第53話 盤上の数字、盤外の真実
宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン
翌朝も、夜明け前に叩き起こされた。
だが今日は御用聞きではなかった。
「昨日の続きです。座ってください」
勘太は黒板を俺の前に置いた。
昨日リラが作ったものだ。
まだ真新しい。
俺は黙って座った。
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文字の次は算術だった。
勘太は板に数字を書き、俺に問いかけた。
足し算、引き算。
最初は簡単だったが、すぐに複雑になっていった。
「鹿三頭を五等分するとどうなりますか」
「……三頭を五つにはわけられん」
「なぜですか」
「鹿は生き物だ。頭数で数えるものだ」
「では、鹿三頭分の肉を五等分するとどうなりますか」
俺は考えた。
三頭分の肉。
それを五つに分ける。
「……一頭分より少なくなる」
「そうです。では、どれくらい少なくなりますか」
俺は口を閉じた。
どれくらい、と言われても。
「鹿の大きさによる」
「正解です。では、その大きさの表し方をおぼえましょう」
勘太は静かに頷き、板に数字と文字を書いていく。
正解、と言われたのは初めてだった。
だが、素直に喜べない何かがあった。
(……これは褒められているのか、それとも次の罠への誘いか)
警戒しながら続けた。
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昼食を終えた頃、俺の集中力は限界だった。
文字の次は算術。
算術の次はまた文字。
座ったまま、板とにらめっこを続けて丸一日。
オオカミと戦う方が、よほど頭を使わずに済む。
勘太がふと顔を上げた。
「少し外に出ましょう」
「……授業はどうした」
「外でもできます。ついてきてください」
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連れて行かれた先は、コタンの中ほどにある、少し大きめのチセだった。
入り口に干し魚や毛皮が吊るされ、出入りする人の数が多い。
「ペンリウクさんのところです」
勘太が言った。
そういえば、この名には聞き覚えがある。
勘太がうちに居候することになったのも、元はこの男の紹介だったと聞いている。
「コタンの交易を一手に引き受けている人です」
中に入ると、四十がらみの恰幅のいい男が、
積み上げられた荷物の間で帳簿らしきものを眺めていた。
「おお、勘太か。今日は何の用だ」
「特に用というわけでもないのですが、近くを通ったので顔を出しました。
最近は商売の方はいかがですか」
勘太は子どもらしい愛嬌のある笑みを浮かべて言った。
俺が知っている勘太とは、少し違う顔だ。
ペンリウクは鷹揚に笑い、近頃の仕入れの話を始めた。
松前からの荷が遅れていること。
昆布の値が上がっていること。
替わりに毛皮の引き合いが強いこと。
勘太は相槌を打ちながら、時折短い問いを挟んだ。
どこから来た荷か。
誰が買いに来るか。
何と何を交換することが多いか。
世間話のように聞こえたが、勘太の目は笑っていなかった。
(……情報を集めている)
俺はそれを黙って見ていた。
ひとしきり話が続いたところで、ペンリウクが俺の方を向いた。
「そういえば、セタリ。
お前さんが鹿を持ってきてくれれば、欲しいものを取り寄せてやるぞ。
何かあるか」
俺は少し考えた。
欲しいもの。
今すぐ思い浮かぶものが、何もなかった。
弓はある。タシロもある。
食うものには困っていない。
「……今は思いつかない。思いついたら頼む」
ペンリウクは満足そうに頷き、仕事に戻っていった。
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帰り道、二人並んで歩いた。
「戻ったら夕食まで算術の続きです」
勘太が言った。 俺は溜息をついた。
夕食の膳を前にして、勘太が口を開いた。
「今日のペンリウクさんとのやりとり、良かったですよ」
「……あんなのでいいのか。 欲しいものも思いつかなかったのに」
「それでいいんです。 思いつかないのに、あるふりをする方が良くない」
「……そういうものか」
「ああいうやりとりを『社交辞令』といいます。
毒にも薬にもならない話のやりとりです。
だが、それが人と人を結んでいく」
俺は箸を止めた。
「毒にも薬にもならないのに、なぜ結べる」
「顔を見せるだけでいいんです。
ここにいる、忘れていない、という意思を伝えるだけで、 人は安心します。
……ペンリウクさんは今日、セタリさんの顔を見て満足しました。
それだけで十分です」
俺はペンリウクの顔を思い出した。
仕事に戻るとき、確かに機嫌が良さそうだった。
あれが、そういうことだったのか。
食事が進んだ頃、勘太が唐突に言った。
「算術の問題をもう一つ」
「……飯の最中か」
「どこでもできます。
鹿一頭と酒一樽を交換するのと、 鹿肉二頭分と酒一樽を交換するのでは、どちらが得ですか」
俺は即座に『鹿一頭』と言いかけた。
(……待て。こいつがこんな簡単な問いを出すわけがない)
鹿一頭。
鹿肉二頭分。
何が違う。
鹿一頭は丸ごとだ。
肉だけではない。
皮もある。
骨もある。
内臓もある。
鹿肉二頭分は肉だけだ。
皮も骨も含まれない。
それに、一頭分の肉の量については何も言っていない。
大きな鹿の一頭分と、小さな鹿の一頭分では、まるで違う。
だが、叔父が加工した皮は引き合いが強い。
鹿一頭は皮の価値もある分、鹿肉二頭分より価値があるはずだ。
俺は慎重に答えた。
「……鹿肉二頭分の方が得だ」
勘太はにこやかに笑った。
正解か、と少し期待した。
「残念。答えは『分からない』です」
また騙された。
「鹿が不猟ならどちらにしろ損です。
逆に鹿が豊富なら、どちらでも大した問題じゃない。
酒の値がどれほどか、鹿がどれだけ獲れているか。
判断するには情報が足りなさすぎます」
俺は箸を置いた。
「……では、どうすれば分かる」
「情報を集めることです。
今日のペンリウクさんとのやりとりも、そのためです。
松前からの荷が遅れているなら、酒の値は上がる。
毛皮の引き合いが強いなら、鹿の価値も上がる。
そういう話を積み重ねることで、初めて判断できるようになります」
俺は今日のペンリウクとの世間話を思い返した。
あれは世間話ではなかった。
勘太にとっては、最初から情報を集めるための場だったのだ。
「……ただし」
勘太が続けた。
「鹿一頭と即答しなかったのは、偉かったですよ」
俺は返す言葉を探した。
また騙された。
だが、少し褒められた。
まだまだだ。
だが、あの役人の前で拳を握りしめるだけだった自分とは、 少しだけ違う自分がいる気がした。
チセの外では、春の夜風が静かに吹いていた。
明日は18時に投稿します。




