第42話:世界を見に行く ――「宗谷商会」第二創業――
第一部完結。
そして物語は一年後、新章の幕開けへ――。
宝暦十二年(一七六二年) (仲春) 蝦夷地・宗谷
親たちの真意を聞かされた、あの重苦しくも晴れやかな夜から一夜が明けた。
朝靄が立ち込める中、俺は逸る気持ちを抑えきれずに鉄太と朔弥の家へと向かった。
昨夜の今日だ。
彼らもまた、自分たちの進むべき道を再確認したはず。
これからの展望や、もしかしたら少しばかりの湿っぽい別れの言葉を
交わすことになるのかもしれない。
そんなことを考えながら扉を叩いた。
しかし、返ってきたのは静寂だけだった。
「……いないのか?」
不審に思って周囲を探すと、ちょうど通りかかった村の衆が、
俺の姿を見て気の毒そうに肩をすくめた。
「鉄太なら、親父さんと夜明け前に出たよ。別れを惜しんで足が鈍るのを嫌ったんだろうな」
その言葉に、俺は呆然とした後、思わず小さく吹き出してしまった。
「……徹底してるな、あのおっさん」
感心を通り越して、もはや清々しい。
別れの挨拶すら許さない。
それが、これから「外」へ出る若者に対する彼らなりの厳しさであり、
愛着を断ち切るための儀式なのだ。
朔弥に至っては数日前に村を出ていたらしい。
本当に、もう、とんだ茶番を演じたものだ。
俺は二人が去ったであろう方角を一度だけ見据え、静かに頭を下げた。
それからの日々は、嵐の前の静けさのような、それでいて驚くほど密度の濃い時間だった。
雪がしんしんと降り積もる間、俺は作業場に籠もりきりになった。
これまで培ってきた技術の集大成として、油煮の工程をさらに洗練させる。
特に「カニの油煮」は、保存性と味の両立において現時点での最高傑作と言えた。
同時に、俺がいなくなった後の村のことも考えた。
「仕組み」はできている。
後は俺がまだ伝えきれていないノウハウを引継ぎ資料にするだけだ。
肥料の配合比率、油煮の温度管理、そして作業場の動線。
それらをすべて、誰がやっても一定の品質が保てるようにマニュアル化した。
そうして、厳しい冬の終わりを告げるように雪解け水が入り江に流れ込み始めた頃、
ようやく吉報が届いた。
「受け入れ先が決まったぞ、勘太」
徳蔵さんの言葉に、俺は深く息を吐いた。
徳蔵さんの伝手を頼り、新しい目的地を探してもらっていたのだ。
俺が用意した「カニの油煮」と「カニ粉末」を、
徳蔵さんが知り合いの有力者に手土産として届けてくれたのだが、その結果は劇的だった。
「その『カニの油煮』を一口食った途端、向こうの主人が顔色を変えてな。
『この味を作った男なら、いくらでも面倒を見る』と二つ返事だ」
本当に、徳蔵さんには頭が上がらない。
彼の信用と、俺の技術が噛み合った瞬間だった。
ついに、旅立ちの日がやってきた。
入り江には、徳蔵さんの操る小舟が静かに揺れている。
見送りに来たのは、村の衆と、子供たち、そして少し離れた場所に立つ父と母だった。
父は腕を組み、相変わらずの仏頂面だ。
母は手拭いを握りしめ、何かをこらえるように俺を見つめている。
俺は最後にもう一度、三吉に向き合った。
「伊勢屋との取引が本格的に始まれば、村にはこれまで以上の金が入る。
だが、それをただ分け合うな。
次の冬の蓄えと、道具の更新、そして子供たちの教育に回してくれ。
提言はそれだけだ」
「分かってるよ、勘太。
お前が戻ってきた時に、驚くような村にしておいてやる」
三吉の頼もしい言葉に頷き、俺は桟橋を歩き出した。
徳蔵さんの待つ舟へ。
一度でも振り返れば、この一年の思い出が、温かな村の匂いが、俺を引き留めてしまうかもしれない。
そう確信していたから、俺は一度も後ろを見なかった。
「準備はいいか、勘太」
舟に乗り込むと、徳蔵さんが低い声で問いかけてきた。
その瞳には、今まで見たこともないような鋭い光が宿っている。
「……いいか、よく聞け。これから向かう先は、お前たちが知る『和人の町』じゃねえぞ」
「わかっています」
俺は真っ直ぐに、水平線の先を見据えた。
和人の町よりもさらに深く、広く、混沌とした場所。
そこにはまだ見ぬ食材があり、技術があり、そしてこの世界の真実が転がっているはずだ。
「ええ。より深く、より広い場所へ。……『世界』を見てきます」
徳蔵さんが力強く櫂を漕ぎ出す。
小さな舟は、入り江の穏やかな波を切り裂き、広大な大海原へとその舳先を向けた。
背後に残した村の影が、春の霞の中に消えていく。
俺の、本当の冒険がここから始まるのだ。
---
一年後――。
宗谷の集落から遠く離れた、山深いアイヌのコタン(集落)。
中央のチセの炉には火の神が宿り、その向こうにはカムイの出入りする窓が静かに口を開けている。
炉のそばには、白く削られたイナウが何本も立てられていた。
それはこの場の言葉が、人だけでなくカムイにも向けられている証だった。
その周りを、男たちが静かに車座になっていた。
その一角。
八歳になった俺は、アイヌの伝統的な文様が刺繍されたアトゥシ(樹皮衣)を纏い、
平らに削り出された巨大な板に向き合っていた。
「一つの村だけが豊かでも、意味はない。
人の大地(アイヌモシㇼ)が滅びれば、村もいずれ滅びる。
大事なのは……すべての村が生き延びることだ。」
俺の口から出るのは、この一年で叩き込んだアイヌの言葉だ。
向かいには、青いガラス玉を首にかけ、鋭い眼光を放つ十歳ほどの少女が座っている。
黒髪を後ろで束ねた少女は、俺が広げた地図の上の「交易路」をじっと見つめ、不敵に口角を上げた。
「……勘太。あなたの言う『シクミ』、面白いわ。
でも、その理屈は、森の神にも通るの?」
少女は腰に差したマキリ(小刀)の柄を弄びながら、俺を試すように笑う。
その時、俺のすぐ背後に控えていた一人の青年が、低く落ち着いた声で応じた。
「通るさ。こいつが言うならな」
熟練の狩人のような佇まいを見せる青年。
彼が口を開いた瞬間、車座になっていたコタンの男たちの肩が、びくりと強張るのが見えた。
その短い一言だけで、その場を支配していた疑念の空気が霧散していく。
俺は、煤を膠で練った黒と、酸化鉄の赤で描かれた、
緻密な図解が刻まれた木の板を彼女の前に差し出した。
これは、前世で学んだ「経営戦略」を、この地の厳しい掟に落とし込んだ事業計画書。
和人の算術と、コタンの理が炭の線の上で交差する
――この世界に一つしかない、私だけの羅針盤だ。
「神様への捧げもの(カムイノミ)も含めて計算済みだ。……さあ、始めようか。第二創業だ」
小さな指先で板の中央を叩く。
見上げるような視線の先にいる少女を、俺はかつてのクライアントを説得する時と同じ、
静かな熱量で圧倒した。
窓の外には、宗谷よりもさらに高く、広大な北の空が広がっている。
第一部・宗谷漁村編、ここまでお読みいただきありがとうございました!
「いよいよヒロイン登場! 不敵に笑うアイヌの少女の強キャラ感にワクワクした!」
「振り返らずに新天地へ向かう、勘太の決意と成長が格好いい!」
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