表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/85

第50話:言霊の罠、あるいは悪魔の契約

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 人生には大きな転機がいくつかあるという。

 

 俺の人生にいくつの転機があるかは知らないが、 一つだけはっきりしている。

 

 『悪魔』と契約した日だ。


 その日、昼食のオハウ(汁物)を啜りながら、俺は熱っぽく語っていた。  

 この大地に語り継がれる英雄、シャクシャインのことを。

 一世紀近く前、和人の不当な支配に抗い、アイヌを一つに束ねて立ち上がった偉大な戦士。


 その名を口にした瞬間、向かいに座る勘太の箸が静かに止まった。

 俺は気にせず語り続けたが、勘太は何かを考え始めたように見えた。


「俺もあの方のようになりたい」


 言いながら、知らず知らず拳を握っていた。

 

 俺の言葉に、祖父や叔父貴は黙って頷き、

 リラは半分呆れたように息をついたが、口元は笑っていた。

 叔母も黙って椀に汁を注ぎ足しながら、口元を緩めていた。

 

 だが、炉のそばで静かに碗を置いていたガキ――勘太が、場違いなほど冷静な声を出した。


「シャクシャイン……。彼が束ねたのは人の心です。それが彼の強さだと思いますよ」


 チセの中が、静まり返った。


 俺は箸を置いた。


 勘太の言葉が、胸の奥で妙な引っかかりを残していた。


「……お前は、あの方の何を見ている」


「セタリさんには見えていないものです。

 戦士一人の力では、あの戦いは起こせなかった。

 バラバラだったコタンを一つにまとめた。

 

 それがあの方の本当の力でしょう」


 勘太は、滲みだした俺の殺気に微塵も怯まずに言葉を続けた。


「彼の凄さは指導者としての力、つまり政治力とカリスマ性です。

 セタリさん、あなたが本当に彼を目指すなら、

 他のコタンと情報をやり取りし、エカシさんから『人のまとめ方』を教わるべきだ。  

 

 ……力だけの一匹狼では、シャクシャインにはなれない」


 頭に血が上った。

 俺がこれまで積み上げてきた血の滲むような修練まで、すべて否定された気がした。  

 気がつくと、俺は勘太の胸ぐらを掴み、その小さな体を宙に持ち上げていた。


「殴りたければ、どうぞ」


 勘太の瞳は、まるで深い淵のように静かだった。


「ですが、それで何かが変わりますか?」


 その眼差しに、俺は言い知れぬ気味悪さを感じた。

 獲物を狙う熊よりも、さらに冷徹で、底の知れない何か。

 俺は舌打ちし、勘太を地面に放り投げると、逃げるようにチセを飛び出した。


「やりすぎよ、セタリ!」


 背後でリラの叫ぶ声が聞こえたが、止まる気にはなれなかった。

 俺の誇りは、あのガキの舌先一つでズタズタにされていた。


---


 居心地の悪さに耐えかね、俺は午後の見回りに出た。  

 雪解けの道を荒々しく歩いていると、後ろから小さな足音が聞こえた。


「セタリさん。……的当てで勝負しませんか」


 振り返ると、そこには何事もなかったかのような顔をした勘太が立っていた。

 手には、三重丸が書かれた粗末な木の板を持っている。


「的当て? お前に弓が引けるのか」


「定めは簡単です。

 真ん中に近い方が勝ちです。

 的は……そうですね、セタリさんが好きな場所に置いていいですよ」


 俺は鼻で笑った。

 この和人のガキ、自分の言葉で俺がどれほど傷ついたか分かっていないらしい。

 弓で俺に勝てるはずがない。


「よし。じゃあ、お前には絶対届かない場所に置いてやる」


 俺はいつも修練に使っている、百歩は離れた大きな立ち枯れの木の根元に的を突き刺した。

 戻ってくると、勘太を追い越してク(弓)を構える。


「俺から行くぞ。見てろ」


 集中し、弦を引き絞る。

 矢は空を切り、的の中央からわずかに外れた場所に突き刺さった。

 この距離、この風でこれなら、コタンで右に出る者はいない。


「どうだ。ほとんど真ん中だぞ」


「……遠くてよく見えませんね。持ってきてもらえますか?」


 勘太の言葉に、俺は呆れ果てた。


「はっ、和人は目も悪いのか。……いいだろう、よく見て拝むんだな」


 俺は百歩先の的を取りに行き、それを勘太の目の前に突きつけた。


「どうだ、よく見ろ! ほとんど真ん中だ!」


「本当ですね。素晴らしい精度だ。……ふふっ、さすがですね」


 褒められて、喉の奥のわだかまりが少しだけ溶けるのを感じた。

 

「俺にとっては造作もないことよ。……さあ、次はお前の番だ。せいぜい恥をかけ」


 俺が的を持ったまま笑っていると、勘太は静かに一歩、踏み出した。  

 あいつは弓を構えなかった。代わりに、一本の矢を手に持ち――。


 グサッ。


 至近距離で、俺の持っている的のど真ん中に、手で矢を突き刺した。


「……は? 何をしている」


「何って、的当てですよ。

 セタリさんが決めた通り、的のど真ん中に矢を当てました。

 

 ……的の場所はセタリさんが決めてくれましたしね。

 わざわざ目の前まで持ってきてくれたおかげで、簡単に当てることができました」


(まあ、置いてないけどね)


 勘太は、矢が中心を貫いた的を俺に突き返した。


「ふざけるな! こんなのインチキだ、卑怯者め! 俺は認めないぞ!」


「……だから、あなた方アイヌは和人にやられ放題なんですよ」


 勘太の声が、先ほどよりも一段と冷たく響いた。


「私は最初から『弓の勝負』なんて一言も言っていない。

 ただの『的当て』だ。


 ……言葉にもカムイ(神)は宿るんですよ。

 あなたが負けたのは、言葉のカムイを軽んじたからだ。

 

 ……定めを自分の都合よく解釈し、慢心した。

 その隙を突かれるのが、今の蝦夷地の縮図です」


 俺は、言葉を失った。  

 言い返そうとした口が、小刻みに震える。

 勘太は俺を一度も振り返ることなく、チセの方へと歩き去っていった。


---


 気づくと、俺は川の淵に立っていた。  

 冷たい雪解け水に身を浸し、逆巻く水面を拳で何度も殴りつけた。


「くそっ、くそっ……!」


 ばしゃばしゃと水しぶきが上がり、水面に映る自分の無様な顔が砕け散る。  


 なぜ、あんなに簡単に騙された。

 あいつを子供だと侮っていたからか?

 自分の腕力に溺れていたからか?


 その両方だ。  

 

 オオカミの群れを一人で撃退したことで慢心していた。

 和人の役人には手も足も出せなかったというのに。

 

 自分の土俵であれば負けないと、過信していた。

 その隙を、あいつは「理」という名の刃で切り裂いたのだ。


 ――アイヌは和人にいいようにやられる。


 その通りだ。

 力を鍛えても、知恵を磨かなければ、俺たちは食い物にされるだけだ。


「力が欲しい……」


 呟いた言葉は、水音に消えた。  

 巨木をへし折るような力じゃない。

 暗闇の中でも真実を射抜く、コタンを護るフクロウのごとき「知」の力が。


「力が欲しいか?」


 背後から声がした。  

 振り向くと、そこには勘太が立っていた。

 だが、夕闇に沈むそのシルエットは、昼間の子供のものとは別人に見えた。


「お前か……。何しに来た」


 いつもの人好きのする笑みを浮かべた子供の表情ではない。


「力が欲しいか、と聞いたんだ。答えろ」


 その眼光は、熟練の狩人のような鋭さで、冷徹な光を放っている。

 まるで、遥か古の英雄の霊が、その小さな体に乗り移ったかのような錯覚に陥る。


「どうした? 負け犬のままでいいのか、セタリ」


 負け犬。  

 

 俺はセタリ(犬)。

 

 だが、誇り高きアイヌの戦士だ。


「……欲しい。力が、欲しい。

 お前にも、和人にも、誰にも……コタンを脅かすあらゆる理不尽に負けない力が、欲しい!」


 勘太は、三日月のような不気味な笑みを浮かべた。


「いいだろう。では、俺に従え。


 力をくれてやる。


 ……望み通り、誰にも負けない力をな」


 その日、俺は何か得体のしれないものと契約した。


 それが異国で『悪魔』を呼ばれる存在だと知ったのは、ずっと先のことだった。


 その『悪魔』は、七歳の和人の子どもの姿をして、夕闇の中で不敵に笑っていた。

明日は8時と18時と21時に投稿します

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
勢い! 「なろう」に一番必要なコミカライズとかアニメ化とか バーンと効果音がふさわしい場面。 小説読み とは異なる「これが要るねん」という描写の章を読めて幸せです
人生で言ってみたいセリフの一つやなあ、力が欲しいか?系。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ