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第46話:英雄の器――「サム シネプ」――

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 ――原野は、唸っていた。


 チセの囲炉裏でパチパチとはぜる炭の音ではない。  

 もっと低く、地を這い、空気を震わせるような嫌な唸り。


 セタリは、無造作に放り出されたままの研ぎ石を見つめた。  

 いつもなら昼前には帰ってくるはずのリラと、あの和人のガキ――勘太の姿がない。  


 陽はすでに傾き、晩春の柔らかな光が橙色に濁り始めていた。


「……遅すぎる」


 胸の奥が、冷たい水に浸されたようにざわつく。  

 セタリは無言で立ち上がり、壁に掛けたタシロ(山刀)を帯に差した。  

 勘太が、研ぎ上げた一振りだ。


 チセを出て、リラが好んで薬草を摘みに行く丘へと足を向ける。  

 雪解けの地面は、腐った果実のように柔らかく、足跡を鮮明に残していた。


 セタリは、立ち止まった。


「……なんだ、これは」


 そこに刻まれていたのは、リラの小さな足跡でも、勘太の頼りない足跡でもない。  

 幾重にも重なり、地を抉るような無数の爪痕。    


 オオカミだ。 それも、十や二十ではない。


 セタリはしゃがみ込み、泥に沈んだ爪痕を指でなぞった。

 

 深い。

 

 重い。

 

 走っている足跡じゃない。

 追っている足跡だ。


「……リラ……」


 胸の奥がざわりと揺れた。


 セタリは足跡の向きを確かめ、丘の合間の林へと踏み込む。

 泥濘に残る爪痕は、まるで獲物を追い立てるように一直線に伸びている。


 歩幅が広い。

 爪の食い込みが深い。

 飢えている群れの動きだ。


 途中、二人分の小さな足跡が混ざっていた。

 

 片方はリラのもの。

 

 もう片方も……見覚えがある。

 

 黒い泥に確かに残っている。

 セタリの胸が、嫌な音を立てて跳ねた。


 セタリの呼吸が荒くなる。

 心臓が速まる。

 視界の端が赤く染まる。


「……あああああッ!」


 セタリの喉から、獣のような叫びが漏れた。  

 爆発的な脚力で泥を蹴り飛ばし、セタリは駆け出した。

 足跡は木々の深く立ち並ぶ谷間へ、さらに奥へ――。


 そして。


 巨大なミズナラの木の下に、それはいた。


 灰色の毛並みが、波のようにうごめいている。  


 その中心、細い枝の上。  

 必死に木の枝を振り回し、叫び声を上げるリラの姿。  

 その背後にしがみつき、青ざめた顔で震えている勘太。


 木の下では、一頭の巨大なオオカミが、今まさに跳躍しようと後ろ脚に力を溜めていた。


 セタリは一瞬で距離を測り、泥を蹴って地を裂くように踏み込んだ。

 その巨体が、まるで矢のように前へ走る。


「どけえええッ!」


 咆哮と同時に、セタリの身体が地を離れた。


 跳躍しようとしたオオカミの横面に、セタリの蹴りがめり込む。

 鈍い骨折音と共に、巨体が横へ弾き飛ばされた。


 着地と同時に、セタリはタシロを抜いた。    

 勘太が研いだその刃は、夕闇の中で氷のような光を放つ。    

 一頭が喉元を狙って飛びかかる。  

 セタリは避けない。  

 最小限の動きで、タシロを振り下ろす。


 ――軽い。


 驚くほどに、手応えがなかった。  

 鋼が肉を断ち、骨を割り、反対側へ抜ける感覚。  

 オオカミは悲鳴を上げる暇もなく、二つに裂けて泥に沈んだ。


「……来い! カムイの慈悲など、一滴も残してやらん!」


 セタリの理性は、すでに蒸発していた。    

 右から迫る牙を左腕で受け流し、同時に腹部を抉る。  

 背後から飛びついた奴の頭を掴み、そのまま立ち木に叩きつける。    


 引っかかれ、噛みつかれ、肩の肉が切り裂かれる。  

 だが、痛みなど感じない。  

 ただ、目の前でうごめく「敵」を、一つ残らず静かにさせたいという衝動だけが、

 彼の体を突き動かしていた。


 タシロが、血の尾を引きながら宙を舞う。  

 一振りごとに、灰色の塊が物言わぬ肉塊へと変わっていく。    

 勘太の研いだ刃は、どれだけ返り血を浴びても、どれだけ骨を叩いても、その冴えを失わなかった。  

 吸い込まれるように肉に入り、淀みなく命を刈り取る。


 最後の一頭――。  


 群れのリーダーであろう、銀色の毛を持つ老狼が、セタリの喉笛に牙を剥いた。  

 セタリはタシロを捨て、素手でその顎を掴んだ。


 ミシミシと、骨が軋む。  


 セタリの瞳に、黄金色の殺意が宿る。    


 そのまま、力任せに、その顎を引き裂いた。


 …………。


 静寂が、戻ってきた。


 立ち上るのは、冷えた空気と混ざり合う、セタリの体から発せられる真っ白な蒸気。  

 辺り一面、泥と雪と、赤黒い鮮血が混ざり合った地獄絵図だ。


 動くものは、もう何もない。


 セタリは、仁王立ちのまま天を仰いだ。  

 全身から滲む血が、ボロボロになった服をさらに赤く染めていく。  

 肩で息をするたび、肺が熱い。  

 視界が、ゆっくりと白んでいく。


「……セタリ……」


 木の上から、震える声が聞こえた。    

 セタリは、その声にわずかだけ口角を上げた。  

 安心させようとしたのか、それとも戦いの昂揚が残っていたのか。  

 そのまま、糸が切れた人形のように、セタリの巨体が泥の中へと崩れ落ちた。


「セタリさん!」


 勘太が、木の上から転げ落ちるように滑り降りてくる。    

 地面に横たわるセタリの体からは、まだ猛烈な熱気が立ち上っていた。  

 返り血で真っ赤に染まっているが、その下にある鼓動は驚くほど力強い。


「セタリさん……!?」


 出血は多い。

 だが、よく見ればそのほとんどは返り血だ。  

 肩や脚に刻まれた牙の痕も、厚い筋肉に阻まれて致命傷には至っていない。

 深い溝というよりは、無数の「勲章」のような切り傷だ。


 リラが泣き叫びながら、セタリの体を揺さぶる。  

 勘太は、震える指先をセタリの頸動脈に当てた。


 ドク……ドク……。


 指先を跳ね返すような、太く、重い拍動。  

 その生命力に触れた瞬間、勘太の瞳に「コンサルタント」の光が灯る。  

 安堵が冷徹な脳に上書きされ、急速に視界がクリアになっていく。


(……生きてる。これだけの群れを相手にして、この程度で済ませたのか、この男は)


 勘太は、返り血で赤黒く汚れたセタリの寝顔を見つめた。    


 たった一人で、十数頭の獣を屠り、そして平然と息を吐いている。  

 現代の理論も、効率も、文明も関係ない。  

 ただ剥き出しの「生存本能」だけで世界をねじ伏せる。


 その圧倒的な光景。


(俺が探していたのは、これだ。)


 リラが「セタリ、起きて!」と縋り付く傍らで、

 勘太はセタリの傷口を確認しながら、心の中で確信していた。


(この男は、ただの猟師じゃない。

 この時期、この場所に、こんな豪傑がいたなんて記録は知らない。

 この歳で、これだけのことができる人物の名が、後世に残らないはずがない……。

 

 あるいは......

 

 今日のこれが原因か?)


 勘太の目は、もはや恩人を案じるだけの目ではなかった。  

 それは、手に入らないはずの「伝説の遺物」を手に入れた、野心溢れる収集家の目だった。


「リラ、大丈夫だ。セタリさんは寝てるだけだ。……さあ、今のうちに帰るぞ」


 勘太はセタリの大きな腕を引き、自分の肩に乗せた。  


 重い。


 だが、その重みこそが「英雄の器」の重さだと感じられた。


 晩春の夜が降りる。  


 泥濘を引きずる足音は、先ほどまでの絶望を振り払い、確かな「野望」のリズムを刻んでいた。

お読みいただきありがとうございます。


「歴史の記録に残っていない英雄」セタリ。

本来なら、あの絶望的な状況で彼のタシロ(山刀)は折れ、妹を守って命を散らすはずの運命でした。

しかし、勘太がその刃を「現代の技術」で研ぎ澄ませていた。


そのたった一点の介入が、死ぬはずだった男を「生きた英雄」へと変えてしまいました。


「セタリ、かっこよすぎるだろ!」

「勘太の目が完全に投資家のそれ……!」

「歴史変えた?」


と思ってくださった方は、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、

執筆の何よりの活力になります!


【地形描写修正のお知らせ】

宗谷地方の地理的条件に基づき、森の描写を一部修正しました。

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