第51話 最初の授業
本日は18時と21時にも投稿します
宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン
夜明け前だった。
「起きてください、セタリさん」
耳元で囁く声に、俺は反射的に飛び起きた。
気がつけば、タシロを握りしめていた。
「……勘太か」
「はい。今日から『授業』です」
チセの中はまだ暗い。
囲炉裏の炭が、赤くくすぶっているだけだ。
「……夜明け前から何をする気だ」
「御用聞きです。一緒に来てください」
俺は舌打ちした。
昨夜、川の淵でどんな約束をしたか、まだ覚えている。
覚えてはいるが、こんな時間に叩き起こされるとは思っていなかった。
「わかった。……少し待て」
コタンの夜明けは、静かだ。
鳥の声より先に、海の匂いが来る。
潮風が丘を越え、チセの隙間から忍び込んでくる頃、空がようやく白み始める。
勘太は迷わず歩いた。
目的地があるのか、あるいは当てもなく歩いているのか、
俺には判断できなかった。
最初に立ち寄ったのは、コタンの外れにある老人のチセだ。
屋根の端が、冬の雪の重みでわずかに傾いている。
「チュプカさん、おはようございます。昨日はよく眠れましたか」
勘太の声は、いつもより柔らかかった。
戸が開き、腰の曲がった老人が顔を出す。
「おお、勘太か。よく来たな」
「屋根のことですが、今日の午後、シモンさんに相談してみます。
もう少し待っていてもらえますか」
「ありがたい。助かるよ」
老人は何度も頭を下げた。
勘太は懐から薄い木の板を取り出し、炭の欠片で何かを書き付けた。
小さな板は、すでに細かい文字や印でいっぱいだった。
(……木簡か。いつから持ち歩いていたんだ)
俺は何も言わずについていった。
次に立ち寄ったのは、漁師の家だ。
網の目が何か所か切れているのを、先週から気にしていたという。
「見せてもらえますか」
勘太は網を手に取り、しばらく眺めた。
それからまた木簡に何かを書き、「直し方を後で持ってきます」と言い残した。
三軒目は、小さな子どもが三人いる家だった。
末の子が、ここ数日咳をしているという。
勘太は子どもの額に手を当て、喉の奥を覗き込み、「サラさんに取り次ぎます」と告げた。
御用聞きは昼食の後も続いた。
四軒目では、狩りに使う罠の部品が壊れていた。
それはシモンに頼めばいいと伝え、「明日の朝、シモンさんに話しておきます」と書き付けた。
五軒目では、祖母の薬が足りないと聞き、リラへの伝言を引き受けた。
一回りし終えた頃には、日が中天を過ぎかけていた。
俺は黙って歩きながら、ずっと考えていた。
あいつは今日、弓を引かなかった。
タシロも抜かなかった。
力を使う場面など、一度もなかった。
ただ、戸を叩き、話を聞き、木簡に書いた。
それだけだ。
なのに、行く先々で老人が目を細め、母親が礼を言い、
男衆が「また頼む」と肩を叩いた。
俺はその全部を黙って見ていた。
「どうでしたか」
帰り道、勘太が問いかけてきた。
どうだ、と言われても。
「……お前は今日、何をした」
「御用聞きです」
「それはわかった。だが、具体的に何をした」
勘太は少し考えてから答えた。
「屋根の修繕はシモンさんへ。
網の直し方は俺が調べて持っていく。
子どもの咳はサラさんへ。
罠の部品もシモンさんへ。
薬はリラさんへ。
……それだけです」
「自分では何もしていない」
「ええ」
「人に頼んでばかりだ」
「ええ」
あっさりと認めた。
「それのどこが凄いんだ」
勘太は少し間を置いてから言った。
「セタリさんなら、屋根を一人で直せますか」
「……直せる」
「網も?」
「……直せる」
「子どもの病も? 罠の部品も? 薬の調合も?」
俺は答えなかった。
「俺も直せません。
だから、直せる人に頼む。
それだけです」
「……それだけか」
「それだけです。ただ……」
勘太は木簡を俺に差し出した。
そこには今日回った家の名前と、それぞれの困りごと、頼んだ相手の名前が、
丁寧に書き付けられていた。
「誰が何を困っていて、誰が解決できるか。
それを知っていれば、俺のような非力な子どもでも役に立てます。
シャクシャイン様が束ねたのも、これと同じことだと思いますよ。
……一人で全部できる必要はない。
誰が何を持っているかを知って、繋ぐだけでいい」
俺は木簡を見つめた。
確かに今日、勘太は何一つ自分の手では解決しなかった。
だが、今頃コタンの各所では、シモンが屋根の話を聞き、
サラが子どもを診て、リラが薬の用意をしているはずだ。
勘太が動かしたのは、人だ。
「……お前、俺にもこれをやれというのか」
「やれとは言いません。
ただ、見てどう感じたか、聞きたかっただけです」
俺は口を閉じた。
何を感じたか。
正直に言えば、腹が立った。
俺には弓がある。タシロがある。
オオカミの群れを一人で屠れる力がある。
それが誇りだった。
だが今日一日、その力は一度も必要とされなかった。
それが、どうにも腹立たしかった。
「……俺にはできん」
「そうですか」
「お前みたいに、へらへら笑いながら頭を下げるのは俺の柄じゃない」
「無理にやれとは言いませんよ」
勘太は静かに笑った。
昨夜、川の淵で見たあの笑みとは違う、子どもらしい、穏やかな笑みだ。
「ただ、セタリさんが声をかければ、みんな喜んで動くと思いますよ。
あなたはコタンで一番強い。
みんな、あなたに認めてほしいと思っている」
「……そんなことはない」
「チュプカさんが嬉しそうにしていたでしょう。
あれは俺に感謝していたんじゃない。
俺の隣にセタリさんがいたから、ああいう顔をしたんですよ」
俺は老人の顔を思い出した。
確かに、俺と目が合ったとき、チュプカは一際目を細めた。
それが……そういうことだったのか。
「まあ、今日はこんなところです。
続きはまた明日」
勘太は何事もなかったかのように、チセへと歩き去っていった。
俺はしばらく、その場に立ったままでいた。
あいつは今日、俺に何も教えなかった。
ただ、一緒に歩いただけだ。
なのに、頭の中に何かが引っかかって離れない。
コタンの中を一回りするだけで、あいつはすべての家の困りごとを把握した。
そして、誰が何を解決できるかを知っていた。
それは俺には見えていなかったものだ。
俺が毎日このコタンで生きていながら、見えていなかったものだ。
(……力だけの一匹狼では、シャクシャインにはなれない)
昨日あいつが言った言葉が、今になって別の重さを持って響いた。
シャクシャインが束ねたのは人の心だと、あいつは言った。
今日俺が見たのは、その「束ね方」の、ほんの欠片だったのかもしれない。
俺はゆっくりと歩き出した。
どうしたものか。
認めたくはない。
だが、認めなければ嘘になる。
今日の『授業』は、悔しかった。
それだけは確かだった。
夜、床に就いても眠れなかった。
あの木簡のことを考えていた。
誰が何を困っていて、誰が解決できるか。
俺はコタンの顔を、一人一人思い浮かべてみた。
チュプカの傾いた屋根。
漁師の切れた網。
咳き込む子ども。
考えていくうちに、俺は気がついた。
俺はずっと原野を見ていた。
獲物を見ていた。
だが、コタンを見ていなかった。
あいつは七歳で、ここに来てひと月足らずだ。
それなのに、俺よりずっとコタンのことを知っていた。
(……何と戦っているんだ、あいつは)
答えは出なかった。
ただ、明日の夜明けが来れば、またあいつに叩き起こされるのだろうと思った。
妙なことに、それが嫌ではなかった。
【地形描写修正のお知らせ】
登山のイメージを避けるため、「山」の表現を「連なる丘」「原野」等へ調整しました。
宗谷地方特有のうねるような地形を再現するための修正です。




