第47話:眠るセタリと戦士(ウタラ)の勲章
宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン
チセの戸が蹴破るように開いた。
雪崩れ込んできたのは、血と、獣の臭いと、絶望を分かち合う三人の影。
「じいちゃん! 父さん! オオカミが……! セタリが死んじゃう……!」
リラの叫びが、囲炉裏の爆ぜる音をかき消す。
囲炉裏のそばで談笑していたリラの祖父・エカシとリラの父・シモンが、
弾かれたように立ち上がった。
「オオカミだと!? セタリッ!」
シモンが、泥と血にまみれた巨体を勘太の肩から奪い取るようにして抱え上げる。
その顔は、いつもの精悍さを失い、身内を失う恐怖に歪んでいた。
エカシは一瞬で事態を察し、奥へ向かって地響きのような声を上げた。
「サラ! 薬箱だ! セタリが死ぬぞッ!」
奥の仕切りが激しく開き、リラの母――このコタン随一の薬師が、厳しい目をして飛び出してきた。
彼女は手近な毛皮を広げさせると、男たちを怒鳴りつけた。
「騒ぐんじゃない! 囲炉裏の火を強くして!
シモンは水を、じいさまは一番鋭いマキリを持ってきて! ばあさま、キハダの皮を!」
戦場のような慌ただしさの中、セタリが横たえられる。
シモンとエカシが手際よく服を裂き、露わになったその肉体に、一同は息を呑んだ。
全身を染める赤のほとんどは、オオカミの返り血だった。
セタリ自身の傷は、肩や脚に刻まれた数条の牙痕。
「……傷は多いが、浅い。
肩の傷は少し深いが……。
……これなら死ぬことはあるまい」
シモンがほっと息を吐く。
だが、傍らで傷口を検分するサラの目は、少しも和らいではいなかった。
彼女はシモンの楽観をたしなめるように、細い指先で傷の縁を慎重になぞる。
彼女が見ているのは、引き裂かれた肉の「断面」だった。
「シモン、そう楽観できるもんじゃないよ。下手な鉄砲より、狼の牙の方がよっぽど質が悪い。
……見て、この左肩。他はかすり傷で済んでいるけど、ここだけは牙が肉を捉えて、鋭く割れている」
サラが肩に触れると、ぱっくりと割れた傷口から、再び赤い血がじわりと滲み出した。
「……筋肉までは届いていないようだけど、皮下まで裂けてる。
頑丈なセタリなら放っておいても死にはしないだろうけど、
これだと、ふさがるのに一月はかかる。
その間に、熱が出たり、悪い病が入り込んだりすることだって考えられる。
……油断はできないよ」
サラの言葉に、シモンは一瞬、目を伏せた。
「……そうか。俺の考えが甘かった。
すまない、サラ。しっかり診てやってくれ」
悔しさと不安が混じった声だった。
シモンはセタリの肩にそっと手を置き、
その大きな手がわずかに震えていた。
サラは何も言わず温めた水で周囲の血を拭う。
泥を落としきらず、ヨモギを噛み砕いて傷口に擦り込んでいく。
淀みなく動くその手もわずかに震えていた。
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セタリの左肩に刻まれた、一際深い裂傷。
致命傷ではない。
だが、このままでは、強靭なセタリの肉体でも塞がるのに時間がかかる、
後遺症が残る可能性もあった。
(……この傷だけは、放置すると化膿のリスクがある。
それに、この男の代謝なら、縫えば2、3日で繋がるはずだ)
勘太は拳を握りしめた。
野生動物の咬み傷を縫い閉じるのは、現代医学では禁忌に近い。
細菌を閉じ込め、化膿を招き、死を早める可能性があるからだ。
ましてや狂犬病のワクチンなど、この時代には存在しない。
それでも。
「……あの、その傷だけ。……俺に縫わせてください」
サラの手が止まった。
「縫う……? あんた、何を言ってるんだい」
「……早く治すためです。このままだと、動かすたびにここから血が滲みます」
勘太は、囲炉裏の脇にあった強い酒の瓶を手に取った。
自分の手に浴びせ、焼けるような刺激を無視して集中力を高める。
「針を……火で炙ったものを。それと、鹿の腱を。……早く。予後を良くするためです」
勘太の「子供」とは思えない理路整然とした、しかし必死な訴えに、
リラの祖母・ハルが即座に動いた。
彼女は薬箱から、鹿の腱(シニュー糸)と、火で清められた骨針を取り出した。
(シニュー糸……乾けば縮む。
普通の人間なら締め付けすぎるが、この男の肉体なら、これくらい強力な『留め具』の方がいい)
勘太は腱の糸を口に含み、柔らかくする。
針を通し、セタリの肌に触れた。
――熱い。
やはり常人ではない。
冬の終わりの石のように、内側から熱を帯びた、密度の高い肉だ
「……縫います」
針先が、セタリの強靭な皮膚を貫く。
現代のナイロン糸のような滑らかさはない。
ざらりとした、命と命が擦れる嫌な感触。
一針。
一針。
勘太は、セタリの筋肉の動きを読みながら、腱の糸を渡していく。
(全部、閉じちゃいけない。膿を出すための隙間が必要だ……)
勘太は、傷の端をわずか数ミリだけ、あえて縫わずに残した。
サラがそれを見て、小さく頷く。
二人の異なる時代の「知」が、セタリの体の上で重なった瞬間だった。
やがて、縫合が終わる。
サラがその上から、防腐効果のある苔を厚く敷き、布で固く巻いた。
「……見事なもんね。和人は、子どもでもこんな業を身に付けているものなの?」
「……カニ殻で、指を切る仲間がたくさんいたもので」
チセの中には、薬草の香りと酒の匂い。
そしてハルが唱える静かな祈りの声が満ちている。
勘太はセタリの首筋に手を当てた。
ドク……ドク……。
暴走するような拍動が、今は深く、力強い一定のリズムを刻んでいる。
(……繋いだぞ。この人ならこれで持ち直すはずだ)
リラが、従兄の大きな手を両手で包み込み、声を殺して泣き始めた。
シモンはそれを見守り、ハルは火の神へ感謝を捧げるように、囲炉裏の炭を整えた。
囲炉裏の炭が、静かに赤く燃えている。
そのそばで、傷ついた英雄の鼓動が、確かに、力強く脈打っていた。




