閑話:三つの道、北の布石 ―投資の真意―
宝暦十二年(一七六二年) (仲春) 蝦夷地・宗谷沖
櫂が水をかく規則的な音だけが、春の海に響いていた。
徳蔵さんの操る小舟は、宗谷の村を離れ、海岸線に沿って南へと進んでいる。
「……朔弥と鉄太の行き先、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか」
俺――勘太が呟くと、徳蔵さんは前を見据えたまま鼻で笑った。
「感傷は足を鈍らせるが……まあ、ここまでくればもういいだろ。
……朔弥は、伊勢屋の旦那のところへ送った。
旦那は神童に会いたいだけで、その神童がお前だとは知らない。
それで、朔弥が身代わりを買って出たらしい。
徳也も納得済みだ。
待遇は丁稚だが、粗雑には扱われんだろう。
鉄太も旦那の伝手で、北前船の乗り子(船員見習い)だ。
朔弥のことを知ったら、あいつだけにいい格好はさせられねえとかぬかしやがって。
……お前には神童は無理だって言ったら、じゃあ船乗りになるっていうから、
なんとか旦那に頼み込んだんだ。
鉄造は少し寂しそうだったけどな。
……今頃、荒波に揉まれてゲロでも吐いてるだろうよ。
しかし、愛されてるなあ、お前」
俺は小さく息を吐いた。
朔弥は伊勢屋で帳簿を整理し、商いの流れを肌で覚えている。
鉄太は北前船で荷の積み下ろしや航海の雑務をこなし、海上での物流の実際を学んでいる。
二人とも、「宗谷商会」を本物にするために必要な現場へ送られたのだ。
(朔弥が俺の身代わりか……あるいは朔弥なら俺の評判を踏み台にする腹積もりもあるかもな。
鉄太は……なんも考えてないな、多分。
朔弥に対するライバル心だろ、絶対。
九兵衛は神童に会いたいとは言っていたが、
奉公を受け入れたり、
北前船の乗り子にしてもらえたり......ちょっと対応がよすぎないか?
人質とまではいかなくても何かの布石かもな。
……読めない、やはり一度ぐらい会っておくべきだったか?)
「九兵衛さんも随分と気に入ってくれたものですね、
寒村の子供なんかの世話を焼くとは……」
「そういうこった。だがな、勘太」
徳蔵さんが鋭い視線をこちらへ向けた。
「お前さんなら、九兵衛の旦那を手玉に取って
松前の中心でふんぞり返って商売をすることもできたはずだ。
……なぜ、あえて俺達とは違う『理』で動く、アイヌのコタン(集落)へ向かう?
カニのときみたいに連中が見過ごしてるお宝でもかっさらうつもりか?」
俺は懐の木簡を指先でなぞり、水平線の先を見つめた。
「『危機管理』ですよ、徳蔵さん」
「『危機管理』……?」
「村では好きにやらせてもらってましたが、松前の商人たちが相手だとそうはいかない。
俺が欲しいのは、大人と対等にやり合える『力』。
それを支える供給の流れです。
そして、いざというときに避難できる場所。
徳蔵さんのおっしゃる通り、彼らは我々とは異なる『理』で動く。
でも、彼らの『理』と和人の『理』を俺の『利』で繋ぐことができれば、彼らを味方につけられる。
……それができれば、たとえ藩に睨まれても、俺たちの商流を止めることはできなくなる」
松前藩という「独占企業」に対抗するための、新たなパワーベースの構築。
これは、最果てへの左遷ではなく、未来への戦略的投資だ。
「……『り』で繋ぐ、だと?
……蛙の子は、蛙だな。
お前さんの親父(源蔵)も、昔はそんな大層な理屈を並べて海へ飛び込んでたよ」
「蛙じゃなくて、龍ですよ。
……俺の右腕にも、封印された黒い龍が宿っていますから」
「……ガハハ! 違えねえ。
二代続けて『うつけ』の龍とは、宗谷も安泰だな!」
徳蔵さんは豪快に笑い飛ばした。
その声は、春の冷たい潮風にさらわれて、広い海へと溶けていく。
だが、笑い声の余韻が消える頃、徳蔵さんはふと、射抜くような視線を俺へと戻した。
櫂を握るその節くれ立った大きな手が、わずかに動きを止める。
俺の隣にいたはずの鉄太と朔弥は、
すでにそれぞれの『現場』――商いの心臓部と物流の動脈へと送られた。
たった一人、和人の庇護が届かぬ奥地へと舵を切った俺の横顔に、海の男は何を見たのか。
「しかし、それにしたって、お前、まだ七つだろ?
鉄太と朔弥が奉公に出て、お前だけ残るのは気が引けたかもしれんが……
一、二年後でもよかったんじゃないか?
そうすりゃ幾分かやりやすいだろうに」
「……逆ですよ。今の年齢でないとできないこと、子どもだからこそ有利になる場合もあります。
今の年齢ならアイヌ側もたいして警戒しないでしょ?
妙な行動をしても『子どものすること』で済むことだってある。
宗谷でもそうだったでしょ?」
俺がにやりと笑うと、徳蔵さんは今度は笑えない様子だった。
七つのガキの瞳の奥に、打算と狂気が入り混じった『何か』を見てしまったような顔をしている。
そのまま、再び波を切る音だけが周囲を支配した。
徳蔵さんはそれ以上何も言わず、ただ何かを飲み込むようにして力強く櫂を動かし、
俺たちを運ぶ小舟を北の大地へと押し進めていく。
道なき原野の奥に、俺の獲物たちが、そして新たなビジネスパートナーたちが待っている。
「さて――まずは、現地協力者を“作る”ところからだな」
俺は和人の下駄を脱ぎ捨て、ぬかるんだ大地へと足を踏み出した。
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