戦闘
素早く地面を蹴る足音が、樹流徒の心音と重なる。それは加速度的にテンポを速めた。
化物は、背後から接近する青年に素早く反応する。即座に振り返り、その醜悪な形相を樹流徒へと向けた。額からは小さな角が二本飛び出し、瞳は血の如く真っ赤に染まっている。そして口の周りには言葉にするのもおぞましいモノが付着していた。
それでも樹流徒は怯まない。
――ギギィ
異形の生物が甲高い奇声を上げて立ち上がった。樹流徒の奇襲に驚いているか。それとも威嚇のつもりなのだろうか。
もし威嚇なのだとすれば、今の樹流徒に対しては効果が無かった。彼は怒りと興奮の勢いに任せて突っ込む。化物めがけて力いっぱい蹴りを放った。
ボールを壁に叩きつけたような鈍い音が鳴る。化物の体は見たよりもだいぶ軽かった。樹流徒のつま先に腹を強か蹴られた小さな体が派手に地面を跳ねて転がる。そして車のタイヤにぶつかって止まった。
樹流徒は化物がすぐに起き上がってこないことを確認すると、横目を使って、トラックの陰に倒れていた男をちらと見る。
ライダージャケットを着込んだその男は、化物の牙の餌食となり、既に原形を留めていなかった。特に頭部の損傷が激しい。死んでいる。仮に生きていたとしても、助からないことは明らかだ。
樹流徒は吐き気を堪えながら目を逸らした。
異形の生物がウウウと低い唸り声を発しながら起き上がる。先ほどの一撃にどれだけの効果があったかは不明だが、樹流徒の目から見て殆どダメージを負っていないようだった。
樹流徒は再び自ら化物に向かってゆく。小さく跳躍すると、化物の頭部めがけ足の裏を落とした。
それは空を切りアスファルトを踏みつける。化物は身軽な動きで攻撃をかわし、樹流徒の顔に飛びついていた。両手から伸びる鋭い爪を青年の肌に食い込ませ、尖った牙を頭部に突き立てる。
樹流徒は慌てて腕を伸ばし、化物の背中に手を回した。手探りで敵の羽を掴むと思い切り引っ張る。
化物は思いの外簡単に剥がれた。異形の手足が空中でじたばたと暴れる。
樹流徒は敵の羽をしっかり掴んで離さない。そのまま腕を振り下ろして化物を地面に叩きつけた。すかさず足の裏で敵の背中を踏みつける。
二回、三回と踏みつけるたび、化物は奇声を発した。だがその声は樹流徒の耳に届いていない。彼は今、自分の身を守ることで必死だった。ここで攻撃を止めたら化物に反撃されて殺されると思った。
青年は狂ったように足の上下運動を続ける。
やがて異形の生物が沈黙した。
微動だにしなくなった敵を眼下に据え、樹流徒は荒い呼吸を繰り返す。
パタパタと、赤い液体が滴った。樹流徒はそれが自分の頭部から零れ落ちているものだと気が付く。先程化物の牙に噛まれた際に切ってしまったらしい。そのときは酷く興奮していたため何も感じなかったが、今になってじわりと痛み出した。
だが、その痛みを気にしている間はなかった。次の刹那、樹流徒の視界で奇妙な現象が起こる。
化物の体が崩れ始めたのだ。異形の小人は、まるで炎に焼かれた紙みたく徐々に姿を消してゆく。
それと同時に、崩壊する化物の体から光の粒が大量に放出され、空中を漂い始めた。赤黒い、なんとも不気味な色をした光だった。
敵は死んだのか? この光は一体何だ?
樹流徒は、奇怪な現象の連続を前にして棒立ちになる。まるで悪夢の中に佇んでいるような気分だった。
しかも悪夢にはまだ続きがあった。シャボン玉のようにふわふわと漂っていた不気味な光の粒が、急に方向を変える。それらが樹流徒の元へ集まり始めたのだ。
樹流徒は咄嗟に手を払って、光の粒を追い払おうとした。だが光は次々と彼の体内に飛び込む。間もなく全て彼の体に溶け込んだ。
不可解な現象はまだ終わらない。光の粒が消えたと思いきや、今度は樹流徒の全身に力が漲る。先刻まで彼の体を蝕んでいた眠気や喉の渇きまでもが何処かへ消し飛んでしまった。
頭に受けた傷の痛みも嘘のように引いてゆく。樹流徒がそっと傷口に触れてみると、指先はぬるりとした感触と共に赤く染まった。だが、それは先程からずっと流れ出ていた血である。新たな血は漏れていない。傷口が塞がっていた。
普通では考えられない現象だった。出血を催すほどの傷がこんなに早く塞がるはずがない。頭部なら尚更である。
樹流徒は今、己の体に何が起きているのか全く理解できなかった。考えてみたところで恐らく分かりはしない。何せ全てが超現実的だ。目で見たもの、耳で聞いたもの……五感で得た情報を、ただそのまま鵜呑みにする他ない。
樹流徒は努めて冷静であろうとした。事実を事実として受け入れつつ、自身に起きた出来事をひとまず頭から離すことにした。
その代わりというわけではないが、化物について考える。あの異形の生物は一体何者だったのか。
実は、そちらについてはひとつだけ心当たりがあった。正確に言えばたった今思い出したのだ。南方から聞いた悪魔という存在を……
「あの化物は悪魔だったのか?」
樹流徒は独り呟く。
そういえば、今戦った化物は、悪魔という単語から一般的に連想されるイメージをそのまま映したような姿をしていた。角と羽と尻尾を生やした小人……思い出せば思い出すほど酷似している。だからといって本当に悪魔だという証拠にはならないが、同時に「悪魔ではない」と否定することもできなかった。
とりあえず今の段階で言えることは、常識では測れぬ何かがこの地で起こっているということだった。