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第48話:毒を以て、薬と成す――ホロケウ(狼)との協定――

本日は18時と21時にも投稿します

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 意識が浮上した瞬間、鼻腔を突いたのは強烈な「獣の脂」と「鉄」の匂いだった。  

 チセ(家)の中は、春の陽気とは裏腹に、冬の終わりを無理やり引きずり出してきたような、

 重苦しくも熱い空気に満ちている。


 セタリはゆっくりと身じろぎした。  

 左肩に、これまでに経験したことのない奇妙な「引きつり」を感じる。  

 痛みではない。肉の内側に、自分のものではない強靭な「何か」が入り込み、

 無理やり傷口を繋ぎ止めているような、異質な違和感。


「……起きた? セタリ!」


 傍らでリラの弾んだ声がした。  

 覗き込んできた従妹の顔は、寝不足のせいか酷いくまができているが、

 その瞳は異様な興奮にギラついている。


「……俺は、どれくらい寝ていた」


「まる二日よ。父さんも母さんも、あなたが熱も出さずに寝てるから驚いてたわ。

 ……勘太が言った通りにね」


 リラはそう言うと、セタリが眠っている間にコタンで起きた「とんでもない急展開」をまくし立てた。


---


 事の始まりは、セタリがほふった十数頭のオオカミの死骸だった。  

 アイヌのことわりにおいて、人を襲った獣は「ウェンカムイ(悪い神)」である。  


 だが、ただそれだけではない。

 アイヌとホロケウ(狼)には、古くから『ある協定』があった。


 山の獣を狩るとき、アイヌは必要以上に血を流さず、

 ホロケウは人里に降りず、互いの領分を侵さない。

 

 それは、言葉ではなく『理』として受け継がれてきた、 山と人との静かな約束だった。


 ホロケウは山の秩序を守る者であり、 人はその秩序を乱さぬ限り、襲われることはない。

 だからこそ―― 人里に降り、群れで人を襲うなど、本来あり得ない。


 そんな「ウェンカムイ」の肉や皮は忌むべきものとして、速やかに穴を掘り、

 この世に未練を残さぬよう埋め殺すのが鉄則だ。  


 祖父・エカシは男衆を連れ、その「処刑」のために現場へ向かった。


 だが、案内役として同行した勘太が、埋めようとするエカシの前に立ちはだかったという。


『これはセタリさんの戦果であり、コタンの大切な資産です。

 ただ埋めてしまうのは、英雄の功績を無に帰す、もっとも愚かな行為だ』


 激怒し、禁忌を説くエカシに対し、勘太は和人の「理」を武器に真っ向から抗弁した。


 『和人には「毒を以て毒を制す」という言葉があります。

  また、「毒を以て薬と成す」とも。

  

  この神が悪いというのなら、その悪いウェンカムイを、

  俺がコタンを豊かにする「良い力」に書き換えてみせます』


 勘太のその言葉に、同行していた男衆の心が揺れた。  

 

 冬の終わり、最高級の毛並みを持った十頭以上のオオカミの皮。

 鋭い牙。  

 

 本音では「もったいない」と思っていた彼らに、勘太は「セタリの代理人」のような顔で、

 禁忌を破るための「大義名分」を差し出したのだ。


『襲われた当人が、これは自分の獲物アセットだと言っている。ならばその意志を尊重すべきだ』


 嘘八百だ。

 セタリは寝ていたのだから。  

 しかし、その強引なロジックにエカシもついに折れた。


 そこからの二日間、コタンは戦場となった。  

 総出で現場へ向かい、凍てつく泥濘ぬかるみの中でオオカミを解体し、皮を剥ぎ、骨を分けた。  

 ウェンカムイを剥ぐという恐怖を、勘太が指示する「効率的な解体手順」が上書きしていく。    


 結果、今やコタンの広場には、見たこともない数のオオカミの毛皮が干され、

 男衆も女衆も、あまりの重労働に精根尽き果てて、

 今は各々のチセで死んだように寝静まっているのだという。


---


「……なんだ、それは。俺の知らない間に、そんなことが……。」


 絶句し、セタリは呆然として天井を見上げた。  

 自分が命懸けで守ろうとしたのはリラやあの和人のガキだというのに。

 当人は俺が寝ているのをいいことに「ことわざ」一つで、いとも容易く、

 村の衆を「」へと転ばせてしまった。


(毒を以て、薬と成す……か)


 セタリは左肩の「糸」を指でなぞった。  

 勘太が施したこの縫い目も、アイヌの理からすれば異質な「毒」に違いない。  

 だが、その毒のおかげで、自分はこうして二日で起き上がれるほどに回復している。


 チセの外から、微かに風に乗ってオオカミの脂の臭いが流れてくる。

 それは本来、不吉の象徴であるはずだった。  

 だが今のセタリには、それがコタンを冬の飢えから救う、黄金の香りのように感じられていた。


「……まるで狐のカムイだな」


 セタリは鼻で笑いながら、むっくりと起き上がった。  

 全身を巡る血が、先ほどよりも熱く、力強く拍動している。    

 

 とんだ急展開だ。  

 

 だが、この不敵な「毒」に中てられた以上、いつまでも寝ているわけにはいかなかった。


 囲炉裏の炭が、静かに赤く燃えている。  

 その傍らで、英雄は自分の肉体に刻まれた「和人の理」を噛み締めていた。


---


 セタリが眠りについた後、俺は一人、囲炉裏の火を見つめていた。

(あれが役人か……思っていたより、ひどいな

 いや、想定内か……。)


 チセの外では、干されたオオカミの毛皮が夜風に揺れている。

 次の手は、もう決まっていた。

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