第49話:悪神(ウェンカムイ)の肉――毒で毒を制す――
宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン
傷口の糸が肉に馴染み、ようやくまともに腕が振れるようになった頃、
セタリはいつものように原野へ入った。
あいにく罠は空振りだったが、周囲にオオカミの気配はない。
あの地獄のような狂乱が嘘のように、静寂が大地を支配していた。
――いや、静かすぎるのだ。
セタリは鼻を鳴らし、湿った風の匂いを嗅いだ。
本来なら晩春のこの時期、丘の奥深くへ移動しているはずの鹿やウサギたちが、
なぜか怯えたように人里に近い裾野まで降りてきている。
まるで、山の心臓部に、オオカミすら逃げ出すほどの
「巨大な何か」が居座っているかのような、奇妙な静寂。
(……結局、あれは何だったんだ)
あの夜、セタリと対峙したオオカミたちの目は、単なる飢えとは違っていた。
あれは獲物を追う者の目ではない。
背後にある圧倒的な「絶望」から逃れるために、目の前の障害を必死に排除しようとする、
追い詰められた者の目だ。
あの執拗なまでの凶行は、何かに「追い立てられた」結果ではなかったのか。
セタリは、自分の肩に刻まれた「和人の縫い目」を無意識に撫でた。
あの夜から、山の空気は変わってしまった。
山そのものの理が、音を立てて崩れ始めているような不気味さだ。
思案しながらコタンへ近づくにつれ、セタリの肌が粟立った。
――空気が、張り詰めている。
いつもなら走り回っているリラや子供たちの姿がどこにもない。
まるで巨大な捕食者に見つからないよう、コタン全体が息をひそめているかのようだった。
チセ(家)の周りには、見慣れない足跡が複数残っている。
草履でも、革靴でもない、和人の下駄の跡だ。
セタリがチセに足を踏み入れると、そこには見慣れない男たちが座っていた。
「……ほう、こいつがその狼を仕留めたという若造か」
和人の男たちだ。
羽織をまとった役人と、その供の者。
場所柄、騒動を聞きつけてやってきたらしい。
祖父・エカシが平伏し、必死に言葉を選んでいる。
「いえ、大したことはございません。迷い込んだ狼を数匹、追い払っただけにございます……」
「それは重畳。だが、そこに干してある毛皮は何だ? 数匹どころの騒ぎではなかろう」
役人が、室内にずらりと干されたオオカミの毛皮を指差した。
「見事な毛並みだ。ちょうど上役への献上品を探していた。すべて置いていけ」
その傲慢な一言に、セタリの脳内で何かが弾けた。
本来は失われるはずだったものとはいえ、死に物狂いで、命を削って手に入れた「勲章」だ。
それを、戦いも知らぬ生白い男が奪おうとしている。
「……なんだと」
セタリが立ち上がろうとした瞬間、背後にいたシモンがその肩を強く、痛いほどに掴んで制した。
「逆らう気か?」と、供の和人が腰の刀に手をかける。
(やってやる。この距離なら、抜かせずに首を折れる)
セタリの瞳に、オオカミを顎から引き裂いた時の「狂気」が宿りかけた。
エカシが、やむを得ぬと頭を下げようとしたその時――。
「お役人様! あんな臭い毛皮よりも、もっと良いものがございますよ」
割って入ったのは、勘太だった。
その声にはっと我に返る。
(死闘を潜り抜けた興奮が残っているのか……取り返しのつかないことをするところだった)
勘太は子供らしい愛嬌のある笑みを浮かべ、子供の腕には不釣り合いなほど重い皮袋を、
ずしりと両手で抱えて役人の前に差し出した。
「なんだ、このガキ……俺に楯突く気か」
剣呑な雰囲気を漂わせ始める男を制すように下手に出る勘太。
「滅相もございません。ただ、あちらの毛皮はまだ生乾きで、獣の臭いが酷うございます。
お役人様の御召し物を汚しては一大事。
代わりに、こちらの『秘蔵の干し肉』をお納めください」
勘太が皮袋の口を開けた瞬間、チセの中にニンニクの強烈な刺激と、
あの芳醇なカニの香気が立ち昇った。
ごくり、と役人の喉が鳴るのが聞こえた。
「……ほう。そこまで言うなら、毒見をしてやろう」
役人が干し肉を毟り、口に運ぶ。
瞬間、男の目がカッと見開かれた。
「……っ!? な、なんだこの旨味は。松前の料亭でも、これほど深い味は……!」
「喜んでいただけて何よりです。
仕込みに手間がかかり、一年にこれだけしか作れぬ貴重な品でございます」
「そうか、貴重な品か。それはいい。
また来るぞ! 来年だ、もっと用意しておけよ!」
役人たちは、毛皮のことなど霧散したかのように、上機嫌で皮袋を抱えて去っていった。
つい先ほどまでの喧騒が嘘のように、チセには火の爆ぜる音だけが残った。
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静寂が戻ったチセの中で、セタリは力なく座り込み、かすれた声で問うた。
「……勘太。あの肉、何を渡したんだ」
セタリは息を呑んだ。
返ってくる答えが、どうしようもなく恐ろしいもののような気がした。
「オオカミの燻製肉です。行者ニンニクで味を上書きし、カニの粉末で整えました」
祖父・エカシが顔を青くして絶句する。
「ウェンカムイの肉を、和人の役人に喰わせたというのか……」
セタリも思わず息を詰めた。
ウェンカムイの肉を他者に食わせるなど、聞いたことがない。
勘太は、まるで他人事のように肩をすくめて笑った。
「言ったでしょう。毒を以て、毒を制すと」
その笑顔は、子供のそれではなく、やはりどこか恐ろしい怪物のようだった。
セタリは、自分の拳を見つめた。
十数頭のオオカミを屠る力があっても、あの数人の和人には指一本触れることすら許されなかった。
それに比べて、勘太はどうだ。
矢一本放つことなく、忌むべきゴミとして捨てるはずだった肉で、権力をいなして見せた。
(……俺が戦っていたのは、山だ。
だが、このガキが戦っているのは、もっと得体の知れない『世界』だ)
セタリの胸を焼くのは、勝利の余韻ではなく、かつてないほどの無力感だった。
自らが英雄と呼んだ男の横で、七歳のコンサルタントは、
次の一手を思案するように静かに火を見つめていた。
【地形描写修正のお知らせ】
登山のイメージを避けるため、「山」の表現を「連なる丘」「原野」等へ調整しました。
宗谷地方特有のうねるような地形を再現するための修正です。




