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第31話:再投資の鉄則 ――「三両」を溶かし、未来を鋳る――

ついに手にした「三両一分」という大金。 寒村の常識では一生遊んで暮らせるほどの黄金を前に、勘太は一切の躊躇なく、それを「未来への燃料」として使い切ることを宣言します。 竹籠の罠、揃いの壺、そして高価な菜種油。 子供たちの困惑を、理詰めの戦略で「確信」へと変えてゆく勘太。 最果ての「工場」が、真の姿を現します。

 宝暦十一年(一七六一年) (仲夏) 蝦夷地・宗谷


 作業場の中央、煤けた板の間に、一袋の革袋が転がっている。  

 口を広げ、ぺしゃんこに潰れたその中身は、もはや空だ。


 徳蔵に預けていてた「三両一分」という黄金。

 この寒村の漁師が数年がかりで命を懸け、ようやく手にできるかどうかの大金は、今や影も形もない。


 無論、盗まれたとか失くしたという話ではない。

 油煮を作るための原材料の購入と設備投資に使っただけだ。


「……勘太。お前、正気かよ」


 鉄太の声が、地を這うように低く響いた。  


 彼は空の袋を掴み上げ、信じられないといった様子で逆さに振った。

 埃ひとつ落ちてこない。

 その大きな掌が、怒りと絶望で激しく震えている。


「これ、いくらあったと思ってんだ。三両だぞ。

 ……これだけありゃ、親父たちと約束した『船』の代金の半分にも届くんだ。

 俺たちは、そのために必死にカニを剥いて、徳蔵さんにも付き合ってもらったんじゃねぇのか!」


 鉄太が俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。

 その目は血走っていた。

 三吉や慎也も、声をかけることすらできず、青ざめた顔で俺たちを見つめている。

 朔弥だけは何かを見定めるように冷めた目で成り行きを眺めていた。


「一銭も残さず使い切っただと?

 俺たちの先がかかってるんだぞ、お前はたった数日で何に替えたんだ! 言ってみろ!」


 怒号が狭い作業場に反響する。

 だが、俺は、その怒りの熱をあえて無機質な理屈で押し返した。


「当たり前だ。銭を蔵に寝かせておいても、腹は膨れんし次の銭も産まん。

 道具に替えりゃあ、そいつが働いて銭を連れてくる。」


 俺は冷徹に言い放ち、作業場の奥を指差した。  

 そこには、徳蔵に頼んで松前から運び込ませた「投資の成果」が並んでいた。


 まずは、大量のカニ専用の罠だ。  

 今までは網にかかったものを分けてもらうだけだった。


 だが、これからは違う。カニ専用の籠を沈める。

 数で獲るのだ。  


 新しく導入したのは松前の職人に特注した、頑強な竹組みの罠だ。

 カニが一度入れば出られない構造、かつ一度に数匹を捕獲できる容量。


 徳蔵さんが普段の漁では刺し網を使っているという話を聞いた時から、籠罠の導入は考えていた。

 手付金が入ったおかげで、竹を割って自作するという

 気の遠くなるような工数をショートカットできた。


 金で「時間」を買ったのだ。


 鉄太は忌々しげにその籠を睨みつけたが、俺は構わずに続けた。


「いいか、網はな、『余計なもの』が掛かりすぎるんだ」


 俺は籠を手に取り、入り口の『返し』の部分を指で弾いた。


「網を上げれば、魚もいればゴミも混じる。

 カニの足を折らずに外すだけで半日仕事だ。

 

 だが、こいつは違う。

 

 この入り口の大きさと餌の匂いは、

 カニだけを呼ぶように設計してある。

 他の魚はいらない。

 

 俺たちが欲しいのは『カニ』という金になる資源だけだ」


「カニだけだと……?」


「網は一度に獲れる量は多いが、何がどれだけかかるかは揚げてみるまで分からない。

 例えるなら一か八かの博打だ。

 

 だが、この籠罠は違う。

 

 海に沈めておけば、俺たちが飯を食ってようが寝てようが、潮が満ち引きする間ずっと、

 カニだけを誘い込み、閉じ込め続ける。


 一度入り込めば、逆茂木さかもぎと同じで二度と出られん。

 しかも網と違って中で暴れねぇから、身も殻も傷一つつかない。

 

 大店の旦那に出せるような『極上品』のまま、生かして手元に届くんだ」


 俺は、並べられた二十個近い籠を見渡した。


「いいか、鉄太。これからは『りょう』じゃない。海の中に俺たちの『畑』を並べるんだ。

 網を繕う暇も、魚を仕分ける無駄も全部捨てる。

 カニだけを、最短の時間で、最高の状態で手に入れる。

 ……これが『商い』のやり方だ」


 鉄太の拳が、微かに緩む。

 彼は籠の『返し』の構造を、現場の人間としての目で確かめていた。


「……なるほどな。

 網だと、カニと一緒に掛かった雑魚を外すのに、

 徳蔵さんたちの手をずいぶん煩わせちまってたからな。

 この籠なら、引き上げて中身を出すだけで済む。

 

 徳蔵さんたちの手間が減る分、俺たちも一番いい状態のカニをすぐに受け取れるってわけだ……。」


 沈黙が流れる。


「……理屈は分かった。だがな、勘太。

 もしこれでカニが獲れなかったり、九兵衛がそっぽを向きやがったら、

 俺はお前を海へ放り込むからな。」


「……ああ。その時は好きにしろ。

 だが、俺が沈む前に、この籠が銭を連れてくるのが先だ」


 俺は鉄太の刺すような視線を正面から受け止め、微塵も揺らがずに言い返した。  

 賭けているのは鉄太たちだけではない。

 俺もまた、自分たちが作ってきた組織の命運を、この竹の塊に全張りしているのだ。


 鉄太は忌々しげに空の袋を床に叩きつけると、荒い鼻息をついて背を向けた。

 

 納得はしていない。

 

 だが、俺の「理屈」が、感情をねじ伏せるだけの強度を持っていることだけは、

 認めざるを得なかったのだろう。


(汎用性を捨て、特化することで歩留まりと品質を最大化する。

 そして、パートナーの負担を減らし、全体の回転率を上げる。

 これが規模の拡大スケーリングの鉄則だ)


「じゃあ、俺からもいいかな?」


  鉄太の怒りが落ち着いたのを見計らったかのように、朔弥が前に出た。


 彼は懐から、紐で綴じられた数枚の薄い木簡を取り出した。

 表面には、徳蔵が松前で支払ってきた品々の名目が、細かな墨文字でびっしりと書き連ねられている。

 

「……勘太。鉄太の言う通り、籠の利は分かったよ。

 だが、この『壺』だ。こいつだけは、どうしても納得がいかない。」


 朔弥が、煤けた床に置かれた新品の壺を一つ、指の背で叩いた。

 キィン、と高く澄んだ音が作業場に響く。


「貰い物を直して使えば銭はもっと浮いたはずだ。

 三両を使い切る必要なんて、どこにもなかっただろ?

 ……なんでわざわざ、松前の高い店で、こんな小綺麗な揃いの品を買わせたんだ?」


 朔弥の目は、数字の辻褄が合わないことへの苛立ちで尖っている。

 彼にとっての正解は、一文でも多く「銭」を袋に残すことだ。


「朔弥。前のはあくまで味を見せるための見本だった。

 だから器が不揃いでも、徳蔵さんの信用で押し通せたんだよ」


 俺は新品の壺の底、そこに鋭く刻まれた「宗谷」の印を朔弥に見せた。


「だが、今回は正式な商いだ。

 九兵衛さんは、俺たちがどれだけ本気で、この先も商売を続けるつもりかを見ている。

 バラバラの汚い壺が並んでいたら、その時点で『田舎者の小銭稼ぎか』と足元を見られるんだよ」


「……それじゃあ、中身が良くても値が叩かれると?」


「そうだ。俺たちが買ったのは器じゃない。

 九兵衛さんに『この印がある限り、中身は常に最高だ』と、

 蓋を開ける前から信じさせるための折り紙だよ。」


 俺は、並べられた五十個近い壺の山を、指一本でなぞった。

 

「一度その信用が染み付けば、他所がどれだけ安いカニを持ってきても、

 九兵衛さんはこの印がない品は怖くて買えなくなる。

 

 高くても、俺たちの『宗谷印』を指名するようになるんだ。

 目先の銭を惜しんで、将来の独占権を逃す方が、よっぽど大きな損失だぞ」


 「損失」という言葉に、朔弥の手が止まる。

 

 彼は数字に厳しい。

 だからこそ、将来的な実り(リターン)を損なうことの危うさを、誰よりも早く理解した。


「信じさせるための、印……」  


 朔弥は手の中の壺をもう一度見つめ、それから整然と並ぶ「宗谷印」の群れを静かに見渡した。


「……わかったよ。それじゃあ、この高い壺代も無駄じゃないってことだな。

 ……よくも、こんなこと思いつくもんだ」


 朔弥は苦笑いしながらも、納得した様子で手元の帳面に筆を走らせ始めた。  

 淡々と事実を書き記すその横顔には、もう無駄遣いを疑う色はなかった。


(外装を整え、品質を規格化することで、取引コストを劇的に下げる。

 これがプレミアム・ブランドへの第一歩だ)


 最後に、俺は数樽の「菜種油」の蓋を重く叩いた。


「鉄太、魚の油じゃなく菜種油をわざわざ松前から取り寄せたのも同じ理由だ。

 三吉、お前ならわかるだろ。魚の油で煮たカニは、冷めりゃあ特有の生臭さが鼻につく。

 自分たちで食うなら我慢もできるが、松前の大旦那に売る品でそれをやれば、一発で信用を失うぞ」


 俺は樽の隙間から漏れ出る、菜種特有の芳醇で柔らかな香りを指し示した。


「菜種油なら、保存も利くし味も濁らん。

 何より、この油で揚げ煮にすれば、カニの身の甘みが一際引き立つんだ。


 ……いいか、九兵衛さんのような大店おおだなが求めているのは、

 腹を満たすための食い物じゃない。

 江戸の粋人が喉を鳴らすような『贅沢』だ。

 

 魚の臭みが残る安物じゃ、どれだけカニを詰め込んでも二束三文で叩かれる。

 だが、この透き通った菜種油で仕上げれば、それは立派な『美味』に化けるんだよ」


 俺は、戸惑う子供たちを一人ずつ見据えた。


「外へ出す品なら、『仕上がりの確かさ』こそが何よりの武器になる。

 油一樽の銭を惜しんで、カニ五十壺を台無しにするのか。

 それとも、極上の油を使って、一壺の値を倍に跳ね上げるのか。

 

 ……俺は、後者を選んだだけだ」


「……一壺の値を、倍に……」


 鉄太が、喉を鳴らした。  

 

「それに、一番大事なことを忘れてるぞ」


 俺は空になった革袋を指先で弾き、乾いた音を立たせた。


「伊勢屋の九兵衛さんが、なんで『三両一分』なんて大金を、徳蔵さんに預けたと思う?

 ……あの大旦那は言ったんだ。『十壺でも百壺でも、全部買い取ってやる』ってな。

 この手付金は、その約束の印だ」


 鉄太と朔弥の動きが止まる。


「いいか。売れるかどうかも分からねぇ博打を打ってるんじゃない。

 九兵衛さんという、松前でも指折りの大店が『全部買う』と太鼓判を押して、

 先に銭を支払ってくれたんだ。


 出口はけぐちはもう決まってる。

 あとは俺たちが、その期待を上回る『極上品』を、一刻も早く、一壺でも多く届けるだけなんだよ」


 俺は、整然と並ぶ壺と菜種油の樽を力強く指し示した。


「九兵衛さんが百壺欲しいと言った時、

 『すみません、油が足りません』『壺が足りません』なんて抜かしてみろ。

 二度と相手にされねぇぞ。

 

 この三両は、その『千載一遇の好機』を確実に掴み取るための、網じゃねぇ、鉄の鎖なんだ」


 「全部買い取ってやる」という大旦那の言葉の重みが、ようやく二人の腑に落ちたようだった。  

 

 三両という「過去の成果」をすべて溶かし、

 効果の不確かな「仕掛け」と見えない「看板」、

 そして自分たちには縁のない「品質」へと変換する。


 現代の経営では当然の再投資だが、

 明日をも知れぬ彼らにとっては、命を懸けた大博白に見える。


 だが、出口が決まっているこの投資は、

 俺にとっては計算済みの勝利でしかなかった。

お読みいただきありがとうございます。 今回は、得られた利益を次なる成長へ再投資する「規模の拡大スケーリング」がテーマでした。 籠罠は「現場の効率」を、揃いの壺は「ブランドの信用」を、菜種油は「品質の安定」を。 すべての支出に明確な理由があるのが、勘太流の経営です。 次回、この「仕組み」の凄まじさを、徳蔵と九兵衛が身をもって知ることになります!


「勘太の投資判断がカッコいい!」と思っていただけたら、ぜひブックマークや評価をお願いします!

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