵図。樹流徒たちの進路を阻む悪魔たちは、白馬の足に蹴られ、踏まれ、跳ね飛ばされ、宙を舞い、そして地面を転がる。
当然の如く、大混乱が発生した。悪魔たちからすれば、目に見えない巨大な何かが、蹄の音と共に突っ込んできたのだから、恐怖以外の何者でも無いだろう。混乱しないわけがなかった。
喚き、悲鳴、怒号、ひきつれた叫び、咆哮。様々な声が飛び交う。
その喧騒を背に、白馬は猛然と進んだ。異形の生物たちを跳ね除け、難なく建物に辿り着く。勢いそのまま、入口の扉に頭をぶつけた。
ガラスが派手に砕け散る。扉の枠が仰向けに倒れた。
樹流徒たちはホール潜入を成功させる。守りを固めていた悪魔たちが気の毒になるくらい、あっけなかった。
しかし、直後には樹流徒の緊張が高まる。手綱を握る手にも自然と力が入った。
破壊した扉の奥に、闇が揺らめいていたからである。穏やかな水面のように波動する漆黒の壁。樹流徒にとっては最早お馴染みと言っても良い現象だった。魔空間へ通じる入口だ。
魔法の馬は闇を突き抜けた。
すると、奇怪な空間が侵入者を出迎える。幅十メートルくらいの一本道がずっと先まで伸びていた。果てが見えない。道の両脇は崖になっており数十メートル下は美しく透き通った水で満たされていた。頭上には何も無い。画用紙のように真っ白な空が、無限に広がっている。
「魔空間に足を踏み入れるのは久しぶりだな」
ベルが落ち着いた調子で言う。
対照的に、建物の外では混乱が続いていた。数十体の悪魔が、樹流徒たちの後を追って建物内になだれ込む。一方で、まるで見当違いな方へ駆けて行く者、一目散に逃げ出す者、何故か味方同士小競り合いを始める者たちが続出していた。
また、建物内に踏み込んだ悪魔たちにしても、冷静ではなかった。彼らは魔法の馬を視認出来ない。侵入者を発見出来ず、ただ辺りを見回すばかりだった。
そんな異形の生物たちを尻目に、白馬は加速する。悪魔たちが蹄の音に気付いて騒ぎ始めた頃には、遥か先まで駆けていた。
異質な空間と化したホールの中にも、数多くの悪魔が待ち伏せている。樹流徒たちが五十メートル進めば、十体以上の敵とすれ違った。
しかし、どれだけの戦力を用意しようとも、今回に限っては無意味である。透明の侵入者が相手では、優秀な番兵もタダの案山子と化す。
これならばいける。樹流徒は確信した。
きっと魔空間の奥では儀式が行われている。しかし、この馬がいれば阻止出来る。そう信じて疑わなかった。
巨大な白馬は体力の消耗を見せない。いつまでも、どこまでも走ってくれそうだった。
ところが、樹流徒の期待は突として裏切られる。
これといった前触れも無く、馬の動きが鈍くなったのだ。風を切り裂く韋駄天走りが、普通の駆け足になる。間もなく、荷を背負ったロバの歩みになり、遂には完全に止まってしまった。まさかの失速。まさかの停止。
「どうしたんだ?」
樹流徒は、体を前に倒して白馬の顎を覗き込む。それから素早く周囲を見回した。
馬の足を止めた原因になりそうなものは特に見当たらない。悪魔の数は潜入直後に比べてずっと少ないし、魔空間の光景にも変化は無かった。前方や頭上の視界は開けており、足場も悪いようには見えない。
だとすれば、一体何が原因なのか。馬の疲労、或いは目に見えない怪我や体調不良だろうか。
樹流徒は手綱を離して、強く握り直してみた。
白馬は前へ出ようとしない。それどころか後ろ脚が一歩下がった。
「何故、立ち止まる?」
ベルが訝しむような声で尋ねる。
「分かりません。でも、馬がこれ以上先へ進むのを拒んでいるみたいなんです」
手綱を放しながら樹流徒は答えた。
魔法の馬が足を止めてしまった理由は分からない。ただ、この馬は前進を躊躇っている。まるで、何かに怯えているよう。樹流徒にはそう思えてならなかった。根拠は無い。
「馬が走れないとなれば、ここからは自力で進むしかないね」
南方が早い決断をして、馬から降りようとする。
が、ベルがそれを制した。
「待て。前進するのは良いとして、脱出の時はどうする? この馬なしで逃げられるのか?」
彼女は重要な問題に気付く。
「それは脱出する時に考えます」
樹流徒は即答して馬から降りた。今更引き返すつもりはない。
一方で、樹流徒は仲間を道連れにする気もなかった。
「南方さんとベルさんは引き返して下さい」
彼は二人に脱出を勧める。それから、遠く前方の宙に浮かぶ悪魔の影を見据えた。
「いや。こうなったら最後まで行くよ」
南方は、今度こそ馬から降りる。
「私もそのつもりだ。引き返したいとは一言も言ってないしな」
ベルも続いた。彼女は着地すると、すぐに拳銃を抜く。
彼らの勇断は、樹流徒の心に力強い炎を灯した。
魔法の馬から降りた事により、三人は不可視化の効力を失う。
早速、侵入者を発見をした悪魔たちが動き出した。樹流徒たちの前方から十体弱。後方からは五体。挟み撃ちを仕掛ける格好で集まり始める。
「ここまでありがとう。自力で帰れるか?」
樹流徒は馬に声を掛ける。
彼の言葉を解したのだろうか、白い巨獣は雄雄しく鳴いて身を翻した。そして駆け出す。後方の悪魔を蹴散らしながら、来た道を引き返していった。
「さて。この場に留まって敵を迎撃しても、いずれ新手に囲まれる。多少強引でも先へ進もう」
南方はリボルバー式の拳銃を抜きながら指示を出す。
「そうだな」
ベルは同意しながらトリガーを引いた。銃口から飛び出した弾丸が、接近してきた前方の悪魔を一体撃ち抜く。
「空中の敵は僕が引き受けます」
樹流徒は羽を広げ、飛び立った。
後を追うように、南方とベルが走り出す。三人は、後方から迫る悪魔から逃れつつ、前方の敵を突破するしかなかった。既に後戻りは出来ない。
樹流徒は、空中に飛び出して早々、フラウロスの長い爪でガーゴイルの胸を貫く。悪魔は絶命に至らなかったが、力なく宙を蛇行して、そのまま湖に着水した。
ジュッという音がして、墜落したガーゴイルを中心に水面が激しく粟立つ。少量の白煙が上がったかと思えば、悪魔の皮と肉が溶け、骨と化した。その骨もすぐ魔魂となって消える。
強靭な肉体を持つ悪魔が、わずか数秒で白骨化した。冷や汗が出そうな光景だった。下に溜まった無色透明の液体は、明らかに普通の水ではない。
「アレは強力な酸みたいなものかな。落ちたら助からないよ」
南方は走りながら、心なしか苦い表情をする。
直後、足下に飛んできた火炎弾を回避するために彼は後方へ跳んだ。銃で反撃して前方のデウムスを仕留めると、再び走り出す。少しでも前進したい、距離を稼がなければいけないという気持ちの表れだろう。
しかし悪魔たちも必死だった。ニつの首を持った狼が後方より恐ろしい速さで追いすがってくる。ベルはその対応に回らざるを得なかった。
彼女は至って冷静な様子で引き金を引く。飛び出した弾丸は悪魔の前脚を捉えた。
双頭の狼は寸秒怯んだが、すぐに跳躍。鋭い牙が並ぶ真っ赤な口内を見せて、ベルの喉元辺りを狙う。
が、ベルは銃のトリガーを引きながら、反対の手で別の武器を抜いていた。その、棒状の武器を敵の腹に突き立てる。狙い済ましたように綺麗な一撃が入った。
バチバチと、耳の奥を突く不快音が鳴る。空中に舞った双頭の狼が落下し、地に伏せた。ベルが取り出したのはスタンロッド。以前マルコシアスとの戦闘で使用した武器だった。
スタンロッドから送られる高電圧を受け、悪魔は行動不能に陥る。その横っ腹をベルが蹴飛ばした。双頭の獣は湖に落ち、先刻のガーゴイルと同じ運命を辿る。
ベルは銃を使って後方の悪魔をもう一体葬ると、ようやく前を向いて走り出した。
樹流徒も空中のチョルトやインキュバスを続けざまに撃破する。
競うように、南方も次々と悪魔を討ち取った。男は相変わらず見事な射撃精度を披露し、悪魔の急所を確実に捉えていた。
三人は戦闘を繰り返しながら魔空間の突き当りを目指す。その姿には鬼気迫るものがあった。そして、実際に勢いがあった。
やがて南方とベルの呼吸が速くなり始めた頃。三人の前方より次なる悪魔の一団が迫り来る。数は六。ラミアが三体とエウリノームがニ体。樹流徒がまだ知らない悪魔も一体含まれていた。
それは女の姿をした悪魔だった。顔は少女のようでもあり、大人のようでもある。背は人間よりも低く、一メートルあるかないか。肌は褐色。耳はインキュバスのように長く尖っていた。
「おや……。あれは……“黒アールヴ”じゃないか。初めて……見たよ」
荒れた息を整えながら南方が途切れ途切れに言う。
「スヴァルトアールヴ?」
樹流徒は鸚鵡返しに尋ねた。だが戦闘中である。これ以上会話をしている暇は無い。
体中に傷を纏った老人の悪魔エウリノームが宙高く舞った。狐の毛皮を翻し、鋭く巨大な牙を樹流徒に向ける。
その牙は標的に届かなかった。逆に樹流徒の爪がエウリノームの首を正確に刎ねる。
そのあいだにラミアが一体、樹流徒の数メートル横を通り抜けて、ベルに接近した。
対するベルは敵との間合いを上手く取りつつ、隙を見て一気に飛び込む。素早くスタンロッドを振り下ろした。半人半蛇の悪魔に叩きつける。敵の動きを封じると、銃の代わりにナイフを装備し、悪魔の急所に突き刺した。
三人の戦いぶりは安定していた。お互いの戦い方をある程度理解しているからだろうか。共闘した時間が短い割に、連携も悪くない。敵の数が六体くらいならば、然程苦戦する要素は無かった。挟み撃ちではなく正面からの襲撃ともなれば尚更である。
だがしかし……。
危なげなく勝利するかと思われた戦闘の最中、その出来事は起こった。
敵の数は残り四体。一気に勝負を決めてしまおうと樹流徒が走り出した、その時である。
パスン、と渇いた音が鳴り、謎の衝撃が青年の背中を突き刺した。衝撃は青年の体内を貫通し、彼の心臓を僅かに外して胸から外に飛び出す。
想定外の出来事だった。樹流徒は、己の身に何が起こったのかを、すぐには理解出来なかった。
しかし、襲い掛かる激痛と苦しみが、彼に現状を伝える。樹流徒はようやく後ろを振り返った。攻撃は後ろから飛んできたのである。悪魔がいないはずの背後から……。
樹流徒はぎくりとした。眼前に、自分を襲った凶器があった。
男が手にした銃から硝煙の香りが漂っている。
そう。樹流徒の体を貫いたのは、南方の銃から放たれた一発の弾丸だった。