空中戦
巨大孔雀の嘴がいっぱいに広がる。血の如く真っ赤な舌が、広いとも狭いとも言えない闇の中で躍った。
それを見て樹流徒は素早く危険を感じ取る。闇の奥より再び石化の息が放たれるのではないか、と洞察した。
素早い判断は攻撃の回避のみならず反撃をも可能とする。巨大孔雀の動きを読んだ樹流徒は口内から炎の玉を三つ連ねて発射した。敵の攻撃を妨害し、互いの間合いを開いて仕切り直しを図るための、言わば自衛的な攻撃である。
その一手は狙い通りの効果を発揮した。巨大孔雀は今にも石化の息を吐き出しそうだった嘴を閉じて、回避行動を選択する。その巨体からは想像もつかぬ素早い動き出しで空に浮上した。激しく前後する翼が気流を巻き起こし、樹流徒の前髪を軽く揺らす。
連射された炎の玉は、最初の一発が巨大雀の爪に当たり、青い火花を散らした。後続の二発は樹流徒の向かいに建つビルに着弾し、大きな火種をくすぶらせる。
直撃を免れた巨大孔雀は、逃れた先の空で大きな輪を描き始めた。下界を見つめる刺すような瞳は、次に下降する機を見計らっているのだろう。足の爪は炎を浴びて先端を黒く変色させながらも研ぎ澄まされた形状を保ち、引き続き虎視眈々と獲物を狙っている。
対する樹流徒は、一瞬たりとも敵影から目を離すことなく、バフォメットの羽を解除した。石化した片翼は落下すると地面にぶつかり自重の力で真っ二つに砕けた。その際に放たれた硬く冷たい音が、樹流徒に不吉な予感を与える。
同時、上空を旋回していた巨大孔雀が宙から弾き出された。攻撃を仕掛けるつもりらしい。
迎え撃つ樹流徒は、敵めがけて火炎弾を放つとすぐ横へ駆けた。最初の一歩を踏み出した拍子、石化して重くなった靴が自然と脱げる。
樹流徒は屋上の縁から跳躍して、隣のビルへ飛び移った。無事、着地を決める。
虹色の孔雀は火炎弾を胸の真ん中で受けて短い悲鳴を発した。されど微塵も怯まない。数秒前まで樹流徒が立っていた建物に突撃した。
怪鳥に踏みつけられた屋根は容易く瓦解する。何百もの人間を支える事が出来る丈夫な建物が、まるで砂の城みたく脆かった。
巨大孔雀はコンクリートの塵と破片を纏って飛び立つ。獲物が逃げた隣のビルに顔を向けた。
樹流徒は動かない。可能な限り相手を引き付けて迎撃しようという構えだった。あわよくば次の攻防で勝敗を決したいと考えていた。
ところが彼の思惑は外れる。孔雀は獲物に接近するどころか、位置を変えない。その場で静かに開口した。
危険を覚えた樹流徒はすぐさま迎撃体勢を解いて再び駆ける。別のビルへ飛び移り、着地すると、素早く背後を振り返った。
そのときにはもう巨大孔雀が喉の奥から石化の息を吐き出していた。最初に吐き出した煙に比べて、量も噴出する勢いも共に増している。辺りは瞬く間に白一色で埋め尽くされた。
退避していなければ危なかった。樹流徒はひやりとした。
反面、彼はピンチを乗り越えた事で安堵してしまった。心に僅かな隙が生まれる。気の緩みと呼ぶには余りにも一瞬の油断に過ぎなかったが……
しかし巨大孔雀はその一瞬を目敏く見逃さなかったようである。突然翼を暴れさせ風を巻き起こした。
巨大な翼が生み出した横殴りの突風は、屋上にこもった白い粒子を一斉に浚う。それを樹流徒の元へと押し流していった。
一度は回避した石化の息が、風に乗って迫ってくる。樹流徒は気付いて戦慄した。他の建物に飛び移っている暇など無い。回避は不可能だった。
樹流徒は咄嗟に魔法壁を張る。奇しくも敵の翼と同じ虹色の輝きを持つ光が、瞬時に球状の壁を作って、樹流徒の全身を守った。
次の刹那、石化の息が彼の周囲を漂い、そのまま風に乗って流れてゆく。
間一髪、樹流徒は魔法壁に守られて事なきを得た。能力の発動が遅れていたら、今頃、屋上には人間の石像が完成していただろう。
悪魔はゆっくり上昇する。反撃を受ける前に離脱しようというのだろうか。外貌とは裏腹に知能が高い生き物らしい。外見から能力が判断できないのは、魔界の生物にありがちなのである。それについては樹流徒も良く知っていた。
樹流徒は空を睨む。現在の守勢を打破して何とか反撃に移りたかった。いつもより焦っていたかも知れない。戦う時間を長引かせれば、その分だけ令司をアジトに連れてゆく時間が遅れてしまうという焦りである。
樹流徒はバフォメットの羽を再展開した。新しい羽なので石化はしていない。
続いて、地面を蹴って空に飛び出す。敵の背中を追いかけた。
巨大孔雀は、絶えず美しい七色の粒を巻き散らしながら飛翔している。真後ろにつく樹流徒の視界をにわかに悪化させた。
しかし、数秒後にはそれが多少回復する。互いの距離が離れたためだ。
両者の飛行速度には差がある。悪魔がスピードを上げれば、羽の使い方を覚えて間もない樹流徒が引き離されてしまうのは当然の道理だった。そもそも、彼はスピードで敵を上回っていれば、交戦などせず逃げている。
樹流徒は、少しずつ遠ざかる敵の背中めがけて火炎弾を放った。進行方向に向かって吐き出された炎の塊は、両者にとって非常に遅く飛んでいるように感じられる。樹流徒の飛行速度が倍もあれば、彼自身が炎の塊を追い抜いていただろう。
また、姿勢が安定しない空中で発射した攻撃は、やはり命中精度が落ちる。そのような攻撃が敵に当たるはずも無く、あえなく回避された。いや巨大孔雀が回避するまでもなく勝手に外れた。
もっと速く。もっと正確に。攻撃を撃ち込まなければならない。
樹流徒は敵に掌を向ける。強い風圧で揺れる腕を必死に固定しながら、魔法陣を浮かび上がらせた。
六芒星の中から出現した青い電撃が宙を突き抜ける。速度は申し分ない。方向も悪くなかった。
その一撃は見事敵に命中する。雷光が孔雀の全身を駆け巡った。
ところが巨大孔雀は全く意に介していない様子である。叫び声を上げる事もなければ、動きに微塵の変化も見せない。電撃は全く効果が無いのだろうか。
樹流徒は厳しい表情をした。それもそのはず、彼はもう他に有効そうな攻撃能力を有していない。空気弾は速度があっても射程距離が短過ぎて標的まで届かない。高速で空を飛びながら毒霧など吐こうものならば自分の顔にかかってしまうだけだ。追いかけっこをしながら敵を撃墜するのは、実質上不可能だった。
ならば、悪魔に攻撃を加えられるのは、お互いが向かい合っている時のみ。
そう判断した樹流徒は、迷わずに反転した。敵に背を向けて全力で飛ぶ。
両者はそれぞれ逆方向へ突き進む。間合いが一気に広がった。
すると巨大孔雀は、獲物が逃げると思ったのか、直ちに転進して追跡を開始する。
“追う側”と“追われる側”が入れ替わった。悪魔は恐らく全力に近い速度を出しているのではないだろうか。樹流徒との距離をぐんぐん縮めてゆく。
樹流徒はさっと後方を確認する。敵の姿を視認すると、あとは勘で互いの距離を測りながら、ビルの外壁めがけて飛んだ。
そして、間もなく悪魔が獲物に追いつこうかという時。
樹流徒は建物がすぐ眼前に迫ると、急ブレーキをかけ、足を前に出した。そして灰色の壁面を思い切り蹴りつける。その反動を利用して、進行方向を百八十度変更。巨大孔雀に向かって真正面から飛び込んだ。
相手に合わせて急停止した巨大孔雀は、きっと度肝を抜かれたに違いない。翼を暴れさせて浮上しようとする。樹流徒の攻撃が当たるのが先か、孔雀の回避が先か。傍目には非常に微妙なタイミングだった。
その際どい勝負を制したのは攻撃側だった。樹流徒は右手一本で孔雀の片翼を根っこから切り裂く。切り裂きながら飛翔する。指先からは長い長い爪が伸びていた。彼が今まで接近戦の主力として使ってきたチョルトの爪ではない。
それは豹頭悪魔フラウロスの爪だった。樹流徒を苦しめた、あのリーチの長い爪である。短い爪では巨大孔雀の分厚い翼を一太刀の下に切断するのは不可能だ。フラウロスの長い爪はその不可能を可能にした。
翼をもがれた悪魔は奇声を発しながら落下してゆく。残った片翼を必死に動かしているが、どうにもならない。虹色に輝く巨体は宙をふらふらと彷徨い、最終的に頭からビルへ突っ込んだ。窓ガラスが飛び散り外壁の一部が崩れる。
樹流徒は素早く敵の後を追って下降した。そして敵の背中に着地する。
巨大孔雀は建物に突っ込んだ頭が抜けないらしく、身動きが取れなくなっていた。首を小さく押したり引いたりして脱出を試みている。
仮にこのまま巨大孔雀が建物から脱出しても、片方の翼を失ったままではまともに戦えないだろう。最初樹流徒はそう思ったが、すぐに認識を改めた。見れば、孔雀の翼が再生を始めているのである。傷口がシュルシュルと妙な音を立てて白い泡を吹き出しながら、驚異的な速さで新たな細胞を生み出していた。巨大孔雀はまだ勝機を失っていない。
「動くな。大人しくしていれば命は取らない。だが動けば斬る」
樹流徒は厳しい口調で警告を与える。そして願った。そのまましばらくジッとしていてくれ、と。
だがその想いも虚しく、孔雀は勢い良く首を引っぱる。言葉が通じない悪魔なのかもしれない。
巨大孔雀が暴れるたびに外壁やガラスに新たなヒビが刻まれた。建物内に閉じ込められていた頭部が七割方外に出る。一緒になって外へ飛び出したデスクやロッカーが落下し、数枚の書類がはらはらと舞った。
建物に突っ込んだ巨大孔雀の頭が抜けようとしている。再生した翼を手に入れた怪鳥が、完全に解き放たれる事になる。
樹流徒はもう決断するしかなかった。腕を振り下ろす。
巨木の如き太さを持つ敵の首に、長い爪を食い込ませた。力を込めると、いとも簡単に肉と骨を切断する。使用者である樹流徒自身がぞっとするほどに恐ろしい切れ味だった。
首と分離した巨大孔雀の体が青い血を流しながら落下してゆく。道路に散乱する車を三台まとめて押し潰し、派手な音を轟かせた。
再生能力を持つ悪魔とはいえ、首を切り落とされれば絶命に至るようだ。地面に追突した巨大孔雀の体から魔魂が放出される。建物に突き刺さったままの頭部も同様に赤い光の粒となり、樹流徒に取り込まれた。
樹流徒は振り返って空を仰ぐ。虚しい勝利の余韻を振り払うように、すぐその場から飛び去った。