ユダ
メイジは教室の窓を開け放ち、上枠に腰を下ろしていた。体の右半身を外に投げ出して、うっとりしたような顔で外を眺めている。彼の全身を覆う黒衣の、裾が風になびいていた。魔空間が演出するおどろおどろしい後景も相まって、このときの彼はまるで死神のようだった。
そこには彼以外誰もいなかったが、やがて部屋のドアが開かれる。外を眺めていた死神の顔は室内へと向けられた。
闇の壁を抜けて、樹流徒が姿を現す。彼は、メイジの姿を見付けて寸秒破顔したが、すぐに硬い表情を取り戻した。
「よう。なかなか楽しませてもらったぜ。カーリーを助けるあたり、いかにもオマエらしいな」
メイジは病み上がりのようにゆっくりとした動作で窓の上枠から降りる。床に立ち、肩と腕をダラリと下げた。
「約束通り話を聞かせてもらう」
樹流徒はメイジに近付いた。
「ああ、いいぜ。何から聞きたい?」
メイジは妖しげな笑みを浮かべる。首を少しばかり横に傾倒させた。重力に逆らって伸びる硬そうな髪も、合わせて向きを変える。
「何故、渡会さんと仁万さんを襲った?」
樹流徒が最初に質問する内容は予め決まっていた。相手に聞きたい事は山ほどあったが、先ずはこの話をしなければいけないと思っていた。
「ワタライとニマ? ああ……あの、天使の犬どもか。それとも、イブ・ジェセルのメンバーとでも呼んでやった方が良いか?」
黒衣の青年は、頭の傾きを真っ直ぐに戻す。
「組織の正式名称について知っているのか」
「ああ。他にも色々とな。魔都生誕、鬼の出現、そしてNBW事件も」
NBW事件についてまで知っているのか。
樹流徒は驚き、訝しむ。
NBW事件の被害者であるメイジが当時の記憶を残しているのは必然だった。しかし何故、彼がNBW事件という名称を知っているのか。疑問なのはそこだ。
事件の名称については、組織の者たちですら知らなかった。唯一、砂原だけが掴んでいた真偽不明の情報である。また、鬼という呼称にしても、便宜上必要だという理由で樹流徒たちが用意した呼び名に過ぎない。メイジが知っているのはおかしい。
思い返せば、彼は知り過ぎていた。樹流徒がそれなりに悪魔と戦い慣れている事も、魔魂吸収能力についても把握していた。いつ、どこでそれらに関する情報を得たのか。全くの謎だった。
樹流徒の胸中に嫌な予感が膨らむ。
するとメイジが、樹流徒の肩を叩いた。
「あのよ。オマエ、花蘇芳って聞いたコトあるか?」
薮から棒な質問をする。
「ハナズオウ?」
「そう」
「いや。初耳だ。植物の名前か?」
「ああ。マメ科の落葉低木だ。春になると赤紫色の花を咲かせる。市内でも何箇所か見られる場所があるから、オマエも無意識に見た事ならあるハズだ」
「それがどうしたんだ?」
少しでも早く真実が知りたい樹流徒は、唐突な話を使って遠回しに物事を伝えようとする相手の態度に、つい苛立った。強風の中でかざしたマッチの炎みたく、瞬時に消える憤りだったが……
対照的に、メイジは一定の調子で語り続ける。
「それでな。オレはいつだったか花蘇芳の花言葉ってヤツを調べてみた。確か“疑惑”“裏切り”だったンじゃねェかと記憶してる」
「疑惑。裏切り」
結局のところメイジが伝えたかったのは、この花言葉なのだろう。
疑惑と裏切り。これらの言葉が、一体何を指し示しているのか。樹流徒は沈思黙考する。
話の流れからして、メイジが不自然なまでに色々な情報を得ている事と、花言葉が関係しているに違いない。
メイジは、どういうわけか、樹流徒や組織の人間しか知り得ないハズの事実を知っている。
そして花蘇芳の花言葉は、疑惑と裏切り。
ニつのヒントを照らし合わせれば、結論はアッサリ出た。
ただ、樹流徒はその答えを認めるわけにはいかなかった。現実として甚だ起こって欲しくない内容だったからである。
まさかイブ・ジェセルのメンバーや詩織の中に“裏切り者”がいる?
メイジと繋がっている者。メイジに“報告”している者。言わば、密偵。
樹流徒はすぐにその疑念を捨てた。詩織と組織の人たちを疑うなんてどうかしている、と思い直す。別の答えを求めようとした。
しかしメイジは、樹流徒が頭の中から投げ捨てた回答を拾い上げ、彼に突き返す。
「なあ。オマエのために忠告しといてやるよ。甘さを捨てろ。そうしねェといずれ命を落とすぞ」
「なに?」
「だってそうだろ? オマエはもうユダの存在に気付いてるンじゃねぇのか? 気付きながら目を逸らしてるとしたら、甘いと言う以外ねェよ」
「……」
「だが、いずれ真実は容赦なく牙を剥く。その覚悟だけはしとくんだな」
樹流徒は言葉が出なかった。図星を指されたせいもあるが、それだけではない。メイジの言葉を信じれば、仲間たちの誰かを密偵として疑うことになる。逆に仲間たちを信じれば、メイジの言葉を疑うことになる。
疑いと疑いの板ばさみにあって、樹流徒の心は、急に狭い枠の中に閉じ込められたように身動きが取れなくなった。
ただ、仮にメイジの言葉が全て本当だとしたら、彼が色々な情報を持っている事に説明がつく。辻褄が合ってしまうのだ。その事実は樹流徒も認めざるを得なかった。
「この話はここまでだ。幾ら相棒でも、諜報員が誰なのかまでは教えねェ。というか自力で犯人を探し当ててみな。その方が楽しくね?」
「お前」
樹流徒は眉根を寄せる。メイジが本当に楽しそうな顔をしているのが、少なからず不快だった。
「話を戻そうか。何故、オレが天使の犬を襲ったのか……って質問に答えてやるよ」
「……」
「結論から言えば、あれは試験だった」
「試験?」
「そう。オマエも感付いてるだろうが、オレは今“ある悪魔の集団”と手を組んでいる」
その言葉を聞いて、樹流徒は落胆した。同時に納得だった。「やはりそうか」という文字列が頭の中に並ぶ。
メイジと悪魔の繋がりを信じたくないのはやまやまだったが、それを否定するのは無理がある。状況的な証拠が揃い過ぎていた。何より今、本人が証言した。
「ただ、人間であるオレがすんなり悪魔どもの仲間に入れたワケじゃない。ヤツらにとって人類は脆弱な生き物らしいからな。オレの実力も当然の如く疑われた。そこで、ヤツらはオレの力を信用するための試験を課してきた」
「まさか、その試験内容が、イブ・ジェセルの襲撃なのか?」
「ご名答。人間同士を戦わせることによってオレの力だけでなく心も測ろうって寸法だったんだろう。一種の踏み絵だな。軽く踏み潰してやったが」
「そんなことのために、お前は渡会さんたちを攻撃したのか?」
樹流徒は相手を睨んだ。
それでもメイジの口は三日月型を保つ。
「失望したか? だが、オレはこんな日が来るのをずっと待っていた」
「ずっと? まるで、何年も待ってたかのような口ぶりだな」
「実際にそうだからな」
「え」
「オマエは知らないだろうが……オレが“力”を手に入れたのはNBW事件の発生当日だ。それからずっと、オレは自分の能力を存分に発揮できる世界を待ち望んでいた」
メイジの体が緑色に変色する。背中から六本の触手が飛び出した。
彼の姿は忽ち蜘蛛人間になる。
「事件が発生したときから、ということは……お前、数年前からその能力を使えていたのか?」
「ああ。ただし、力を自在に操れるようになるまでには割と時間が掛かったがな」
「ずっと隠してたのか……」
樹流徒は軽い衝撃を受けた。数年もの間、親友の身近にいながら気付けなかった事実を、今になって知り、驚きと共に一抹の寂しさを覚えた。
「あの事件に巻き込まれた直後……。意識を失ったオレたち四人は病院に担ぎ込まれた。だが、全員が無事に意識を取り戻した。憶えてるだろ?」
「忘れられるはずが無い」
「自宅に帰ったら、親父も母さんも兄弟も、オレの無事を喜んでくれたよ」
「ああ。僕もそうだった」
樹流徒は相槌を打つ。自分の生存を祝福してくれた家族の顔が、鮮明な記憶として残っていた。父、母、弟、妹。皆が素直に笑ったり、変に気を遣ってくれたりもした。そういうこともあって、NBW事件が起こったあの日は本当に特別な一日だったのである。
「だが、あの日の夜。我が家ではちょっとした悲劇が起きた」
と、メイジ。
「悲劇?」
「そう。あれは家族揃って夕飯を食ってる最中だった。オレら一家の笑い声が、突如悲鳴に変わった。オレが初めてこの姿に変身した瞬間だった」
メイジはそう言って、背中の触手を動かす。
その時、彼の笑顔がどことなく寂しげに見えたのは、樹流徒の勘違い、あるいはタダの感傷かも知れなかった。
「だが、オマエも知っての通り、病院の検査ではオレたちの体に異常は見当たらなかった。オレは親父に連れられて別の病院へ行ったが、結果は再びシロだった」
「医者の前で変身能力を見せなかったのか?」
「何となくだが、止めといた方が良いと思った。それに、当時は上手く能力を扱えなかったからな。もし使っていれば、オレの意思とは関係無く検査室の中を血の海にしてたかも知れねェ」
「……」
「病院から帰った後は、多少地獄だった。オレは自分が何者なのか、人間なのかすら分からなくなった。親父や母さんは事件前と変わらない態度でオレに接してくれたが、兄弟たちはオレの存在を気味悪がり、怯えた。今思えば、アレが一番キツかったかも知れねェな」
「そうか、だから……」
メイジは、かつて誰よりも明るく元気な子供だった。太陽のような少年だった。ところが中学生の途中から、太陽は少しずつ月へと変質していった。少年は青年へと成長するにつれ陰を増し、反比例して笑顔を失っていった。
その原因は、数年前の事件だったのだ。
「どうして、僕に相談してくれなかった?」
「オマエも事件の被害者だからな。この体について話せば、オマエも自分の体に何が起こるのか、不安になるだろ?」
「僕のために隠していたのか」
樹流徒の胸中に、複雑な気持が芽生える。
自分のためを想って体の異変を隠していた親友への感謝と、それでも打ち明けて欲しかったという、若干裏切られたような気持ちが、交差する。
「さて……。変な空気になる前に言っとくが、オレは不幸語りをしたいワケじゃねェ。そもそも、不幸だと思ってたのは事件発生からせいぜい数日の間ってトコだ。自分が何者か、なんて悩みもすぐにどうでも良くなった。今となっては、この力を手に入れた事を幸運だとさえ感じている」
「それは本心か?」
「当然だろ。だが、そんなオレにも新たな苦悩が生まれた。一体どんな悩みか、オマエに分かるか?」
「いや」
「じゃあ、教えてやるよ。もっとも、答えは前述してるがな」
「良いから聞かせてくれ」
「オレは、折角手に入れた力の使い道が無かった。この力さえあれば社会正義を行おうが、悪に走ろうが、全てがオレの思うままだ。武力も法律も道徳も……何者もオレを縛る事は出来ねェ」
「……」
「だが、家族の存在だけがオレの衝動を抑えた。力を使って好き勝手やれば、両親を悲しませるコトになる。だからオレは何もしなかったし、出来なかった」
「それが、お前の悩みか?」
「ああ。樹流徒だって、悪魔の力を手に入れて同じ気持ちになったんじゃねェか? 力を試してみたいとは思わなかったか?」
「いや」
「そうか。まあいい。兎に角、オレは自分の力を持て余し、苦悩する日々だった」
「……」
「だがある日突然、転機が訪れた」
「伊佐木詩織」
「そうだ。あの女に話し掛けられた日、オマエと一緒に下校をしている最中、魔都生誕が発生した。お陰でオレは全ての身寄りを失ったが、代わりに心を縛るモノは無くなった。そして、市内には悪魔が出現した。オレの力を存分に発揮できる最高の獲物がうじゃうじゃと湧き出てきやがったんだ。こんな素晴らしい状況が他にあるか?」
「でも、お前はその獲物と手を結んだ。渡会さんたちを襲ってまで」
「ああ。そうだ」
「理由は何だ? お前と手を組んでいる悪魔たちは何者だ? その悪魔と一緒に何をしようとしている?」
樹流徒は矢継ぎ早に質問を飛ばす。
「慌てンな。その辺も含めて、魔都生誕から今までオレが何をしていのたか……今から話してやるよ」
窓際に立っていたメイジは、数歩移動して、壁に背を預ける。
そして殊更嬉しそうな顔で過去を語り始めた。彼の瞳はぎらぎらと輝いていた。




