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第52話 家族の名を記す

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 その日は、外に出ることなくチセにこもりきりだった。


「セタリさん。今日は字を覚えてもらいます」


 朝食を終えるなり、勘太がそう言った。  

 俺は箸を置き、勘太を見た。


「……和語の字か」


「ええ」


「なぜアイヌが和人の字を覚えなければならない」


 俺は静かに問いかけた。  

 怒鳴ったわけではない。  

 だが、腹の底から滲み出るような重さが、その一言に込もっていた。


 勘太は少しも怯まずに答えた。


「敵の言葉を知らずして、どうやって敵と戦いますか」


 俺は口を閉じた。


 返す言葉がなかった。  

 あの役人たちのことを思い出した。  

 俺が拳を握りしめている間に、あいつは言葉だけで奴らをいなしてみせた。


(……くそ)


「わかった。やる」


---


 勘太は炭の欠片と、薄い木の板を二枚持ってきた。  

 一枚を俺の前に置き、もう一枚に何かを書き始めた。


 縦に並んだ、見たこともない記号の羅列だ。  

 あ、い、う、え、お――。  

 五つずつ区切られた文字が、板いっぱいに整然と並んでいる。


「これが和語の文字の全てです。まずはこれを写してください。上から順に」


 俺は手本の板を受け取り、炭を走らせた。  

 最初の一文字。  

 曲線と直線が組み合わさった、奇妙な形だ。


「……こうか」


 勘太は手元を覗き込み、指先で俺の書いた文字の一部をなぞった。


「ここの曲がりが逆です。この線は右へ流れる。もう一度」


 俺はもう一度書いた。


「今度は跳ねが足りない。この端を、払うように」


 また書いた。


「……悪くない。次へ」


 次の文字へ進む。  

 また最初から同じことの繰り返しだ。  

 一文字ごとに、勘太は必ずどこが違うかを告げた。  

 

 線の向き、長さ、払いの強さ。  

 褒めはしない。  

 だが、何が違うかだけは、必ず言った。


 その間、勘太は俺の手元を確認しながらも、別の板に何かを書き続けていた。  

 ちらりと覗けば、細かい文字と印が並んでいる。  

 昨日の御用聞きの続きだろうか。


(……俺を教えながら、別の仕事をこなしているのか)


 歯を食いしばった。  

 オオカミの群れと戦う方が、よほどましだった。


---


 昼を過ぎた頃、俺はとうとう音を上げた。


「……この板は書きづらい」


 炭が木の繊維に引っかかり、思うように線が引けない。  

 力を込めれば炭が折れ、弱めれば線が薄くかすれる。


「そうですね。もう少し待っていてください」


 勘太は涼しい顔で言った。  

 何を待てというのか。


 そのまま黙々と書き取りを続けていると、チセの戸が開いた。


「勘太、できたと思うから確認して」


 リラだった。  

 その両手には、真っ黒に焼かれた平らな板と、白く細長い棒のようなものが握られていた。


「おお」


 勘太が立ち上がった。  

 その声は、俺に指導するときとは、まるで別人のように弾んでいた。


 勘太は板を受け取り、白い棒を表面に走らせた。  

 炭の欠片とは違う、柔らかい感触で白い線が刻まれる。  

 勘太は濡れた布切れで表面を拭った。  

 白い線が薄れ、ほぼ消えた。


「……拭えば消えるのか」


「完全とはいきませんが、十分使えます。  

 炭で板に書くよりずっと楽に線が引けますし、  

 何度も書き直せる。


 すごい。

 さすがリラ、天才だよ」


 勘太が目を輝かせた。  

 俺は黙ってそれを見ていた。


「本当に? うまくいった?」


 リラが頬を紅潮させ、胸を張った。  

 鼻の下を拳で照れくさそうにこすった。


「完璧だよ。焼いた木の板を研磨したのか」


「そう。表面が滑らかじゃないと線がガタガタになるから、それが難しくて。  

 チョークの方は貝殻を砕いて粘土を混ぜてみたんだけど、  

 最初は崩れてばかりで。

 配合を変えて何度も作り直したのよ」


「乾燥させる時間も必要だしな。何日かかった?」


「五日。……失敗も入れると、もっとかな」


 リラはそう言いながら、俺の方を振り向いた。


「セタリ、これ使ってみて。

 字の修練をしているんでしょう? 

 これならいくらでも書いたり消したりできるよ」


 俺は受け取った板と白い棒を、しばらく眺めた。


「……ありがとう。使わせてもらう」


「いいのいいの。

 セタリは私と勘太の命の恩人なんだから。

 これくらい当然、当然」


 リラは笑い飛ばしたが、俺の胸に何かが刺さった。


 最近、リラの姿を見ないと思っていた。  

 薬草採取に出かけないのを、少し休んでいるだけだと思っていた。


 違った。


 あの日のことを気に病んで、薬草採取に行けなくなっていたのだ。  

 だからその代わりに、チセの中でできることを探していた。  

 俺のために、五日間、何度も失敗しながらこれを作っていた。


(……俺は、コタンを見ていなかっただけじゃない。  

 一緒に暮らす従妹のことすら、ろくに見ていなかった)


「なに、しんみりしてんの。早く試してよ。感想が聞きたい」


 リラに急かされ、俺は白い棒を板に走らせた。


 滑らかだった。  

 炭とは比べものにならない。  

 思った通りの線が、迷わず引ける。


「……これは、いい」


「でしょう! 勘太に『化学』を教えてもらったの。  

 薬草を調合するよりも面白いわ。こんな材料でこんなものができるなんて」


 化学。  

 

 聞き覚えのない言葉だが、おそらく勘太が教えたのだろう。  

 リラはすでに目を輝かせて勘太と何やら話し込んでいる。


 俺は二人を横目に、板に向き直った。


(……いくら和人だからといっても、七歳であれだけのことを知っているのは異常だ)


 頭を振る。  

 

 それは今に始まったことではない。


 俺は黙って書き取りを再開した。  

 朝から間違いを指摘されてばかりの自分が少し情けなかったが、  

 リラが五日かけて作ってくれたこの板を、無駄にするわけにはいかなかった。


 俺がいっそう真剣に板へ向かっていると、

 背後で勘太がぶつぶつと何か小さく呟いていたがよく聞き取れなかった。



「従妹の献身に答えるためにも頑張らねば、とか考えてるんだろうけど

 実際は俺が教えた『化学』にどはまりしてるだけなんだよな……まあ、ちょうどいいか」

 

 チセには白い棒が板を走る音だけが、静かに響いていた。


---


 日が傾く頃、勘太が静かに言った。


「今日はここまでにしましょう」


 俺は板を眺めた。  

 そこには、今日一日で覚えた文字が並んでいた。


 祖父の名。  

 叔父の名。  

 叔母の名。  

 リラの名。


 そして、一番最後に書いたのは、この和人のガキの名前だった。


「勘太」


 二文字。  

 歪んではいるが、確かに読める。


(……なぜ、こいつの名前を書いたのか)


 自分でも分からなかった。  

 ただ、書かなければならないような気がした。


 勘太はその文字を見て、何も言わなかった。  

 

 ただ、小さく頷いた。


 それだけだった。

【地形描写修正のお知らせ】

一部設定を修正しました。

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