絶望の中で
相馬家は白い外壁と紺色の陸屋根が特徴のデザイン住宅だった。間取りは4LDK。主寝室とガラス戸一枚を隔てて小さなバルコニーがある。庭の敷地は車ニ台分のガレージが大半を占拠し、家庭菜園用の狭小な花壇が隅に設けられていた。
庭を越えた先は隣家の敷地となっており、相馬家と同程度の大きさを持つ一軒家が建っている。そのまた隣にも、更にその隣にも、似たような住宅が軒を連ねていた。相馬家はこの住宅地の中で特に目立った点も無い、至って普通の民家だった。
今、その相馬家に近付こうとする一つの影があった。高校の制服に身を包んだ青年が険しい表情を下げ、やや足早に歩いて来る。
それは紛れも無く、家族の安否を確認すべく帰宅してきた樹流徒の姿だった。
謎の男・南方と別れたあと、樹流徒はすぐに公園を出た。急いで元来た道を引き返し、特に何事も無く自宅に辿り着いたのである。道中で他の生存者と出会うことを期待したが、それは叶わなかった。
樹流徒は一定の歩調で自宅の庭を通り過ぎ、玄関の前までやってきたところで立ち止まる。
とうとう家に着いた……。帰ってきてしまった。
心の中でそう呟いて、冷たく閉じられた眼前の扉を見つめる。呼吸は軽く乱れていた。心音も速い。それが緊張のせいなのか、それとも息切れのせいなのか、樹流徒自身でさえ良く分からなかった。
彼は微かに震える息を吐く。それから意を決してドアノブに手をかけた。普段、樹流徒が学校から帰宅してくると必ずと言って良いほど家の中には誰かがいて、玄関の鍵は開いている。今日も例に漏れずドアノブは抵抗無く回った。
扉が開いて隙間が生まれる。その中へ、樹流徒は緊張で少し硬くなった体を滑り込ませた。
家の中は物音ひとつ無い。人の気配が全く感じられなかった。不気味な静寂に包まれて樹流徒は言いようの無い不安に襲われる。何年も暮らした家のはずなのに、知らない土地に住む他人の家を訪れたような心地だった。
眼下には見慣れた靴が並んでいる。弟のスニーカーが雑に脱ぎ散らかされ、妹の靴はきちんと踵を揃えて置かれていた。秋になってから母が毎日履いているローヒールパンプスもある。しかしそれらもまるで他人の私物に見えた。
樹流徒は固唾を飲み、家に上がる。床は硬く冷たい。突き当たりに見えるドアがやけに遠く感じた。
それからしばらくして、玄関の扉が勢い良く開かれた。すぐに激しい音と共に閉じられる。
家の中から飛び出してきた樹流徒の顔は少し青ざめていた。呼吸も、心臓の鼓動も、家に入る前より数段速くなっていた。
樹流徒は、家の中で家族との対面を果たした。ただし誰とも言葉を交わすことはなかった。息をしている者がいなかったのだ。皆ぞっとするほど青白い姿に変わり果てていた。
母は台所の食器棚付近で倒れ、その傍には床に落下した平皿の破片が飛び散っていた。弟と妹は二階の一室で重なるように倒れていた。仲良くビデオゲームで遊んでる最中だったようである。
樹流徒は視線を落とす。一瞬、地面が歪む幻覚に襲われた。玄関の扉に背を引きずりながら座り込む。頭を抱え両手で前髪をくしゃりと握り締めた。
現実を受け止めるためには少し時間が必要だった。もちろんこの結果を予想していなかったわけではない。前もって最悪の状況を覚悟していた。
だが、人は何でもかんでもそう簡単に割り切れる生き物ではなかった。実際に家族の死と対面して、樹流徒の頭の中は滅茶苦茶になった。
やがて彼は力なく立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出した。行くあてなど無い。とにかくこの場から離れたかった。
何かから逃れるように、ただただ足を動かす。
それからどのくらい歩いただろうか。自分が今どこにいるのか良く分からない。家を飛び出してからどれだけ時間が経ったかも曖昧に感じてきた頃。
茫然自失の状態で彷徨っていた樹流徒は、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
途端、喉の渇きと足の疲労を思い出して、彼はすぐ目の前に建つマンションの階段に腰を下ろす。そしてぼんやりと空を見上げた。
あれから頭上の様子は全く変化が無い。空は黒っぽい水色を保ち続け幻想的な光を地上に注いでいる。陽が昇ることもなければ、沈むこともない。そのため今が何時なのか見当がつかなかった。
樹流徒は前屈みになって首を垂れる。壁際に小さな羽虫が一匹転がって、微動だにしなかった。ほぼ静止した世界だ。乾いた風に揺れる草木と、瞼にかかった前髪の端だけがかろうじて視界の中で動いていた。
意図的に深い呼吸を何度か繰り返したあと、樹流徒はこれからのことを考え始めた。今後自分がどう行動すべきなのか、何を成せばよいのかを模索しようとした。
それは一種前向きな思考だったが、同時に逃避でもあった。樹流徒は家族を失ったショックから早々に立ち直ったわけではない。ただ、何も考えずにいると家の中で見たおぞましい光景が脳裏に蘇ってくる。だから無理矢理他のことを考えるしかない。頭を働かせずにはいられない。
辛い記憶と現実からの逃避……彼が先の事を考えようと思ったのは、それが一番の理由だった。
とはいえ、過去と現実から逃げているだけではいけない。それは樹流徒にも分かっていた。彼の心には、前に進まなければいけないという気持ちも少なからずあった。
樹流徒は頭を悩ませる。これまで生きてきた十七年の中でこれほどまで真剣に物事を考えたことはなかった。
一体、これからどうすればいいのか。突然足下に現れた巨大な底なし沼から抜け出そうとするかのように、或いは一寸先に広がった闇から光を探すように、必死に頭を動かす。
程なくして、樹流徒の中に四つの選択肢が浮かんだ。
一つは大人しくどこかに待機して外部からの救援を信じて待つこと。
一つは自分以外の生き残りを探して歩き回ること。
一つは被害が及んでいない土地への脱出。ただし南方という男によればこの土地は現在封鎖されているらしい。それが事実ならば脱出は不可能かもしれない。
そして最後の一つは、この事件の真実を探すこと。南方が魔都生誕と名付けた今回の現象……それに関する秘密を暴くこと。
全ての選択肢が出揃った後、樹流徒は殆ど迷うことなく決断を下した。もしかしたら複数の選択肢など用意するまでもなく、心の奥底では最初から答えが決まっていたのかも知れない。
彼が選んだのは、真相の究明。
今回の事件が悪魔の仕業だろうとそうでなかろうと、このまま何も知らずにいるのは耐え難かった。この市内で何が起きたのかを確かめたい。そこに何者かの意思や思惑が介在しているならば、その人物或いは集団が一体何の目的で魔都生誕を引き起こしたのかを知りたい。
自分一人だけの力で何を確かめられるのか、分からなかった。そもそも一体どこで何を調べたら良いのかすら知らない。
また、仮に全ての真相を知ったとして、その後どう行動するかも今は何も考えていない。先行きは全くの不透明。真っ暗闇だ。
だがそれでもやると、樹流徒は決めた。
意思が定まったら最早ジッとしていられなかった。嫌な記憶や絶望感が頭をもたげる前に腰を上げる。
まずは本当に市内が封鎖されているかどうかを確認しに行くことにした。手持ちの情報では他に確かめられることが無い。
樹流徒は遠方の景色を覆い尽くす紫色の霧を目指して歩き始める。その奥に市を封鎖している壁・結界があると南方は言っていた。